終章 旅立ち
慶応四(一八六八)年、三月。
江戸決戦は無事回避され、徳川家の家名断絶も免れた。
けれど、そのことで、戦をしたくて仕方なかった気持ちのやり所に困ったらしい薩長軍は、言い掛かりを付けて、結局戦争へなだれ込んだ。
会津を始めとする東北諸藩へ、半ば一方的に喧嘩を吹っ掛ける形で始まった戦は、やがて日本最北の地までも飛び火して行ったらしい。
けれど、その辺りの詳しい話は、あたしの耳にまでは届かなかった。
あたし達はあたし達で、江戸城の無血開城前後の処理に追われていたからだ。
いつしか新政府軍と呼ばれるようになった討幕軍と、幕府との間で、一応の終戦交渉が纏まったその年の四月、あたしと、家茂の産みの母君である実成院様は、江戸城から清水邸へ移った。
義母君こと天璋院様と、十三代将軍生母であられる本寿院様は、一橋邸へ移られた。
あたし達が江戸城を後にした翌日、慶喜は、水戸へ退去。
新政府軍との約束通り、謹慎生活に入ることになる。
慶応四年の閏四月には、徳川家の新たな当主として、当時、田安家を継いでいた六歳の亀之助が立った。
十五代として亀之助を立てるようにと言った家茂の遺志に、ちょっと遅れて従った形だ。
徳川宗家は、その年の五月、駿府へ移封となった。石高も七十万石まで削られたものの、三月に約された通り、その地での家名存続を許された。
その年の九月八日、元号は慶応から明治へと改められる。
家茂が亡くなってからここまで、中々激動だったと思うけど、江戸の地での徳川の心配が要らなくなったことで、あたしとしては、ようやく一区切りが付いた心地だった。
そこで、かねて決めていた通り、翌・明治二(一八六九)年一月、わずかばかりの供を連れて、京への里帰りを決行した。
ただ、その後、程なく行われた首都遷都に伴って、天皇家一族が、東京と改名された江戸へ揃って移ってしまった為に、京の都は事実上、あたしにとっての縁者が誰もいない状態だった。
それでも、京は京だ。
人がいなくなってしまったからと言って、あたしの生まれ故郷であることに変わりはない。
当分ゆっくりするつもりだった。
だけど、あたしが結果的に一人で京にいるのをもの凄く心配したあたしの甥――つまり、今上帝が、度々東京へ戻って来るようにと促したものだから、結局それに追い立てられる形で、京都滞在は約五年で終わりを告げた。
それが、かれこれ三年前の話だ。
そして今、明治十(一八七七)年、九月。
あたしは、この八月に、にわかに脚気を患ってしまって、ここ箱根にある、塔ノ沢温泉へ療養に来ていた。
***
(いーい天気……)
ぼんやりと宿の庭を散策しながら、あたしは何気なく空を見上げた。
江戸に輿入れして来た時も、渡り廊下から丁度同じような青い空が覗いていたっけ。
あの時と違うのは、今のあたしは籠の中の鳥ではない、ということと、隣に――家茂がいないこと。
閉じこめられた大奥の自室前の濡れ縁から見上げた空もやっぱり同じように青くて、でも隣にはいつも家茂がいたのに。
そんなことを思いながら、ふと庭へ戻した視線の先にいたのは、意外な人物だった。
意外って言うよりはそう――有り得ない。ここに――否、この世にいる筈のない人。
「……家……っ」
口から出掛けた言葉は音にならなかった。
その男性は、ただふわりと、悪戯っぽく微笑って、あたしに手を差し伸べる。――生前と変わらない、あの笑顔で。
雲を踏むような、とは正にこういう時に使うんだと、あたしは思った。
けれど、身が軽い。
何もかも、脱ぎ捨てたような身軽さを覚えながら、あたしは迷うことなく家茂の元へ走った。
(了)
©️和倉 眞吹2014.
読了下さった皆様に、心からの感謝を込めて。
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(加筆修正 二〇一三年十一月十七日脱稿
加筆修正・第二回 二〇一五年四月一日未明脱稿)




