第十二章 運命の再会
あの腹立たしい古狸――基、岩倉具視の訪問から、約十日が過ぎた。
その間に、江戸には、京へ使いに出していた侍女の一人が戻って来ていた。
彼女の京滞在中の話は、聞けば向こうの対応も何とも頭にくるものだったらしい。
何でも、あたしの直筆の嘆願書を、御所へ持ち込むなと言って、彼女を牽制していたというのだ。
「その折りには、嘆願ならば、宮様自ら京へ上られたしというご意見もあらしゃりまして」
というのが、彼女の言だ。
全く、人をバカにするのにも程がある。
朝廷は宛にならないと、早々に見限った彼女は、彼女自身の伝を頼って奔走してくれたという。そして、どうにか徳川家の存続だけは約束を取り付けて、こうして江戸へ戻って来たのだ。
同様の内意は、一月十六日付けで、あたしも実麗伯父様からも聞いているから、確定事項だと思いたい。
残る憂慮は、慶喜の助命嘆願だけど、徳川家取り潰しと、何より江戸総攻撃の危険が去った訳じゃない。
何せ、江戸への進軍が止まったという話だけは、ついぞ耳に入って来ないのだ。
天璋院様も、ご自分の伝を頼って色々動いて下さっているらしいけど、成果は同じく芳しくないようだし……。
口頭だけで、「相分かった」とか言って、あたし達を黙らせておいて、江戸に総攻撃を仕掛ける、ということも充分考えられる。
本当に、人をナメてるとしか言い様がない。
(……ってゆーか、恋する女をナメてるわよね)
朝廷側は、家茂が亡くなったことで、あたしを江戸へ縛り付けるものは何もないと思っているのだろう。
だけど、生憎ね。
あたしの恋はまだまだ現在進行形よ。
と直接ぶち込むことができないのが、非常ーっに! 残念だ。
自分の利得と、権力にしか興味のない男には分からないでしょうけど、女は、惚れた男の為ならどんなことだってできるのよ。
特に、一度目の恋を、男の利権の為に取り上げられた女の二度目の恋は、燃え上がり方が凄まじいんだから。
もっとも、一般論じゃないかも知れないけどね。
もう二度と、愛した男を失いたくない。
家茂との絆を、奪われたくないの。
それを守る為だったら、城を枕に討ち死にだってしてみせる。
(でも……)
あれから十日強。正確に言えば、十二日。
相変わらず、討幕軍と朝廷からは何の返事もない。
(まあ、あの狸なら、あたしからの書状を握り潰すくらいやりそうだけど)
ある意味、あたしは全く彼を信用してはいなかったから、同じ文面の文をもう一通、後で実梁に届くように手配していた。
勿論、二通届くかも知れない旨も添えてある。
けれど、向こうからは何の音沙汰もない。
そして、あたし達に残された時間も、もう少ない筈だ。今、討幕軍がどの辺りにいるのか、あたしは知らない。
敵の情報がない、動きが分からないというのは、本当に怖いことだ。
何もできずに、焦る気持ちだけが募っていく。
いても立ってもいられないとはこのことだ。
落ち着いて座っていられなくて、あたしはツと立ち上がると、縁側に出た。
(――ああ……)
ふと立ち上がったら縁側しか出る場所がなくて、つい足を運んじゃったけど……。
(ここって、いつも)
『あいつ』といた場所だ。
彼との語らいの場は、大抵天気がいい日のこの場所で。
でも、もう隣を見ても彼がいない寂しさに耐えられなくて、彼が亡くなってからは意識的に避けていたのに。
(あたしのバカ)
今は、一般の恋する乙女よろしく、へこんでる暇なんてないのに。
打ち掛けの裾を素早く捌いて、部屋へ戻ろうとしたあたしの足を、何日か振りに聞く声が止めた。
「……親子殿?」
「あ」
視線の先にいたのは、若干やつれたように見える、天璋院篤姫その人、だった。
***
「少し、おやつれになったのではありませんか」
天気がいいからと、その場に腰を下ろしてしまった天璋院様に言われて、あたしは覚えず苦笑を返す。
まさか、自分が相手に対して思っていたことを、先に言われるとは思わなかった。
「いいんです。今の内だけでしょうし、徳川宗家が倒れでもしたらやつれるだけじゃ済みませんもの。そう言う義母君こそ、お疲れのように見えますわ」
「その言葉、そっくりお返ししますよ。今疲れておかないと、後で悔やみますからね」
いつの頃からか、義母君と呼ぶようになった彼女は、綺麗な笑みを浮かべて、藤が供したお茶が入った小さな湯呑みを、上品に傾ける。
そんな彼女も、今ではあたしのことを『親子殿』と呼んでいた。
「義母君……あれから、何か聞いておられませんか」
あたしは、十二日前、あたしの遠縁と称して秘かに江戸城へ来た客の正体を、義母君にだけは打ち明けていた。
あれはあたしの遠縁などではなく、朝廷の討幕派・岩倉具視であったこと。その岩倉が、あたしに帰京を勧め、あまつさえその場で強引に城から連れ出そうと画策していたこと。
その彼に、あたしが最後通牒となる直筆の書状を手渡したことも。
「わたくしも今日は、そのことで参ったのですよ。親子殿」
コトン、と小さな音を立てて、湯呑みを縁側に置いた義母君は、先刻と打って変わって深刻な目をして口を開いた。
「親子殿は、幕府追討軍の将として誰が立たれているか、聞き及んでおいでか?」
「え?」
あたしは目を瞬いた。
「追討軍の将……って言うと、橋本実梁……様では?」
そう確か、あたしの従兄弟の実梁が、東海道鎮撫総督に任ぜられて、現在も進軍中の筈だ。
すると、義母君はやはり神妙な顔で頷いた。
「確かに、彼もそうです。しかし、彼は討幕軍の一翼を担っているに過ぎませぬ。先頃、新たに東征大総督に任ぜられた男の率いる軍が、三日前、駿府まで進軍し、現在駿府城に駐留しているそうです」
「駿府……!?」
あたしは、瞠目した。
駿府だなんて、江戸はもう目前だ。
もっと遠くにいるものだと思っていたけど……それじゃ、一刻の猶予もないじゃないの!
「落ち着きなさい、親子殿」
けれど、義母君は、あたしの脳内の焦りを敏感に察したのか、ピシャリと言った。
「去る六日、その城内で軍議が開かれた由。その軍議の場で、総攻撃は十五日と定められたとか。今からでもまだ六日はあります」
「って言われても……」
後たったの六日だ。
この短い期間で、ここまであたし達の嘆願を無視し続けてくれた官軍を、どう説得すればいいのか……。
「親子殿」
「あ、はい?」
やっぱりグルグルと焦る思考を持て余していると、不意に義母君に声を掛けられて、あたしはやや間抜けな返事をした。
「東征大総督に任ぜられたのは、有栖川宮熾仁親王様だというお話です」
「えっ……」
心臓が、脈打つ。
「え……あの、義母君……今……今、何て……?」
「熾仁様は……確か、そなたの元婚約者であられましたね」
(嘘っ……!)
ちょっと……ちょっと、待ってよ。
何で、熾仁が討幕軍の中にいるの。しかも、東征大総督ですって?
それが、果たして討幕軍全ての指揮権を握っている役職なのかどうか、軍に詳しくないあたしには分からない。
今の今まで、実梁がその地位にいるものだとばかり思っていたんだもの。
ただ、『総督』というからには、それなりの地位にあることは間違いない。
その地位に就いたのが、熾仁の意思かどうかまでは知らないけれど。
でも、周囲の思惑にしろ、熾仁の意思にしろ、これってあんまり嫌味が過ぎるんじゃない?
こっちに……江戸城にあたしがいるって分かっていながら……。
(……待って。これって、もしかして)
「……義母君」
いつしか伏せていた視線を上げると、あたしの目を見返した義母君は、何もかも呑み込んでいるという表情で頷いた。
「わたくしが懸念している点も、恐らく今そなたが考えたこととあまり違わぬでしょう。念の為、調べてみましたが、熾仁様が東征大総督の任にあられることは、どうやら間違いないようです」
そうすると、熾仁が東征大総督の地位にあるというのが、あたしを惑わせる為の流言だという可能性は消えた。
「じゃあ、残る可能性は」
「そう……そなたを、どうにかして江戸城から引き離すことを目的としていることも考えられます」
熾仁が大総督の任にあると、元婚約者であるあたしが知れば、とにかく話をしようと、ノコノコ江戸城から出てくると向こうは踏んだのかも知れない。
そして、あわよくば、あたしを拉致して京へ連れ帰る。
そうしたら、討幕軍は、江戸城に攻撃を仕掛けるのに何の遠慮も要らなくなる。
「でも、それはあくまで可能性です。やはり一度熾仁と会って」
「なりませぬ」
話し合う相手が熾仁なら、もしかしたら、江戸への進軍を、延いては江戸城総攻撃を止められるかも知れない。
そう思って発したあたしの言葉を、義母君は即座に遮った。
「それは、まだなりませぬ。そなたの言う通り、あくまで可能性ですが、その可能性がゼロでない以上、向こうの得になる行動は慎まれますよう」
「ですが」
「よいですか。後六日あるのです。とにかくわたくしが、まずは調べてみます。それに、もし話し合いに赴くのであれば、そこにはわたくしの縁の者もいます。共に参って、説得に当たることに致しましょう。親子殿は、わたくしの連絡あるまで、決して動かれませぬよう。宜しいですね」
***
義母君がその場を辞して行った後、あたしは濡れ縁で一人、ぼんやりと庭を眺めていた。
ここで一人で庭を眺めるなんて、いつ以来だろう、なんて、今考えなくても良いことが頭に浮かぶ。
ああ、そうだ。
家茂に、最初に側室を持たせる話が上がった頃だ。
あの頃は、家茂への想いを一生懸命否定していた頃で、後ろめたさと共に、熾仁への想いは胸の片隅にまだあった。
熾仁を忘れたあたしに、罰が当たったんだろうか。選りにもよって、まさかこんな時に、あんたを思い出すきっかけを与えられるなんて。
昔の男か、今の想いか。
大事なのはどちらかと訊かれれば、あたしは迷いなく家茂を選べる。
一時の気の迷いなら、きっと、家茂が亡くなった時点で目は覚めていた。
『お前さぁ、まだ昔の男に気があんの?』
スネるようにそう訊いた家茂の顔も、何故か鮮明に思い出されて、あたしは苦笑する。
今ここにいたとしても、家茂は同じように言っただろうなと、容易に想像が付くだけに、何だかおかしかった。
家茂って、結構ヤキモチ妬きなのよね。独占欲凄く強いし、側室の話の時に、何でかやっぱりあたしの方が怒られたし。
自分と同じくらい相手も思ってくれなきゃ嫌ってことかしら。
……ああ、違う。今は家茂のコト考えてる場合じゃないんだった。
『俺のコト以外に、何考えてんだよ。やっぱり昔の男に気があるってコトだろ?』
家茂が生きていて、あたしの頭の中を覗けたらこう言うだろうなという予想が、悲しいくらい現実的に立って、あたしは頭を抱える。
思えば、熾仁と引き離された当時こそ、彼のことばかり考えていたものだけれど、家茂に気持ちが向くに従って、熾仁のことを考える時間は大幅に減った。
傍にいないからだとばかり思っていたけど、熾仁のことを考えていても、今は自然と家茂の方に思考が向かってしまう辺り、それは不正解なんだろう。
あたしはあたしで、家茂のことは言えない。
バカみたいに、あの男に狂ってる。
はあ、と溜息を吐いて、あたしは改めて空を眺めた。
こんなに焦がれているのに、あんたこそ、幽霊になってでも現れてくれる気はないのね。
案外、そっちで冴那さんと宜しくやってんでしょ。
そんなことを思ったら、今度は腹が立って来て、そんな自分にまたしてもガックリと肩を落とす羽目になる。
(……あたし、本当にバカみたい)
こんなに事態が切迫してるのに、討幕軍の将として来た熾仁に会うことになるかも知れないのに、何でこんなに家茂のことで頭が一杯なのかしら。
(ねえ、こら。どっかで聞いてるんでしょ)
あたしは、誰もいない空間を睨むように見つめる。
(昔の男に会うって言ったって、艶めいた逢い引きとかじゃないんだからね)
熾仁に会うとしたら、冗談抜きで色恋の話どころじゃない。
幕府と戦を構えるのを、何としても止めてくれと、説得に行かなきゃならないのだ。
でも、もし家茂が生きていたら、あたしが出向くなんて何が何でも許してくれないだろう。それが、政治的に一番効果があると、あの人なら分かりそうなものだけど、それを身体の芯から理解してても、きっと彼は反対するに違いない。
だとしたら、まず江戸城を出る為に家茂を説得する手間が省けたと思っていいんだろうか。
こんな、緊張感が弛むような妄想(?)に、あたしが精を出している間にも、あまりにも皮肉な再会は、すぐそこまで迫っていた。
***
輿を降りると、一つ前の輿から降りたばかりと思われる義母君と目があった。互いに無言で頷き合って、あたしは、彼女の元へ歩を進める。
正面には、今日の目的地である、池上本門寺があった。ここが、今は進軍してきた討幕軍の本陣として使われているのだそうだ。
慶応四(一八六八)年三月十一日。
十五日が江戸総攻撃の日と知ってから、二日が経っていた。
義母君が情報源として利用していた、勝海舟という幕臣も今日は一緒だった。
初めて会うこの男の第一印象は、何とも豪快。それでいて、一見軽薄と思えなくもないけど、どこか安心して背中を任せられるような雰囲気を持った男だった。
それから、護衛の武士も共にいる。
何せ、万が一にもあたし達二人が江戸城へ帰還できないことがあってはならない。
まあ、本当に人質に取られたり、拉致されたりするようなことになったら、隠し持ってる懐剣で喉突くなり、舌噛むなり、自害も最後の手段として考えてはいるけど。
討幕軍とあたし達、互いが針のような緊張感を纏う中、訪問した幕府側の『使者』は、本陣へ通された。
本陣と言っても、元々あるお寺の建物を利用した、休憩所のような場所らしい。
室内は、大きな机と、その周りに椅子がいくつか並べられていて、少人数での面談が可能なような作りになっていた。
あたし達が腰を落ち着けると、向こうの将達が、どこか渋い顔をして入室してきた。
先頭にいたのは、厳つい顔をして、がっしりとした体つきの、中年の男だ。その男の後ろから入室してきた別の男の顔を見て、あたしは思わず声を上げそうになった。
彼も、室内に視線を巡らせ、あたしの顔を見付けたのか、表情を凍り付かせる。
――熾仁……有栖川宮熾仁親王。
一体、何年振りだろう。
あたしが、江戸に下ったのが文久元(一八六一)年の十月だから、もう七年経っている。その分、彼の顔も年齢を重ねてはいたけど、見間違う筈がない。
緊張で心拍数は上がるけど、それは色恋のときめきとは程遠い。
情で全てが解決するなら、熾仁だって今ここにいなかったと思う。
彼らを迎える為に、あたしと義母君は、座った椅子から立ち上がる。
軽く頭を下げて、再び腰を下ろそうとしたあたし達を、七年振りに聞く熾仁の声が制した。
「和宮……様」
あたしは、腰を下ろす為に下げていた視線だけを上げて、熾仁を見た。
正面から顔を見たのは、今日会ってから初めてのような気がする。
「何か?」
「あ……いえ、その……」
あたしが、あまりにも淡々と、表情を変えずに返事をしたのが意外だったのか、熾仁は戸惑うように口ごもった。
しかし、二人きりでないのと、ここは私的な空間でないことが、彼に発言を引き延ばすことを選択させなかったようだ。
「和宮様と私は、別室で話をします。それで良いですね、西郷殿」
熾仁は、先刻、最初に入室した男に向かって言った。
西郷、と呼ばれた男は、不満げな表情をしたものの、特に何か反論することもなく、小さく頷く。
「親子殿」
義母君だけが、一言、あたしの名を呼ぶ。
彼女の懸念は、あたしにも痛い程分かっていたけど、あたしはあたしで、熾仁と二人で話す機会が欲しいと思っていたところだったので、ここで止められるのは遠慮したかった。
「大丈夫です、義母君。万が一、あたしがここで失踪したり、向こうの手に掛かって死ぬようなことになったら、全面戦争ですよ。彼らにとっては願ってもないでしょうけど、その時は義母君が大声で事実を宣伝しながら歩いて下さるでしょうから、彼らもそこまでの無謀はしませんよ。ねえ、勝?」
あたしは、義母君の隣に、大きな体を小さくして座っている勝海舟に話を振る。
あたしと目線が合った勝は、苦笑を浮かべて肩を竦めた。
「呉々も、そうならないように戻って下さいよ」
「努力するわ。聞いたでしょ、熾仁様。そういう訳だから、貴方とは本当に話をするだけよ。宜しいわね」
一瞬、熾仁は、不満そうな表情をしたけれど、ややあって「ええ」と返事をした。
それを確認してから、あたしはここまでついて来た中の数名の護衛を伴って、熾仁と共に別室へと移動した。
出入り口が一つしかない部屋の入り口に護衛を待たせて、室内に足を踏み入れる。
畳が敷かれた部屋は、あたしには馴染んだ作りで、こっちの方が落ち着いた。
熾仁は、あたしの為に敷物を用意し、そこへ座るよう促す。
「……久し振り……というのも、何だか妙な感じだな」
先に口を切った熾仁に、あたしは苦笑混じりに「そうね」と返す。
「あれから、もう七年か。元気そうで安心した」
「ありがと。あんたも元気そうね」
あれから、どうしていたのか。まだ独り身なのか、それとも、結婚したのか。
長いこと離れていた元婚約者に、訊きたいことは色々あるけど、どれもあたしの口からは出ない。
代わりに出たのは、やっぱり本題だった。
「東征大総督……なんですってね」
「あ、ああ」
「自ら志願したの? それとも……周囲の推薦で断り切れなかったの?」
あたしとしては、後者であって欲しかったけど、熾仁は無情にも「自分から志願したんだ」と答えた。
でも、あたしにそれを詰る資格はない。まだ熾仁のことが、男として好きなのならともかく、今のあたしの心は、最早永久に他の男のものなのだから。
けれど、意外にも、次に彼の口から出たのは、政治的な発言とは言い難いものだった。
「君を、取り戻したかったから」
熾仁は、そう言うと、そっとあたしの手を取った。――まるで、あの頃に戻ったように。
「一緒に行こう、和宮。七年も掛かったけど、君を迎えに来たんだ」
言葉が、出なかった。
さっさと他の男に乗り換えてしまったあたしと違って、熾仁はずっとあたしを想っていてくれたんだ。
そう思うと、胸が痛い。
でも、熾仁の求婚に首を縦に振れるかと訊かれたら、答えは『否』だ。
あたしは、傍にいた家茂を――徳川十四代将軍を愛してしまった。
勿論、その前にこの熾仁を愛していた気持ちも、嘘じゃない。
だけど、家茂に対する想いはもっと激しくて、一口では説明できない複雑な過程を経てしまった分、容易に冷めるものではなくなっている。
「……ごめんなさい、熾仁」
「和宮」
「あんたを、愛していたわ。でも、それは七年前のことよ」
重ねられた手を、そっと押しやって、あたしは改めて熾仁を見る。
「それに、あたしがここへ来たのは、あんたと復縁する為じゃない。徳川宗家の存続と、江戸総攻撃の中止をお願いする為に来たの」
「私と来てくれないのなら、聞けない。……と言ったら、どうする?」
「本心からそう言ってるのなら、軽蔑するわ」
即座にそう返すと、熾仁は弾かれたように目を丸くした。
あたしが、もっと答えに窮して口ごもるとでも思っていたのだろうか。だとしたら、熾仁にまで随分軽く見られていたものだ。
そうだとしても、もう腹も立たないけど、そんなに浅い女だと思われていたのなら、彼のあたしに対する愛とやらも疑わしい。
ここで益々復縁する気が失せた、なんて、きっと彼は気付いていないだろう。
「……それで、君の要求を私が飲まなかったら、どうするつもりだ?」
「別にどうもしないわ。そうですか、ってこのまま引き返して、城を枕に討ち死にする予定よ」
「なっ」
更に目を丸くする熾仁に、あたしは内心面白がるように畳み掛ける。
「問題は、その方法なのよね。ねぇ、これなら相談に乗ってくれる? 討幕軍が、って言うより、朝廷縁の人が、この『あたし』を見殺しにしたって、大々的に公になるように死にたいんだけど、何か効果的な方法はあるかしら」
「なっ、何で君がそこまでする必要があるんだ!?」
堪り兼ねたように熾仁が叫ぶのへ、あたしはわざとキョトンと目を瞠って見せた。
「そこまでって、どこまで?」
「だからっ……夫であった将軍が死んだ今、君が幕府に命まで懸けて義理立てする必要はないだろう!?」
「あんたまでそんなこと言うのね」
クス、と漏れた笑いは、自分で思っていたよりもずっと冷ややかな響きを持ってその場に落ちた。
瞬間、熾仁は、言葉を口に押し戻されたような顔をして黙り込む。
「愛する相手が亡くなったら、全部どうでも良くなるものなの? だとしたら、あんたが言うあたしへの『愛』って随分軽いものなのね」
「そんなっ……そんなこと」
「それとも、あたしを軽く見てるの? でなければ、家茂を軽く見てるのね。どっちにしろ、侮辱されてることに変わりないけど」
熾仁は、もう何も言い返さなかった。
元々、頭の悪い人じゃないもの。何か言えば言う程、墓穴を深くするだけだってことに気付いたんだろう。
「誰がどう思おうと、今のあたしは静寛院宮よ。そして、家茂の妻だわ。これから先、何があっても、あたしは死ぬまであの人の妻なの」
「……どうしても、か」
「それは、どういう意味で?」
「どうしても……私の求婚を受け入れては貰えないのか」
あたしは、瞬時、黙って熾仁を見つめた。
熾仁も、期待と不安が入り交じった瞳で、あたしを見つめ返す。
恋しい人に、振り向いて貰いたい。その気持ちも、痛いほど分かるけれど。
「……もう、遅いわ」
分かっても、応えられるかどうかは、話が別だ。
それに。
「今頃になって、そんなに熱心に口説いてくれるなら、どうして七年前のあの時、連れて逃げてくれなかったの?」
痛い所を突いたのは、間違いなかったようだ。
熾仁は、何と答えたらいいのか分からないという顔をして、唇を噛み締める。
あたしも、多分複雑な苦笑を浮かべているだろう。自分で自分の顔は見られないから、確かなことは言えないけれど。
七年前の、あの時。
熾仁との別れを余儀なくされて、死ぬ程辛かった。幾日も泣いた。
どうして連れて逃げてくれないんだろうって、熾仁にすら腹を立てた。
一緒に逃げようと、あの時言ってくれたなら、あたしは迷うことなくあんたの手を取ったのに。
「先に手を離したのは、あんたよ。今頃になって、また手を繋ぎたいなんて、虫が良すぎる」
「親子」
「その名で呼ばないで!」
鋭く返すと、熾仁は、びっくりしたようにまた目を丸くした。
「……その名で、呼ばないで。その名であたしを呼んでいい男は、もうあの人だけよ」
『親』
言いながら、あたしは必死に記憶の中から家茂の呼ぶ声を探す。
あの人の声で象られれば、自分の名さえ愛しく思えた。
もう、永久に呼ばれることはないのに、余計な上書きをしないで欲しい。
「話は終わりよ」
「ち……和宮」
まだ未練だらけの顔をした熾仁を残して、あたしは席を立つ。
「徳川家の存続と、江戸総攻撃の中止の件。考えておいて下さい」
戸口に足を向けながら、あたしは続ける。
「でも、これだけは覚えておいて。たとえ徳川家を滅ぼしても、江戸城に大砲の弾をぶち込んだとしても、あたしの心はもうあんたのものにはならない」
「だから、何故そこまでするんだ!? どうして、徳川の名にそんなにこだわるんだ!!」
背後から返って来た熾仁の声は、悲鳴に近かった。
そこにいるのは、東征大総督でも何でもない。ただの、一人の男だ。それも、恋に破れ、それが納得いかないと叫んでいる、大きな駄々っ子にも等しい。
あたしは、そんな駄々っ子に、あわれむような視線を向けて、静かに言った。
「絆だからよ」
「……き、ずな……?」
「そう。絆」
あの人との間には、とうとう子供は授からなかった。
欲しかったのに。
たとえあの人が亡くなったとしても、あの人によく似た子がいたら、どんなに慰められただろう。
それなのに神様は、あたしにあの人の子を与えてはくれなかった。
だったら、他に何があるだろう。
あの人が、あたしに残してくれたものは。
思い出? 生前にくれた贈り物?
――勿論、これらも大切だ。
思い出は胸の中に、生前に贈られたものも大切に仕舞ってある。
でも、それだけ?
他に、ないのだろうか。
あたしが、残せるものは。あの人が、家茂が生きていたと、確かに存在したと、後の世まで伝えられる何か。
そう考えた時、慶喜に言われたこともきっかけではあったけれど、それは徳川の家の名しかないように思えた。
でも、きっと説明しても、熾仁には分からない。
あたしは、それ以上何も言うことなく、その部屋を辞した。
***
あたしと義母君は、護衛兵と共に、その日の内に池上本門寺を後にし、江戸城へ戻った。
勝海舟も一緒に戻ったけど、殆どとんぼ返りの体で、彼だけは再度、池上本門寺へ行ったらしい。
その後、勝と熾仁達討幕軍の間で、どんな話し合いが行われたか、詳しいことは分からない。
聞いたところによると、勝が、「どうしても江戸へ攻めてくるつもりなら、自分で江戸の街を焼き払う」と啖呵を切ったのだとか。その点、あたしの公開自殺案と大差ない気がしたけど、それは誰にも言わなかった。
ともあれ、それが熾仁や、あの西郷と呼ばれていた男の心境にどう影響したのか、それともしなかったのかは、彼らにしか分からないことだけれど。
勝と、主に西郷との間で話し合いが詰められたのは、三月十三日から十四日に掛けてだと言われている。
この話し合いによって、十五日に予定されていた江戸総攻撃は、ギリギリのところで回避された。
©️和倉 眞吹2013.




