第十一章 帰京勧告
「それで宮様……ご承知にならしゃったのですか?」
藤の、不安げとも、若干咎めが入っているとも取れる問い掛けに、あたしは無言で頷く。
「何故そのような……っ、もう先代様も亡くなられた今、宮様が幕府を……徳川家を守る義理など……!」
「もし本当に徳川家を見限る気なら、あたしはとっくに京へ戻ってるわ」
あたしの静かな反論に、藤はハッとしたように口を噤んだ。
「だって、家茂が亡くなった時点で……ううん、異母兄様が亡くなった時点で、もう公武合体なんて崩れてた。攘夷だって、できよう筈がないことくらい、本当はあたしにだって分かってたのよ」
だけど、分かりたくなかった。
理性でどれだけ納得していても、感情はそうはいかなかった。
勿論、あたしは今も家茂を愛してる。
でも今、どんなに彼を愛していても、江戸へ来ることになった経緯を、忘れることなんてできない。
胸の裂かれる思いをして、熾仁と別れた。
それも、攘夷を実行・達成するという幕府の条件に乗せられた、岩倉具視を始めとする大臣達が、異母兄様を丸め込んだ所為だ。
なのに、その攘夷ができなくなったら――攘夷を唱えて、あたしを無理矢理江戸へ送り込んだ朝廷の重臣までもが、開国論に転じたと認めてしまったら、あんなに泣いて都を離れた意味がなくなってしまう。
だから、まるで幼い子供が、欲しいものを諦めきれずに地団太踏むみたいに、慶喜に攘夷実行を促す文を出してみたりもした。けれど、返事が来ないのは寧ろ当然と、冷ややかに事態を見守る自分も確かにいたのだ。
攘夷が実行されないのなら、もう京へ戻りたかった。
それに、ここは家茂との思い出があまりにも多くて、いるのが辛い。
けれど、同じ理由で離れ難かった。
あたしがさっさと京へ戻ってしまったら、家茂との思い出も全部否定することになるような気がして怖かったから。
結局、そこに秘められているのが、あたしの本音なのだ。
(家茂との思い出を……絆を守りたい)
絆――目に見えるそれは、他でもないこの徳川家を守ること。徳川家の名を、長く永く、後世へ伝え残すこと。
あたし達が共にいた証を――もう誰にも否定させない。
「……とにかく、時間はないわ。早速動くわよ、藤」
***
けれど、動くと言っても、あたしにできることは限られていた。
天皇家の縁ある人間や、朝廷内から倒幕軍に加わった人間に、何とか江戸進撃と、徳川家取り潰しを思い留まってくれるよう頼む文を認め、使いに託す。
ただ、それだけ。
合間に、慶喜自らが書いた文の添削指導もしてやった。
釈明は、何と言っても、当主本人がやらないと意味がない。それに、当事者本人の釈明に一番威力があるのも事実だ。
けれど、それも、威力が効果的に発揮できる文章でないと、元も子もない。
その点、慶喜は、こう言ったらなんだけど、その『威力を効果的に発揮する文章』を書くのが不得手なようで、指導するあたしとしては泣けてくるものがあった。と言っても、年齢的にはあたしの方が下なんだけど。
その最中、実麗伯父様から届いた文に、『謝罪の仕方によっては、徳川家の家名存続も赦されるだろう』なんて書かれていたものだから、俄然、その指導には熱が入らざるを得なかった。
朝廷軍から直接の使者が、秘かに江戸城を訪れたのは、そんな時だった。
***
その日、中奥に設えられた面会の間に、藤を伴って入ると、小ぢんまりとした小太りの男が平伏していた。
あたしが入室するのに気付いた男は、更に深く頭を下げる。
衣擦れの音を立てて打ち掛けの裾を捌くと、あたしが腰を落ち着けたと見たのか、その男は口を開いた。
「和宮様にはご機嫌麗しゅう、お久しゅう、存じ上げ奉ります」
機嫌が麗しい訳ないでしょ。
反射でそう返しそうになるのを、あたしはすんでのところで呑み込んだ。
大仰な挨拶を終えた使者に、あたしは顔を上げるよう促す。
それに従って、頭を上げた男に、あたしは見覚えがあった。
体型と同様に小ぢんまりとした正円に近い輪郭に、小さな目元と、やはり丸に近い鼻。
「確か……岩倉具視、殿……だったわね」
「恐悦でございます。皇女様が、わたくしめを覚えておいでとは」
――忘れる訳がない。
異母兄様への挨拶で、御所に行く機会には、稀に顔を合わせていたし、何より、あたしの降嫁を異母兄様に先頭切って言上したのは、確か彼だったと聞いている。
加えて、降嫁説得の際に、毎日あたしの住む桂御所へ足を運んでいたのも、この男だったのだから。
それまでの平穏な暮らしが崩れた責任の一端は彼にもあるけれど、そのおかげで家茂に出会えたことを思うと、あたしの心中はかなり――いや、猛烈に複雑だった。
「早速だけど、身分を隠してまで、ここまでわざわざ来られた用件を伺うわ」
表向き、彼は京から訪ねてきたあたしの遠縁、ということになっている。でなければ、非公式とは言え、討幕側の人間が、特に今の時期、江戸城内へ入れる筈がない。
懐かしいといえば懐かしい顔だけれど、生憎あたしは、この男と思い出話をするつもりはなかった。
それは、目の前の男も漏れなく同感だったらしい。
「恐れ入ります。それでは、前置き抜きに失礼致します」
頭を低くした岩倉具視は、目線だけを上げてあたしを見た。
その瞳は、相変わらず奥が見えない。謀略を巡らせているが故に濁って見える。そんな印象を受ける目だけは、以前と全く変わっていなかった。
「和宮様。どうか、このままわたくしと共に、京へお戻り下さい」
「……何ですって?」
耳を疑った。この男は、今何と言ったのか。
今、この時、京へ戻れ――ですって?
「どういうことか、計りかねるんだけど」
「これは異なことを。和宮様も京へのお里帰りをお望みと、斯様に伺っておりましたが」
「昔のことよ」
大方、庭田嗣子典侍辺りが、自分基準で余計なことを吹き込んだんだろう。
もっとも、彼女は慶応三年(一八六七)年十一月に亡くなっている。だから、彼女が岩倉に、あたしの帰京について何か言ったという確証はない。
けど彼女も、家茂が亡くなってすぐの頃から、早く帰京しろとか何とか、言っていたような気がする。
「それでは、和宮様におかれましては、京へお戻りになるおつもりはないと?」
「今は、その時じゃないわ。それより、あたしからの文は、朝廷へも届いている筈よね?」
「は……」
自分の話を遮られる形になったからか、岩倉具視はあからさまに不満げな様子を見せたけれど、一応、あたしの身分に遠慮して、口を噤んだ。
「内容は、今更改めて言うまでもないと思うけど。徳川家の存続と、慶喜様の助命嘆願。それについて、正式な思わしい返事が中々届かないから、こっちはやきもきしているの。貴方なら、討幕軍がどういう方針か、ご存知の筈よね」
「恐れながら、和宮様。それは、皇女である貴女様がお知りになる必要はないことでございます」
殆ど確認の形になったあたしの問いに、岩倉具視は、どこか幼子を宥めるような口調で、見当違いな答えを返して来た。
「何ですって?」
再度、同じことを言う羽目になったあたしの声音に、わずかにトゲが含まれたことに、この男は気付いただろうか。
「それより、和宮様。どうか、わたくしと共に京へお戻りを。今すぐに城を出れば、護衛の準備も万全に整えてございます」
「今はその時ではないと言った筈よ。それより、あたしの質問に答えなさい」
「恐れながら、和宮様。わたくしは既にお答え申し上げました。それより、早くご決断を。藤殿」
岩倉具視は、もうあたしを無視して、あたしの横に控えていた藤に目を向けた。
「恐れ入りますが、和宮様の出立のご用意を、急ぎお願い致します」
「岩倉殿」
あたしは、威圧感を持ってその場に響くように努力しながら、男の名を呼んだ。
けれど、岩倉具視は、もうあたしの言葉など聞いていなかった。
「藤殿。何をしておられるのです。さ、お早く……」
「黙りなさい、岩倉具視!」
あたしは思わず叫んだ。
大声で怒鳴られた人間の反応は、二つに一つ。
身を縮めて萎縮するか、それとも、こっちが怒鳴ったということで、却って相手を軽く見るか。
岩倉具視は、どうやら後者だったらしい(藤の方は前者だったみたいで、肩を震わせて、正座したまま器用に小さく飛び上がってたけど)。
明らかにあたしを見下したような笑みが、その顔に浮かぶ。
「和宮様。貴女様は、政に首を突っ込まれるべきではない。やはり、わたくしと帰京すべきですな」
「あたしの進退を決める権利は、貴方にはない。それに、一つ言っておくわ。あたしは和宮ではない。今のあたしは静寛院よ」
あたしは、家茂の埋葬が済んで、二月後に髪を下ろしていた。
今のあたしの髪の毛は、毛先が肩先に掛かる程度の長さだ。
その時に頂いた名が、『静寛院』だった。
死した家茂の、妻としての名。
思えば、こうなってようやく、真に徳川家の一員となった気がしている。それは、ひどく皮肉なことだけれど、この名も、家茂との大切な絆だ。
それなのに。
「これは異なことを。貴女様は皇女だ。そのような、寡婦の名は相応しくありませぬな」
岩倉具視の一言は、あたしの感情を上手に逆撫でした。
「無礼よ。いつの間に朝廷に仕える官吏は、皇族にそんな不遜な口の利き方をするようになったの」
「申し訳ございませぬ。ですが、道を誤った姫宮様を正しく導くのも我らが務めなれば」
「口を慎みなさい、岩倉殿」
一度高ぶってしまった感情を落ち着かせようと、あたしは下腹部に力を入れて、岩倉を見据える。
「三度目はないわ。今度、昭徳院様の妻としてのあたしを、侮辱するようなことを言ってごらんなさい。今上帝はあたしの甥よ。まさか、叔母であるあたしの直訴を無下になさることはないでしょう」
昭徳院――亡くなった家茂のおくり名だ。
彼の妻であることが、今のあたしには生涯の誇り。
その誇りを、誰であろうと傷つけ、貶めることは許さない。
流石に、岩倉にも、あたしの言葉の意図するところは分かったらしい。
不満げではあったものの、岩倉はやっとのことで口を閉じた。
「藤」
「は、はい」
「硯と紙をこれへ」
「は?」
瞬時、藤はあたしの意図を計り兼ねたのだろう。
何をするつもりか、と目線で問うている。
けれど、詳しく説明していては、時間が過ぎるばかりだ。
「何をしているの。早く用意して」
「は、はい」
藤が、慌てて席を外すと、その場には岩倉と二人きりになった。けれど、藤が戻るまで、どちらも口を開くことはなく、室内はシンと静まり返っていた。
やがて、藤が、あたしに言い遣ったものを手にして戻って来た。彼女の準備した硯と墨、筆と紙を受け取って、あたしはその場にそれを広げる。
手早く墨を摩って、文を書き付けると、それを岩倉に向かって放った。
「……これは、如何なる真似でございましょうか」
「残念だけど、貴方とは冷静に話が出来そうにないわ。それを持ってお引き取り頂けるかしら」
「恐れ入りますが、中身を伺っても?」
「目を通せば分かることを、わざわざ口頭で言う意味を感じないわね」
「わたくしが拝見しても宜しいのでございますか」
「貴方が検討してくれるなら、見ても構わないわ」
では、と言いながら、岩倉はあたしが投げつけた文を、皺にならないようにという配慮からか、そっと持ち上げて、中身を読み始めた。
その顔が、次第に強張り、青ざめ、やがて文を持つ手がガクガクと震え出す。
それを見ながら、あたしは内心ほくそ笑んだ。というより、忍び笑いが漏れそうになるのを堪えるのに、ひどく苦労した。
「かずの……和宮様。これ……これは、」
「貴方が来てくれたのは、すごく時機が良かったみたい。それを、東海道鎮撫総督の橋本実梁様にお渡し頂けるかしら」
実梁は、実麗伯父様の養子で、血の繋がりはないけど、あたしの従兄弟に当たる。
その実梁が、討幕軍急先鋒として東海道鎮撫総督の任に就いたと伯父様から知らされたのは、つい先日のことだ。
「藤。文箱を持って来てくれる? あのままじゃ岩倉殿は文を握り潰しそうだから」
「は、はい」
藤は再び席を立ち、程なく漆塗りの黒い文箱を持って戻って来た。彼女は、半ば自失状態の岩倉から文を取り上げて、丁寧に畳んで文箱へ仕舞う。
「岩倉殿」
「は、はい」
岩倉は、弾かれたように顔を上げた。
「それを、間違いなく実梁様の元へ届けて頂ける?」
「し、しかし、わたくしの用件は」
「あたしは既に答えたわ。今は戻るつもりはないし、その時でもない。それに、その文に目を通したんだから、あたしの覚悟もご理解頂けたと思うけど?」
「そ、それは――」
おたつく岩倉を毅然と見据えて、あたしは最後通牒を突き付ける。
「話は終わりです。即刻ここから立ち去られますよう。お聞き入れなくば、然るべき措置を執らせて頂くけど、宜しいわね」
岩倉は、何とも形容し難い苦悶の表情を浮かべて、暫し引き結んだ唇を歪ませていた。けれど、やがて無言で頭を下げると、文箱もきちんと持ってあたしの前を辞した。
彼の姿が見えなくなると、クス、と覚えず嘲りの笑いが漏れる。
「あー、スッキリした! いい気味ねー」
「み、宮様」
クスクスと笑いながら立ち上がると、それまでハラハラしながら成り行きを見守っていたであろう藤が、そろりと伺うようにあたしを見た。
「一体……何とお書きにならしゃったのですか。岩倉様があのようにお顔の色を変えられるような……」
「知らない方がいいわよ。多分寿命縮むから」
「宮様」
「あたしだって、今ここで藤にポックリ逝かれたら困るもの。さー、帰ろ」
冗談めかして言って踵を返すと、藤はそれ以上追及して来ずに、あたしの後について歩き始めたようだった。
あたしがこう言い出したら、頑として口を開かないのを、きっと経験則で知っているからだろう。
まあ、冗談でなく、相当の年まで公家で平穏に暮らしていた藤が、岩倉に渡した文の内容を見たら、卒倒するのは間違いないだろうなぁ。
要約すれば、『あたしは徳川家と運命を共にします』って内容だもん。
下手すると、藤の心臓なんか引っ操り返っちゃう。
(少なくとも、ハッタリのつもりはないけどね)
ハッタリどころか、大マジだ。
本当にあっちが江戸城に攻撃を仕掛けて来るようなことがあったら、あたしは城を枕に討ち死にしてもいいと思ってる。
それも、ただ死ぬんじゃなく、討幕軍が、こともあろうに『静寛院こと和宮親子内親王』を殺したってことが、しっかりと公になる形で死ぬの。
そうしたらきっと、民は勿論、今上帝の心証も最悪ね、なんて思ったら笑いが止まらない。生まれてこの方、こんなに面白いことって今まであったかしら。
けれど、どこかウキウキとした気分で奥への廊下を戻る途中、ふと空を見上げたら、そんな気持ちも急速にしぼんでしまった。
初めてこの城に入った時、廊下から見上げた空は、やっぱりこんな風に青かったっけ。そんなことを思い出したら、家茂はもういないんだという現実まで思い出されて、その重みに潰れそうになる。
(……あんたがいないと、虚しいだけね)
どんなに楽しい悪戯を仕掛けたとしても、手の込んだ報復を企んでも、笑い合い、成功を喜び合う相手がいなければ、その先にあるものは、虚無でしかない。
(ううん、違う)
喜び合えるわ。
今はまだ、その時でないとしても、家茂のいる場所へ行った時にはきっと。
(しっかり、しなくちゃ)
胸の内で、自分に言い聞かせる。
あたしは、家茂との絆を守ると決めたんじゃないの。
彼も、任せると言ってくれた。
信頼を裏切ったりしたら、次に家茂に会わせる顔がないわ。どんな風に嘲笑されるか、それとも罵られるか、想像も付かない。
(ま、向こうに行ったら、まずあたしの方が文句言わせて貰うけどね)
何のって、勿論、あたしに断りもなくさっさと一人で逝っちゃったことに対する文句よ。
その為にも、何としてもこれを乗り切らなければならない。
下手を打ったら、お互い様ってことになって、きっと文句は言わせて貰えないだろう。
しっかりしなくちゃ。
もう一度、内心で呟くと同時に、『しっかりしろよ』と言われた気がして、あたしは反射的に、廊下から庭先へ視線を走らせる。
庭先には当然ながら、誰もいない。
けれど、今そこに家茂がいたのじゃないかと思えて、あたしは暫くの間、そこを動くことができなかった。
©️和倉 眞吹2013.




