第十章 蒙去、そして
その日も暑かった。
慶応二(一八六六)年九月六日。
あたしは、懸命に廊下を走っていた。
視線の先にお女中達が集まっているのが見える。
一人があたしに気付けば、皆が頭を下げてあたしに道を譲った。
部屋の中に、家茂はいた。
けれど、あたしにはもう直接に家茂の姿を確かめる術はなかった。
視線の先にあるのは、家茂が納められている筈の『棺』。
家茂が『亡くなった』のは二ヶ月程前のことだというから、開けたところで彼だと認識できるかどうかは分からなかった。
足に力が入らないような錯覚に襲われる。その場にヘたり込みそうになるのを何とか堪えながら、あたしはふらりと棺へ向かって足を踏み出す。
「――――宮様」
声のした方へ視線を向けると、女中の一人が反物を一反捧げ持って控えていた。
「上様が上洛後すぐにお求めになられました西陣織でございます。上様より宮様へと――……」
上洛後すぐ?
……全くあの人、何考えてるんだろう。
戦に出掛けて真っ先に妻へのお土産、買う? 普通。
泣き笑いのように顔が歪んでいるのを自覚しながら、でも何を言うこともできずに、あたしは家茂からのお土産をただそっと受け取った。
改めて棺に視線を戻して、萎えそうになる足を叱り飛ばし、一歩一歩踏み出し続ける。
大した距離ではない筈なのに、棺まではひどく遠いような気がした。
震える手で棺に触れてみるけど、ただ堅い木の感触が伝わるばかりで、本当に中で家茂が眠っているのかどうかは分からない。
「……少しだけ……二人きりにしてくれる?」
何かがつかえるような喉の奥から絞り出した声は、思ったよりも低くてみっともない程掠れていたから、それがその場にいた人間全てに聞こえたかどうかは判断できなかった。
けれど、全員がまるで合唱するかのように「宮様!?」と呼んだところを見ると聞こえているのだろう。
何か問題でもあるのだろうか、などと考える余裕もなく、あたしはただひたすらに切ない願いを口にし続ける。
「お願い。少しの間でいいから」
ただ、久し振りに会う夫と水入らずに過ごしたいだけよ。
何がいけないの?
しかし、戸惑うようにざわめいていた女中達も、あたしと共にこの部屋へ来た乳人の藤が、真っ先に黙って頭を下げて出て行ったのを皮切りに、一人、また一人と次々に頭を下げて退出して行った。
棺とあたしだけが取り残された室内は、しんと静まり返った。
「……お帰りなさい、家茂」
しっかりと封印のされた棺に向かって話しかけるけど、返事なんてない。
「……ひどいよ、家茂……」
無事に帰って来てって言ったのに。
どうしてこんなものに入ってるの。どうして、返事をしてくれないの?
西陣織だけしっかり届けて、これで機嫌でも取ったつもりなの?
――思い切り罵倒してやりたいのに、こみ上げる涙と嗚咽に遮られて、もう言葉なんて出ない。
「こんなものだけあったって、ちっとも嬉しくない……!!」
棺に縋り付くようにしてあたしはその場に崩れる。
「あんたが見てくれなきゃ、着飾ったって意味ないじゃない!!」
精一杯の罵りの言葉を吐き捨てた後は、喉から悲鳴みたいに意味のない叫びが迸る。けれど、どうしようもなかった。
最後の口吻け。
離れていく指先に感じたあの胸騒ぎを。
(信じればよかった)
こうなると知っていたら。
こんな結末が待っていると分かっていたら、政治がどうなろうと世の中がどうなろうと知ったことじゃない。絶対に、何が何でも行かせなかったのに。
誰か返して。
あたしに家茂を返してよ。
生きたままの彼を、お願いだから、誰か誰か――――。
***
更にその慶応二年の末、異母兄様――考明帝までもが世を去った。
異母兄様の死に関しては、不審な点がいくつかあるらしくて、世の中ではかなり長い間、毒殺説がまことしやかに囁かれていた。
公武合体政策の要であった家茂と、異母兄様の死によって、幕府と朝廷の間で辛うじて取れていた均衡は、あっさりと崩壊。
それに因ってか、世の不穏な空気は、益々毒を帯びたようになって、徐々に国中を飲み込もうとしていた。
けれど、あたしにとって、それはどうでもいいことだった。
家茂の少し前におたあ様、そして家茂、異母兄様と続けて身内を亡くす羽目になったあたしは、すっかり抜け殻状態で毎日を鬱々と伏せって過ごしていた。
もう何もない。
あたしには、もう本当に何もないのだ。
横になった布団の中で、ほう、と重い溜息を吐いた時、遠慮がちに呼ぶ声がして、あたしは足下へ目を向けた。
「宮様。どないどすか、お加減は」
心配げな面もちで几帳の陰に控えていたのは、乳母の藤だった。
「うん……体そのものは全然悪いところはないから大丈夫」
ただ、気力が萎えてしまってるだけだ。
だから、起きているのも何となく気怠くて、布団の中で丸まってる。
「……ねぇ、藤。あたしさ……」
あたしは、もう数少ない忠実な侍女に向かって、少し前からぼんやりと思っていたことを口に乗せる。
「もう少し世の中が落ち着いたら、京に一度戻ろうかと思ってるの」
「宮様……」
「勿論、家茂やおたあ様はこっちで眠ってるから、いずれは江戸に戻るつもりだけど……」
あたしは、縁側へ視線を向けた。
天気のいい日は、いつもあそこに二人でいた。
けれど、それはもう思い出の中の出来事でしかない。
「……今はまだ、少し辛いの。もう決して家茂が戻って来ないこの場所で、彼との思い出に囲まれて暮らすのは」
藤は何も言わなかった。
でも、あたしも彼女に何らかの反応を期待していた訳ではない。ただ、話しておきたかっただけだ。
そのまま沈黙が室内を支配するかと思われた、その時だった。
遠くからパタパタと誰かが走って来るような音がしたと思った途端、慌ただしくあたしの名を呼びながら、お女中が一人駆け込んで来た。
「失礼致します、宮様! 只今……っ、只今上様が……慶喜公がお戻りになられました!」
上がった息を整えようと必死になりながら、彼女が切れ切れに告げた内容に、あたしは首を捻った。
「慶喜……様って、鳥羽伏見の戦で幕軍が負けた後は、確か大阪城にいる筈じゃなかったの?」
あたしは、疑問を脳内で捻ることもせず、率直に口に乗せる。
「そ……それが、今朝になって急にお戻りになられまして、至急宮様及び天璋院様にお目通りをと、斯様に申されておいでで……」
そこで彼女は困ったように目を泳がせながら、言葉を切ってあたしを窺う。
「あの……いかがなされますか……?」
どうして彼女が困ったようにあたしを窺ったのか、あたしにはこの時点で判断する為の情報が少なすぎた。
(……慶喜……か)
彼には色々と思うところもあるんだけれど、とにかく会わないわけにもいかないだろう。
「……わかった。身支度を整え次第伺うと伝えてちょうだい」
「は、はい!」
彼女は申し訳程度に平伏すると、現れた時と同じ速度で廊下を走り去って行った。
「藤。急いで着替えをお願い」
「宮様……本当にお会いにならしゃるんどすか?」
藤は言われた通りに支度を整えながらも、心配げとも不安げとも取れる表情を浮かべてあたしに問うた。
「うん――……。天璋院様がお会いになるのにあたしだけ引っ込んでる訳にもいかないし……」
藤の手を借りて着替えをしながら、あたしは言葉を濁した。
(あんまり気は進まないんだけど……)
慶喜と言えば、家茂の跡を継いで将軍職に就いた男で、面識はこれまでなかった。
けれど、あたしはあまり良い印象を持っていない。
と言うのも、そもそもあたしが嫁いで来た交換条件である攘夷実行要求を認めてあたしが送った文を、片端から無視し続けてくれた男という認識があるからだ。
それに、これはあたしが確認したわけではないから、頭から決めつけるのもどうかと思うけど、どうも家茂を毒殺したとかしないとか言う噂も耳にしたことがある。
そういう訳で、会ったことはないけど、どうにも好かんたらしい印象しかない。
おまけにこの男、将軍職に就いてこのかた、大奥へ足を踏み入れたことがなかったという、ちょっと変わった将軍様なのだ。そんな男が敗戦後、ノコノコ登城して来て、先代・先々代の御台所に会いたいだなんて。
ご都合主義の男の言う事なんて、本音としては「聞く必要なし」で一蹴してやりたいところだ。
***
対面の為に用意された部屋へ入ると、既に天璋院様が上座の一段下がったところへ座っていた。
そして下座に、今日初めて会う十五代将軍・慶喜が平伏している。
普段は襖を立てて使うであろう、奥行き十間ほどの部屋には、今はあたしと天璋院様、そして、慶喜の三人しかおらず、その室内は無駄に広く思えた。
あたしが上座に腰を落ち着けるや否や、挨拶もそこそこに慶喜が口を切った。
慶喜の口から語られたのは、鳥羽伏見の戦のあらましと、その後の薩長軍の反応だった。
大阪城へ逃げ込んだ幕府軍に対して、薩長軍は何をどうしたのか、錦の御旗を掲げて押し寄せて来たという。
それは、つまり幕府軍の思惑がどうであれ、幕府が完全に『朝敵』と公に布告された証だ。
それに対して、慶喜が考えた奇策は――。
「――和議・恭順?」
「は。幕臣の中にはまだ徹底抗戦を唱える者も多くいますが、朝敵となってしまった今、これ以上の戦は国力を低下させ、延いては諸外国に侵略の隙を与えることにもなりかねませぬ故」
見た目には真剣に語っているように見えるその顔の下の本心は、表情と同じなのだろうか。
だが、言っていることは、残念ながら筋が通っている。
「つきましては、静寛院宮様には朝廷への、天璋院様には薩摩への徳川存続の為のお取りなしをお願い致したく、敗軍の将にあるまじき行為と承知しつつも、恥を忍んでお願いに上がった次第にございます」
どうだか、と口から出かけた嘲りを、あたしは辛うじて呑み込んだ。
恥を忍んで、が聞いて呆れちゃうけど。
薩長軍が朝廷を担ぎ上げて徳川家を滅ぼそうとしている今、薩摩と朝廷から嫁して来た天璋院様とあたしに助力を願い出るこの抜け目なさのどこに恥とかいう単語が入る隙があるのか、懇切丁寧に教えて欲しいもんだわね。
……といったことを瞬時に考えたあたしの顔色を読んだかの如く、目の前の男は、更に畳みかけるようにあたし達に頭を下げる。
「終戦交渉に関しましては、既に使者を派遣してあります。残る憂慮は家名存続のみ。宮様。天璋院様。何卒お力添えのほど、重ねてお願い申しあげます」
「……分かりました。できるだけのことは致しましょう」
数瞬の間を置いて、天璋院様が凛とした声音で告げる。そして、あたしにも答えを窺うように、そっと視線を向けた。
あたしも小さく溜息を吐きながら――これくらいの嫌味は許されても良いと思うのよね――「分かった」と短く答える。
……本音言うと利用されてばっかも癪なんだけど。
今回だけは敢えて、進んで利用されてあげるわ。
だけど、それは決して、今目の前で頭を下げている男の為なんかじゃない。
徳川の家の名は、子供のないあたしと家茂にとって、唯一の絆だからだ。
勿論、形に残る何かがなくたって、あたしと家茂が一緒に過ごした時間が否定される訳じゃない。だけど、形に残る絆も、欲しくないと言えば嘘になる。
(誰にも奪わせない)
家茂が残したものの内、もう何一つあたしから奪わせない。
それに、数年前に自分達の利得の為にあたしを幕府へ売った連中が、今度はあたしを売りつけた幕府を滅ぼそうとしていると思ったら、無性に腹立たしかった。
(家茂)
心の中で、そっと名を呼ぶ。
答えが返ることはなかったけれど、記憶の中のあんたは、微笑んでくれた気がした。
それも、二人で過ごした時の優しい微笑じゃない。
戦いに赴く前のような、不敵な笑みだ。
――任せる。やってみせろ。
そんな風に言われた気がして、あたしも、幻の彼に向かって不遜な笑みを返す。
(分かった。任せて)
あんたの生きていた証を、絶対に守り抜いてみせる。
©️和倉 眞吹2013.




