第一章 降り懸かった理不尽
所謂『黒船来航』以降、幕府の権威は急降下。
それに伴った世の中の混乱の火種は江戸から遠く離れたこの京の都にも飛び火していたらしい――否、寧ろ京の都こそが動乱の中心であると言う人間もいる。
けれどそんな世情は、動乱の中心地である京都に住みながら、あたしにとっては早い話が『他人事』だった。
――そう、ほんの○・一秒前までは。
***
「――破談!?」
いつものように、仕事帰りに訪ねてきた婚約者が、唐突に放ったのは、まさに爆弾発言だった。
「何よソレ、どーいう意味!? まさか、今更生まれ年の忌み事がどうとか言い出す気じゃないでしょーねッ!!」
「宮様っっ!!」
あたしは、乳人の藤が制止する声を頭から無視すると、身体が動くに任せて、反射的に、婚約者である熾仁の胸倉に掴みかかった。
三歳の時に『年替え』の儀を行って、今でこそ『乙巳』生まれっていうコトになってるけど、本来のあたしの生まれ年は『丙午』。
『丙午生まれの女は夫を喰い殺す』なんて言う、本気で馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない言い伝えだけど、公家や天皇家は結構迷信深いところがあったりする。その所為で、結婚出来なかったら可哀想だ、という周囲の心配から『年替え』の儀が行われ、それでも安心できなかった周囲の配慮から、五歳の時に将来の伴侶として引き合わされたのが当時十七歳の有栖川宮家の親王・熾仁だった。
十七歳で当時五歳の幼女と婚約させられた熾仁の心中は察して余りあるけれど、それでも互いに好意を持って愛を育んできたという自負はある。……ていうか、そう思ってたのはあたしだけだということだろうか。それにしたって、婚儀寸前のこの仕打ちはあんまりじゃないのかしら。
「それとも何? 十二歳も年下の女との結婚なんてやっぱりイヤだった訳? だったら、何も婚儀寸前に破談なんて嫌らしい真似しなくたって――」
「お、落ち着けよ! まだはっきり破談と決まった訳じゃないし……」
慌てたような熾仁の弁明に、沸騰していたあたしの頭は、一瞬にして冷めた。冷めると同時に、手は熾仁の胸倉から離れて落ちる。
そう言われれば、熾仁は『破談になるかも知れない』と言っただけで、『破談になった』と断定はしていなかった気がする。
「……でも、そう言う話が出てるってことよね……お式は今年の冬なのに何で今更……」
半ば独白のようなあたしの呟きに、熾仁はモゴモゴと口ごもっている。
「いや……それが縁談が持ち掛けられてるらしいって話なんだけど……」
言い辛そうに呟き返されて、あたしの脳内の温度は、冷めた時と同じ速度で急上昇した。
「縁談――――!? 相手はドコの誰よっっ!? 熾仁、あんたあたしっていう婚約者がありながら……ッ! 仮にも今上帝の妹であるあたしを袖にしようってンだからそれなりの家の子女なんでしょうねっっ!!」
半泣きになって叫びながら一度は離した熾仁の胸倉を引っ掴み直して、ガクンガクンと揺さぶる。
「所詮あんたもそこらの貴族と同じよ! 喰い殺されるのが怖いんだわ!!」
「だから、落ち付けってば!! 仮に破談になるとしても決めるのは私じゃないし、それに……っ」
「……縁談があらしゃるのは、宮さんの方や」
揺さぶられながら必死に反論を試みる熾仁の台詞の後半を引き取ったのは、よく知った、熾仁とは別の人の声だ。
「……実麗伯父様……?」
振り返った視線の先に立っていたのは、母方の伯父・橋本実麗その人だった。
***
「――和宮さんご降嫁の話が具体的に動き出したんは今年の頭かららしいんやけどな」
熾仁も入ってきた室内に腰を下ろした実麗伯父様は、藤が出してくれたお茶に手を付けることなく、どっと疲れたような口振りで手にした勺を口元に当てた。
「そもそも、公武一和の為に、公方さんと天皇家の姫宮さんとを娶せるいう話が出た時は、何も和宮さんをいう話やなかった筈なんや」
伯父様の話によると、『公武一和』というのは『公武合体』とも呼ばれている幕府の政策のことだそうだ。その名の通り、公と武、つまり天皇家と将軍家を一緒にする事によって天皇家の威光を借り、失墜した権威を何とか持ち直そうというのが幕府側の思惑らしい。
それは別にいい。
政治を執る身としては幕府も必死なんだろうから、好きにやったらいいと思うんだけど、問題はそこじゃない。
「だったら、どーして今更あたしに白羽の矢が立っちゃった訳!?」
そう。
問題は――あたしにとっての問題は正にそれなのだ。
そもそも、約二百六十年も前に――というか、武士が朝廷から政権を取り上げたのは江戸幕府成立よりももっと前なんだけど、とにかく随分昔に朝廷と貴族を政治から引き離しておいて、自分が困ったらニコニコすり寄って来て仲良くしましょうってちょっと違うんじゃないの?
……百歩譲って、『困った時はお互い様』とか言うんならそういうことにしておいてもいいけどさ。でも……。
「その通りや、兄さん。第一、宮さんには既に熾仁親王さんいう許婚があらしゃいますのに……」
その場にいたおたあ様(つまり、あたしの母親)が、見事にあたしの内心を代弁してくれる。
そう。そうなのだ。
あたしが問題にしているのもつまり、『婚儀も目前に迫ったこの期に及んで何を血迷ってるのか』っていうことなのよ。
眉根を寄せたあたしとおたあ様に、負けず劣らず渋くなった表情を崩さないまま、伯父様が溜息と共に答えを口に乗せた。
「今の天皇家に適齢の姫宮さんが他にいてへんからや」
……はい?
「和宮さんの他と言えば、宮さんの異母姉に当たられる敏宮さんと当今さんの姫宮であらせられる寿万宮さんやが、敏宮さんは既に三十路を超えてはるし、寿万宮さんは去年お生まれにならしゃったばかりの赤ん坊や」
ちなみに敏宮の異母姉様は、別に嫁き遅れて独身、という訳ではない。異母姉様は、十一歳の頃婚約した方がおられたのだけれど、婚約の翌々年、お相手の方が逝去なさったので、以来ご結婚なさらず独身でおられるというだけの話だ。
一般人なら、妙齢になったら他に改めて良いお相手を探して結婚するのだろうけれど、皇族の『婚約』というのは結婚と同等の意味を持っている。婚約後、正式に夫婦になる前に相手に先立たれても、その後他の相手と結婚するということはまず有り得ない。
「一方の現将軍・家茂さんは当年和宮さんと同じ十五歳。年齢も釣り合うから、熾仁さんとのお話はなかったことにして早うご降嫁あれ、というのが幕府の官僚方の言い分や」
……何なのよ、ソレ。
年齢が釣り合うから、一度は幕府も認めた結婚話をなしにして早く嫁に来い?
随分一方的な話じゃないの。
そもそも、年齢が釣り合えば誰でも良い的なその言い方って何なのよ?
「……それで、異母兄様……いえ、主上は何て……?」
そう、異母兄様さえお断りになって下されば、この問題はそれで片が付く筈。
あたしは、わらにも縋る思いで、伯父様の顔を見た。
「勿論、有栖川宮さんとのお約束はもう十年前からのことやし、お式の時期も内定済みやと、斯様にお断りにならしゃいました」
ある意味、予想通りの返答にあたしはホッと胸をなで下ろしかけた。……が。
「しかし、これで果たして幕府が引き下がるかどうか……やな」
一縷の望みをあっさりくつがえすような台詞が続いて、上昇しかけた気分は元通り地に墜ちた。
発言した伯父様は勿論、おたあ様、熾仁、ついでにその場に一緒にいた乳人の藤の表情も一様に重い。多分、あたしも似たような顔をしているんだろう。
「――大丈夫……」
まるで、江戸から迫り来るかのような暗雲を払いのけたい一心で、あたしは無意識に言葉を絞り出していた。
「だって、異母兄様がお断りになったんだもの。幕府だって従わない訳にはいかない筈よね……」
呟くように室内に落ちたあたしの言葉に同意してくれる人はいなかった。
そうであって欲しいと願う気持ちは、きっと、その場にいた誰もが思っていたことだったと思う。
一抹の不安を振り切るように、あたしは自分に言い聞かせていた。
異母兄様が同意しなければ、幕府だって無理強いは出来ない筈。絶対に大丈夫だ、と。
けれど、それが本当に、喩えるなら、突如雷と共に襲いかかって来た大嵐の海中で、わらに縋るような甘い考えだったと思い知らされたのは、『破談話もあったなぁ』なんてたまに思い出す程度に時が経った頃だった。
***
天皇家の威を借りて何とか権威回復したい幕府は、こっちが思う以上に必死だったらしい。
初めて破談の話を聞かされた日以上に、心なしか青い顔をした熾仁が、『その報せ』を持ってきたのは、深刻な話題とは思い切り不釣り合いな、青空の広がる昼下がりだった。
「……正式に、破談……?」
たった今熾仁に告げられた、信じられないような言葉を、あたしの唇が勝手に反芻する。
文章の意味が、うまく頭に入って来ない。
しかし、話の内容を理解することを思い切り拒否する頭とは裏腹に、あたしの身体は反射的に動いて、熾仁の胸倉を掴んでいた。――まるで、あの日と同じように。
「正式に破談って……この短期間で何をどーしたら破談なんて話になる訳っっ!?」
熾仁は、数瞬苦しげに顔を歪めると目を伏せた。
「――……先刻……正式に主上から婚約解消の沙汰を受けた……今頃は宰相中将殿……君の伯父上殿も、同じ内容のお沙汰を主上から拝聴している筈だ。じきに桂御所へもそれを報せにいらっしゃるだろう」
「…………」
あたしは、咄嗟に言葉を返すことが出来なかった。
頭の中が真っ白になってる。何を言えばいいのか判らない。
「……あたしは……そんなコト訊いてるんじゃないわよ」
無意識に絞り出した声は、自分が思っていたよりずっと低かった。
熾仁の胸元を掴んだままの手が、みっともない程震えてる。
「……熾仁は、平気なの……? あたしが……っ他の男に嫁いでも……」
鼻の奥が絞られるように痛んだ。
俯いた視界が否応なく歪む。
「何も感じてくれないのね……!!」
瞬間、勢いよく跳ね上げた視界が何かに塞がれる。
今まで見たこともないくらい、熾仁の顔が間近にあった。それ以上何も言うことが出来なくて、ようやく唇が熾仁のそれで塞がれていることに気付く。
熾仁の唇が離れるまでの時間は、随分長かったようでもあり、それでいてほんの瞬きする間だったような気もした。
長い永い一瞬の後、熾仁の唇は温もりだけを残してゆっくりと離れていく。
「……熾……」
「……イヤだと喚いてどうにかなるものなら……」
聞いた事もないくらい低い声が耳元を掠めた。
「いくらでもそうするのにな……」
涙で霞んだ視界の中で、未練を振り切る様に立ち上がった熾仁の背中が遠ざかって行く。熾仁の着物に焚きしめられた香の残り香だけが、暫く尾を引くように漂っていた。
唇に触れる。
最初で最後の口吻けは、甘くほろ苦く、それこそ残り香のように未練を募らせる。
酷い。ひどい。ヒドイ。
まだ好きなのに。
こんなに好きなのに。
どうしてあたしが巻き込まれなきゃならないの――……?
©️和倉 眞吹2013.