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作者: 市川イチ



 街道は今日も熱せられている。

 この道が白く乾いていなかったことがこれまで一度もなかったことは、ここを通る旅人の誰もが知っている。また彼らのうちひとりでも、途中で青い空を見上げなかった者も無い。それが何のためかはみな同じである。ここに来ると、どんなに薄暗い、寒い国から来た者でも、一度は太陽を憎む。

 要は街道とはそういうものであって、靴に踏まれて陰気にうめく砂利、砂煙、それを吸い込む喉の引き攣れ、そういったものの集まりである。とりわけここの街道を行くのなら誰もが装備をしなくてはならない。風はいつでも吹いているし、太陽はいつでも照っている。だから白く長いローブと、水をいれた器を必ず持っていなくてはならない。なにしろ街道は、まともに歩いても半日はかかるほど長い。

 ディエゴは水を持っていなかった。彼は街道がこんなにひどい道のりだと思わなかった。――先輩の修道士が何人か、これまでにもこの道を通ったことがあったのだ。彼らは街道には陽をさえぎるものが何もないから暑いこと、風よけが必要なことはくり返し教えてくれたが、水の容器を持たないで行ってはいけないということは教えてくれなかった。ディエゴは先から何度ものどを鳴らしていた。喉は張り付いて、熱い空気に焼けるようだった。

 初夏だというのに、この陽気!

 ディエゴは頭を振った。しっかりしていないと、気が遠くなる。分厚いローブは擦り切れているので風通しは悪くないが、そのぶん日差しを遮ってくれない。この邪悪な日差し。どうしてこんなに暑いのだ。ここを通る無数の旅人たちが、誰もが平気な顔をしていることが彼には信じられなかった。先にすれ違った乗合馬車はいっぱいに人を詰め込んでいたが、みな自分ほどには疲弊していなかった。あの中の一人が「そら、坊さんが通る!」と言って手を振ってきたのを彼は覚えている。もしそんなことをするのではなく、水をくれていたなら――一口でいい、水を――

 だが水はどこにもない。これが現実だ。これも主の与えたもうた試練なのだ。どうあってもこの先の市場までたどり着かねばならないという重大な使命に、味付けのように添えられねばならない試練の一つだ。然らば、だまって享けねばならぬ。――ああ、しかし暑い! 彼の胸には久しぶりに外に出られるという世俗的な楽しみが確かにあった。こんな用事でも言いつからなければ、修道士は門をくぐることはない。だがこんなにも暑いのでは、彼は自分がそこにたどり着くまでに死んでしまうのではないかと思った。もしあの太陽が、もし五分間だけでも雲間に隠れさえしてくれたら……。あるいはそこらを通りがかる誰かが、この哀れな坊さんに茶碗一杯の水、それからもしできれば、塩のひとつまみでも、分け与えてくれさえしたら――。

 ディエゴは三日も前から心ひそかに楽しみにしていたこの外出を早くも後悔していた。修道院にはいってまだ日の浅い、二十四歳の若いディエゴには、老練な修道士たちが耐えうることも時には耐えかねる。彼はまだ見習い身分である。こんなとき、神の苦しみに心を馳せ、己の苦しみを乗り越えるすべも、まだ先達ほどには身につけていない。

 とにかく急いで、ああ、能うかぎり急いで行かなければならない! 彼の頭の中はもはやこの一事のみだった。この永遠とも思える街道をもし歩ききることができれば(彼にはここがゴルゴダにさえ感ぜられた)、その先にはこのあたり最大の市場がある。そして水のふきだす広場と、この邪悪な太陽をさえぎるテントがいくらでもある! そのことは彼を勇気づけた。早く到着したいものだ――もし、そこまで生きてたどり着けるなら……。彼は抱えている箱をしっかりと抱き直した。箱は一歩ごとに重みを増すように思われる。まるで彼の肩と足とを痛めつけるためにあるかのようだ。中には恐ろしいほどの大鍋で煮詰められた黒すぐりのジャムの瓶がぎっしり詰まっていて、一つ一つにはニエンナ修道院のラベルが貼られている。それを市場まで運んでゆくのは名誉なことのはずだった。まだ正式に認められていないディエゴにとっては初仕事に等しい。胸を張って歩まねばならない。だが彼はもうほとんど気力をさえ失いかけていた。

 街道は果てしない。だが何度めかに顔を上げたとき、彼の青い目はその無限の景色の中に、ふと異質なものを認めた。

 一人の老婆が道端に座り込み、布を広げて、その上に何やら小瓶のようなものを幾つも幾つも並べているのだった。遠目にもひどく年をとっているとわかる彼女は、頭からすっぽりと薄物を被り、生気のない姿でうなだれたまま、萎びた手を動かして、何か手探りしている様子だった。

 ――目が見えないのか――

 彼は確かにそう思った。はっきりと文字で考えたのでなく、頭の片隅にちらとそういう思考の断片が降ってきたというようなものだった。余計なことを考えた瞬間、またしても箱はずしりと重たくなった。これ以上は猫の子一匹載せられない船に、はからずももうひとり載せねばならなくなったようなものだった。彼は熱波と乾きとに疲れ果てていた。ほとんど引きずるようにして、砂利の感触を足の裏にいまいましく思いながら、彼は進んでいった。

 より近づいても、老婆はひたすら何かの動作を繰り返しているだけのようだった。そのとき、ディエゴの目に下り坂が見えた。永遠に停滞しているかのような白い道と青い空とのさかいめに、確かにその先が存在していた。彼の心は躍った。やがてさらに進むと、坂道を下りきった景色のむこうに、ようやく白いテントの群れがかすかに見えた。彼は叫び出したい気分になった。疲れが倍もひどくなったような気がし、また、これまで来たのと同じ分だけ歩けるようになった気もした。さもありなん、ようやくこの辛い道のりが終わるのだ。市場! これまでで一番願ったもの!

 ディエゴの足は無意識に早まった。彼は今まで以上に速く歩けるなんてまったく考えもしなかった。ただ足元の砂利道がよりいっそう足の裏に食い込むような気がした。彼は前だけを見て、首を乗り出すようにして歩き続けた。烈しい息遣いと砂利の音のほかには何も心になかった。

「あ!」

 それがどちらの声だったかわからない。だがディエゴは、右足のつま先が何かに当たった感触を確かに覚えていた。そして何やらガラスのぶつかり合う悲鳴を聞いた。たぶん、例の小瓶どもを蹴り散らかしてしまったのかもしれない――いや、きっとそうだ――彼は咄嗟にそう思った。あまりに急いでいたから――だって、朝の暗いうちに出てきて、ようやくここまで来たんだもの、すぐそこに市場が、ようやく――

 ディエゴは喉を鳴らした。唾液さえも出てこない乾燥しきった空気の中で、喉と舌ははりついていた。足を止めるか、止めまいか、ほんのまばたき一度ぶんの逡巡があった。ゆっくりと上げた左足。これを下ろすか、もどすか。

 左足は地面を踏んだ。そしてそれを合図としたように、右足はさらに速く振り上げられ、振り下ろされ、左足はさらに速くまた動いた。彼は大股に歩き出した。振り向かなかった。振り向いてしまえば、もう無かったことにはできない。あの老婆を手伝って、あの何が入っているやらわからない瓶だのを元に戻してやらなければならないだろう。もし、だめになったものがあったら? ガラスの割れる音がしなかったと思い切るだけの自信がない。あの老婆が強欲でないとどうして言える? 弁償しろと迫ってきたら、自分はどうしたらよいだろう。余分な金などコイン一枚さえも持っていないのに! それに水――水がもうすぐそこにあるのに、日差しを遮ってくれる優しい影がそこにあるのに、そこにあると知っていてそれを手に入れられないのは、そこにそれがあると知らないでいるのよりひどい。もう一秒だって待てないのだ。

 ディエゴはそれきり考えるのをやめた。ただ何か事務的な道具になったかのように動き続ける足に揺られて、彼は市場へ降りていった。テントのなかに入ると、彼は思ったより涼しくないことに気がついた。何しろそこは人でごった返していたからだ。それでも日差しを直接に浴びないというだけで、この残酷な暑さからは多少逃れえたような気がした。あの恐ろしい目玉にじかに見られずにすむというだけでいくらか気持ちが楽になった。ディエゴは開きっぱなしの口に飛び込んでくる砂埃を何度も拭いながら進んだ。

 人ごみをかき分けたその先にある広場には、焦がれに焦がれた石造りの水場があった。旅人たちが幾人もそこに足を突っ込んだり、体ごと飛び込んだりして涼んでいた。ディエゴもすぐにそこに近寄った。腰掛けていた人々が彼のために一人分の席を開けてくれた。ディエゴはその親切に感謝しながら、ジャムの箱をそばに置いて、靴を脱ぎ、膝から下を冷水に遠慮なく浸した。この暑いのにおどろくほど冷えているその水は、潤沢な地下水だということだった。火照りが徐々に鎮まり、しみとおるような冷たさが彼を癒した。隣にいた親切な人に飲み水はむこうで汲むのだと教えてもらった。彼は足が冷えるとすぐにそうした。

 思う存分のどを潤して人心地つくと、彼はやっとすべきことを思い出した。ジャムの箱をもって、懐の走り書きを取り出した。そこには尋ねるべき店主の名前が書いてあった。無限に連なっているとも思われるテントの中から、その男を探し当て、この箱を渡して、ジャムの売れるのを待っていれば、さしあたっての仕事は終わりだ。

 ディエゴは両肩が軽くなったような気がした。立ち並ぶテントの中に、彼の姿はあっという間に見えなくなった。


 帰り道、ディエゴはふたたび同じ道を通った。たいていのことは一度目より二度目のほうが格段に上手にやれるものである。今度は一度目より疲労せず、また夕暮れ近かったので太陽もそれほど残酷に照りつけはしなかった。何より重たいジャムの箱を持たずに済むのが嬉しかった。そしてもうしばらくはこの外の世界に出てくることもないのだと思うと、見える景色の全てが愛おしく感ぜられた。薄紫色に吹き付ける風を顔に浴びながら、彼は大へんいい気分で歩き続けた。そして真っ暗になった頃、ようやく修道院に帰り着いた。

 ニエンナ修道院はこのあたりでも最も古く、有り体に言えば最も廃墟に近い修道院の一つだった。ディエゴは市場の男からの手紙を持って、すぐに修道院長の部屋を訪ねた。

「おまえが無事に戻ると信じていたよ。首尾よくやれたかね、ディエゴ?」

「はい、パドレ」

「道中、ひどいことは何も起こらなかったかね?」

「はい、パドレ」

「それでは主の前に行き、祈りなさい」

「はい、パド――」

 ディエゴはその続きを失った。

「どうかしたかね、ディエゴ?」

「いいえ――いいえ、なんでもありません、パドレ」

 彼は早々に部屋を辞した。

 ほとんど真っ暗に近い廊下を歩きながら、心臓が胸を踏みあらすように激しく鳴りわめいた。彼は闇の中に目を見開いた。いつも歩き慣れた廊下なのに、今は得体の知れない恐ろしいものがそこここに潜んでいるように感じられた。ここへ来てからそういったものを恐れるのは初めてだった。――まるで子供の頃に戻ったようだ――

 この心細さはいったいどうしたことだ!

 ディエゴは頭を抱えた。彼は廊下を走りぬけ、月光からさえも身を隠すように、礼拝堂に滑り込んだ。そして十字架の前に、身を投げ出すように跪いた。

 思い出してしまったのだ。今までどうして忘れていたのかわからない。帰り道、あの老婆はどうしていた? 居たのだっけ? それとも居なかった? 私はどうして見なかったのだ。どうしてあの老婆を探し、彼女の品物がすべて無事であることを、彼女自身の身にも何も起こっていないことを、どうして確かめなかったのだ?

「私は罪を犯しました。そしてそれを償いませんでした」

 彼は震える声で懺悔した。

「喉が渇いていたのだと思います。とても――ひどく――疲れていました。箱が重かったのです。ああ、でも今はあのときの気持ちを思い出すことができません。ただ言えるのは、もしも今、同じことがあったなら、私はあの女性に心から詫び、彼女のガラスがひとつも割れていないことを確かめ、彼女自身を祝福し、接吻したに違いないのです……」

 神は黙ってディエゴを見下ろしている。許すとも、許さぬとも言ってはくれない。日頃あれほど当たり前に聞いているはずの神の声が、今は聞こえない。ディエゴは破れかぶれになってさらに叫んだ。

「疲れていたのです! とてもひどく――本当に……。水を持っていくべきだと知っていたら、そうしたのに――誰も私にそのことを教えてくださいませんでした。私はあの街道がああも残酷に、旅人にとって死の道たりえるとは知らなかったのです。もし知ってさえいたら! それに値するだけの心構えをしてさえいたなら、私は彼女に優しく出来たに違いないのです。ほんとうです!」

 一瞬、気が狂うかと思うような物凄い感情が湧いてきた。それは罪悪感とも焦燥感ともつかぬ烈しい濁流だった。自己弁護と、自己嫌悪とが、交互に彼を支配した。そして改めて沈黙が、痛ましい沈黙が、彼を押しつぶしていた。

 彼はしばらくの間うなだれていたが、やがて静かに立ち上がり、礼拝堂を出て行った。


 *


 それから一年して、ディエゴは還俗の日を迎えた。彼ははじめの誓願で三年の期限を切っていた。ほんとうは、期限が過ぎてもこの生活を続けたいと彼は心から願っていたが、とある事情が彼の信仰によそ見をさせたのだった。一日二日とすぎるうち、彼はそのことを忘れてしまうことを願った。だがどうしても忘れられる日はこなかった。どころか、そのかすかな棘がしだいに根深く突き刺さり、しまいには彼の心臓に根付きつつあったはずの信仰そのものに傷をつけようとしていた。ただひとつの染み――汚点――無くしたいのに無くならない過去の出来事――そういったものが、取り返しのつかないほどに現在を蝕むことがある。

 修道院を出たら、その足であの街道に向かおう。あの老婆を探そう。ディエゴの胸はふくらんだ。一年このかた気懸りだったそのことが、毎晩ちくりと胸を刺し、かといっておいそれと外にも出られず、彼を出口のない迷路に迷い込んだかのような陰鬱な気分にさせ続けた。今ようやく何らかの決着を見るのだと思うと、実に久しぶりに勇気がわいてきた。あの老婆が今もあの場所で元気に商いをしていることを確かめよう! そうだ、そうに違いないのだ。そしてあの日、私が彼女にしたことは、その後の彼女の生活に何らの影も落とさなかった、何らの影響もなかったことを確かめよう。

 いや何――そんなおおげさなことではない……。彼は照れ隠しのように頭をかいた。

 

 街道はその日も暑かった。だが不思議とあの日ほどつらくはないと感じた。彼はしっかりと顔をあげて歩いた。あの日のように重い荷物は無かったし、陽射しもいくらか穏やかなように感ぜられた。

 やがてあの下り坂が見えてきた――が、あの老婆の姿が見えなかった。街道沿いは無人で、時おり彼とすれ違うように歩いていく旅人が砂利を踏む音のほかは、奇妙なほど静まり返っていた。彼は落胆した。だがまだそれほど焦らなかった。この先の市場にいるのに違いない。この時は迷わずそう思った。それで、彼はいつかのように、小走りになって市場へ飛び込んだ。

 市場は賑わっていた。彼は、あの老婆の姿を探した。ここへくれば絶対に見つかるという不思議な確信が、やがて揺らぎ始めた。老婆は何人もいたが、彼の探している盲目の老婆だけがここにいなかった。あるいは、彼女は盲目でなかったかもしれない。だが彼は老婆のことをよく覚えている。ガラスの小瓶を幾つも並べて、商いをしていた女だ。

「――すみませんが、ちょっとお尋ねします……」

 彼は見知らぬ人に話しかけるのに勇気が要った。修道院暮らしがあけて初めて目にする世俗の人たちだった。とまれ、その人は振り向いた。そして、ディエゴを見るや肩をすくめて、「何ですか?」といった。

「このあたりに老婆はいませんか――物売りで、小さなガラスの小瓶をたくさん持っている女です。たぶん盲目で――」

 これだけ特徴をあげれば、すぐに見つかるだろうと彼は思った。これらすべてに当てはまるような老婆がそう何人もいるものか。きっとこのひげの男性が、「ああ、その人ならこの先にいるよ」とでも言ってくれるに違いない。そう信じていた。だが彼は眉間にわずか皺を寄せただけだった。「いいや、知らないね」

 ディエゴは礼を言って別れた。――なに、まだ一人目だもの! 彼は気を取り直し、またすぐに別の人を捕まえて、また同じ質問をした。「この坂道を上がったところで、露商をしていたお婆さんを――」

 大きな金の首飾りをした男性は、ディエゴの話を最後まで聞かずに首を振った。

「残念だけど、お役にたてそうにないね、お兄さん」

 その次も、その次も同じ返事がもどってきた。彼はしだいに呼吸が荒くなった。心臓が胸を踏み荒らす。どうして、どうして見つからないのか? 彼はもう手当たり次第に尋ね回った。だがそうしたのと同じ分だけ、知らないという答えが返ってきた。まるで彼を皆して口裏合わせて騙しているみたいだ。――これは悪い夢だ!

 ディエゴはそうする間にも目をあちこち巡らせた。だが心の焦りは目を曇らせる。こうなってしまうと、目というものは見ようとしているものしか映さない。あの老婆にどうしてこうも執心しているのか、自分でももはや判然としない。彼は幾度も自問した。――やがて、私は悔いているのだ。一つの答が浮かんできた。

 神に仕える身でありながら、博愛に生きるべき身でありながら、あの日、私は自分の目先の報酬のためにあの老婆に侮辱を加えた。あるいは、彼女の売り物に躓いてしまったことまでは私の罪ではなかったかもしれない。過ちはしかるべきのちに贖われる。だが私はそれをあろうことか見て見ぬふりをしたのだ、罪を罪と認めず、だから償いもしなかった。そのことがどうしても悔やまれるのだ。こうして還俗し、人の世に戻ってきて今もなお、あの記憶が飲み込みそこねた棘のように、喉に引っかかり、心臓に触れる。これから始まる市井の人としての生活に、そのことがどうしても影を落としているような気がしてならない。

 ふとディエゴは息苦しさを覚えた。そしてそれが、信じられないほどの暑さのためであることに気がついた。この街道がどんなに暑いか、私は知っているはずなのに、どうして水を持ってこなかったのか? 頭の片隅を疑問がかすめた。――暑い――どうしてこんなに――。

 あの日の暑さが急激に戻ってきたように感ぜられた。あの日のあの思いが戻ってくる。あたかも時の巻き戻るように、ディエゴの喉を干上がらせ、ディエゴの肩に重荷が乗る。

 この種の後悔は恋によく似ている。もう一度その人に会うまでは、自分の生活などというものは凍結してしまったようなものなのだ。

 ディエゴは半狂乱になって探し回った。だが探せば探すほど、あの老婆のことを思い出せなくなってゆくような気がした。行方はどうしても知れなかった。せめて彼女がどこか別の地に移っていったことを知っている人があればと思ったが、それもなかった。もし、あの婆さんは何処そこへ行ったよ、息子と暮らすんだとさ、とでも誰か言ってくれたなら、どれほど安堵したかしれない。だが彼の願ったことは何一つ現実に起こらなかった。あの老婆の元気な姿を一目見ればすぐにでもここを立ち去ろうと、あんなにも気軽に、思っていたのに!

 立ち尽くす彼のまわりを、人々が流れていく。誰も彼を気に留めない。巨大な蛇のような市場の流れは、その腹にディエゴ一人を刺のように引っ掛けたまま、うねり続けている。

 彼は無性に修道院へ帰りたくなった。だがその道ももう閉ざされている。太陽は容赦なく照りつける。

 昼下がりのざわめきの中で、彼は気の遠くなるような孤独を感じた。





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