9・海の秘印
うまく切る場所が見つからず、今回は長めです。
夜半、シーナは息苦しさによって目を覚ました。全身が冷たい気もする。重たい瞼をゆっくりとあげると、何と自分は空中を移動中だった。しかも周りを透明な球で覆われて。
「っえええ!?」
バッと球に張り付くとひんやりと冷たい。どうやらこれは水でできているようだった。その証拠に、壁に触れた手が濡れている。
眼下を素早く通り過ぎていく町の屋根を呆然と眺めつつ、シーナは何が何だか理解する前に海辺へと連れてこられていた。球がゆっくりと下降し、滑らかにシーナを陸へ下ろす。
目をぱちくりさせて砂浜に座り込んだシーナの前に、海の中から大柄の男が突如として現れた。
「夜半に失礼する。貴殿はシーナ嬢とお見受けいたす」
自分を見下ろす男の全身を見て、驚愕する。声をかけてきたのは只の男性ではなく、ゼオと同じ――人魚、だった。
「お初にお目にかかる。私はゼオ殿下の近衛隊隊長を務めている、クエイと申す。今日は貴殿に話があって参った」
「……はあ……」
あまりにも唐突過ぎてシーナは間の抜けた返事しか返せない。呆然と自分を見上げるシーナに、クエイと名乗った男はその無表情な顔を少し顰めたが、かまわず言葉を続けた。
「単刀直入に申し上げる。貴殿から、ゼオ殿下に海に戻るよう説得してもらいたい」
クエイの言葉を聞いているうちに、シーナも段々と思考が働くようになってきた。その言葉の意味を理解すると、考えるまでもなく即答する。
「お断り」
途端、クエイはきつく眉を寄せた。
「断る、と」
「ゼオは『逃げてきた』と言ったの。そんな彼に、理由も分からず戻れだなんて言えない」
「理由が分かれば説得するのか?」
「もしそれがあたしの納得するものであれば。でも今の時点で、こうして勝手にあたしを此処につれてきたあなたの方が正しいなんて、思えない」
クエイは真摯な様子で左胸に添えられていた右手を下ろし、そのまま腕を組む。少し斜め上から見下すようにシーナに向き直った。
「どうやら貴殿は何もご存じないようだ。殿下は多くを話していないのだな」
シーナ自身も思っていたことをつかれ、言葉につまった。そんなシーナをクエイは鼻で笑った。
「とにかく、我々には時間がない。貴殿が殿下の説得に当たらないというのであれば、代わりに人質として海へきていただこうか。従わぬようなら実力行使も厭わぬ」
言うなり、クエイは片手を上げた。彼の後方で海の水が盛り上がり、大きな壁のようになる。流石にシーナも僅かに身を引いた。
今にもシーナに襲いかからんとするその壁を、それよりも更に大きな壁がクエイごと押し流したのは、その時のことだった。
「シーナ!!」
振り返ると、先ほどシーナが乗っていたのと同じ水球に乗ってこちらに近づくゼオの姿があった。右手を伸ばした彼の体勢から見るに、今の壁はゼオの魔法だろう。
シーナの傍まできたゼオはさっと水球から下りると、不安げに眉をよせて彼女を見つめた。
「大丈夫!?」
「うん、ありがとう。それよりもゼオ、どうしてここに……」
「眠っていたら魔法の波動を感じてね。嫌な予感がしてシーナの部屋にいったらもぬけの殻だったから、魔力の痕跡を辿って追ってきたんだ。間に合ってよかった」
ほっとしたように息を吐くと、俄かに真剣な表情になったゼオは素早くシーナを背にかばった。押し流されたクエイが戻ってきて、いつの間にか元の場所に佇んでいる。
「クエイ、これはどういうつもりだ」
そう言ったゼオの声は、シーナが今までに聞いたことのないほど冷ややかなものだった。
「何分、殿下から色よい返事を頂けなかったものですから。実力行使に出た次第です」
ここでシーナの中の何かが繋がった。先日ゼオが読んでいた手紙は恐らくレテンベールからのもので、戻るよう書いてあったのだろう。だから彼はあんな言葉を呟いたのだ。
「暫し待てと言っただろう」
「そうは言っていられなくなったのです。クシュルクスの女王から書簡が届けられました」
「クシュルクス……?」
ぽつりとシーナが呟いた言葉を拾われた。クエイがシーナを見、嘲笑するように口の端が上がる。
「本当に何も知らぬようだな。クシュルクスとは、南の海を統べる我等がレテンベールと海を二分する北の王国だ」
「クエイ。僕が話す。それ以上は口を慎め」
は、と短く発し、クエイが頭を垂れる。そうした様を見ていると、今までになくゼオが『王子』として見えた。
「シーナ、僕の国には男が少ないって、前話したよね。王族の男子、更に直系となると本当に貴重で、僕は生まれたときから王位継承者確定として生きてきた。政務はもちろんだけど、こんな国だからこそ王位継承者にはある責が課せられる」
「責……?」
「多くの妻を娶ること、だよ。しきたりでも何でもなく、それは義務だった」
シーナの胸がずきりと痛む。以前、『ラクセウムの塔の姫君と剣の王子』に憧れていたと言った彼。そんな彼に課せられる、その責――。
「王位継承者である以上、僕はそれについては諦めていたよ。だけどね、事態を一変する出来事が起きた。……弟が生まれたんだ」
弟がいるとは、前にゼオに聞いたことがあった。だがそれがどうして事態を一変させることになったのかと、シーナは首を傾げた。
「弟は僕より魔力が強かった。人魚の世界は生まれた順序ではなく、魔力の強さで王位の継承順が決まる。だから僕は王位継承第二位になり、王太子は弟になった。これで僕は『たった1人の姫君』を見つけられる、そう喜んだのもつかの間で、すぐさま取り纏められたのがレテンベールの女王への婿入りだった。彼女は僕の『たった1人』にはなってくれない、そう分かっていたから絶望したよ」
「……なってくれない? どうして?」
「レテンベールはクシュルクスと逆で、男の数が圧倒的に多いんだ。女王である以上、男をたくさん婿に迎えるのがしきたりで、僕はその多数の男たちに混じるなんてまっぴらごめんだった。男たちの中で第一位とされたってちっとも嬉しくない。このままでいいのか、そう思った時にはもう、逃げだしていたよ」
これが僕の逃げてきた理由、そう言ってゼオは苦笑した。
今まで彼が口にしなかった『逃げてきた』理由がそうだったとは、シーナには考え付かなかった。シーナはかける言葉が見つからず、じっとゼオを見つめた。
「でも、逃亡生活はもう終わりみたいだ」
そう言い、ゼオはクエイに向き直った。
地上にやってきたときから、これは期限付きの逃走なのだと理解していた。幼い弟に全てを投げて自分だけ逃げるわけにはいかない。生まれてからずっと自分を信じてきてくれた国民を裏切ることなどできない。
それでもこれほどに戻りがたいと思うのは、きっと目の前の彼女のせいなのだろう。
でも彼とて、近衛隊隊長が実力行使に出るほど切羽詰まった状況だということくらい理解している。女王からの書簡は余程の内容が書かれていたのであろう。
「クエイ、女王からの書簡の内容を言え」
「は。殿下が逃げ出すほど嫌ならば婚姻は取りやめるが、そのまま地上に残るならばクシュルクスへの冒涜と見なして宣戦布告する、というものでした。王宮は今上を下への大騒ぎです」
「そうまで言ってきたか……」
「女王の地上嫌いは有名です。殿下さえ海に戻ればこれまで通りの関係を続ける、とも暗に示唆されていました」
「……分かった、お前はもう戻れ」
「殿下」
「分かっている。……すぐに戻るよ、お前は少し先に行け」
クエイは少し渋った様子だったが、もう一度ゼオに促されると、頭を下げて海へと潜っていった。
それと入れ替わるように、若い男が海面に顔を覗かせた。下半身を見なくとも彼が人魚だというのは分かり切ったことだった。
「殿下」
「アンセルか」
その彼を見て、ゼオは先程クエイと対峙していた時よりも幾分態度を柔らかくした。
「シーナ、彼は僕の側近のアンセルだ」
「はじめまして、シーナ様」
そう言い、アンセルは右手を左胸にあてる。クエイもしていたこのポーズは、きっとレテンベールでの正式な礼なのだろう。
「アンセル、クエイについてきたのか?」
「はい。どうしても殿下にお目通りしたく、隊長殿に頼んだ次第です」
アンセルが海中に手を差し込んで引き揚げたのは小さな壺だった。それをずいっとゼオに差し出す。
「これをお使いください、殿下」
「これは……」
「『海の秘印』です。なりたい姿になれるこの秘印ならば、殿下は完全な人間になることができます」
「盗んできたのか?」
「どんな罰も受ける所存です。わたしのことはどうかお気になさらないでください。わたしはどうしても殿下に幸せになってもらいたいのです」
言い切り、アンセルはゼオをまっすぐに見つめた。
ゼオに幸せになってほしい、それはシーナにとっても同じだった。人間になり、地上に残ることがゼオの幸せならば、是非ともその秘印とやらを使ってほしい。
だがゼオがそれを使うことはないと、シーナは確信をもっていた。彼はきっと、国を投げだすことをしないだろう。それがゼオだ。
「すまないな、アンセル。……もう戻れ」
「……はい」
アンセルは訝しげな様子だったが、ゼオに逆らうことはせず、素直に海へと戻っていった。それを見届け、ゼオがくるりと振り返る。
その瞳を直視して、シーナの胸は張り裂けんばかりに痛んだ。
(ゼオはもう、決めてる)
さっきから何度も出てくる、『戻る』という言葉。その言葉はシーナの胸を深く抉る。
「シーナ」
優しく自分を呼ぶ声。この声とも、あと少しでお別れなのだろう。
今までの会話にシーナは何も口を出すことが出来なかったけれど、本当は行かないでと叫びたかった。ゼオが海に戻らなければならない話なんて聞きたくなかった。
「逃げるだけじゃダメだなんて、分かり切ったことだった。それじゃ何の解決にもならない。……僕はレテンベールへ戻るよ。そして、クシュルクスとの交易を円滑にしようと思う」
今は仲が悪く、そのせいで男女比のバランスがとれないのだ、とゼオは続けた。
「兄としては、もし弟が『たった1人の姫君』を見つけたとき、その子と幸せになれるようにしてあげたいと思うからね」
「ゼオの……ゼオの、幸せは?」
「僕? 僕はね、もういいんだ。もう見つけたから」
ゼオはしゃがんで海水を掌いっぱいに掬うと、その形を操った。それは月光を受けて光り輝くティアラへと変形する。立ち上がり、ゼオはそれをシーナの頭上に載せる。
「……きれいだ」
にこりと微笑み、ゼオはそっとシーナの頬に触れると、額に口づけた。
「優しいところも、初なところも、泣き虫なところも、ころころ変わるきみの表情すべてが好きだよ、シーナ。数日間、人生の休暇をありがとう。僕のことは一時の幻だったとでも思って、どうか忘れてね」
シーナの瞳に滲んだ涙をゼオが唇で拭う。近距離で見つめあっていた体勢から、優しく唇が重なった。触れるだけのそれはやがてそっと離れていき、水のティアラも空中に霧散する。ゼオがゆっくりと上体を起こした時、シーナの息は止まった。
「僕のたった1人の姫君。幸せになって」
彼が行ってしまう。
優しい笑顔もその声音も、そばに感じる体温も。
このまま、手の届かないところへ行ってしまう。
――これでいいの?
そう思った時には、すでに体が動いていた。
ゼオの腕から壺を引っ手繰り、力任せに蓋を開ける。と、中からシーナの見たことのない文字らしきものが風を巻き起こしながら飛び出して、彼女の左腕を取り巻いた。
「シーナ!?」
ゼオが慌てたように壺を取り返すが、発動した秘印はもう止まらない。
印がシーナの腕に落ち着こうとしているのを見て、ゼオはシーナの腰を攫い、水に飛び込んだ。驚いたシーナは口をあけ、溺れた時にいつも味わう苦しさを思い出した。が、その苦しさはやってこず、前にゼオに海中で息ができるようにしてもらった時と同じ感覚が、シーナを包み込んだ。
秘印が彼女の腕に落ち着いたとき、ネグリジェの下の足は見事な尾へと変化していたのだった。
「……苦しくない」
変身を遂げた第一声は、それだった。
「あたし、人魚に……っひゃ」
シーナが言いきる前に、ゼオが彼女をきつく抱きしめていた。シーナと一緒に海に飛び込んだため彼も人魚に戻っており、破れたズボンが辺りにたゆたっている。
「どうしてこんな無茶をするんだ!」
怒鳴られ、シーナは思わず身を竦ませた。だがここで怯んではいられない。
「ゼオが戻るなら、今度はあたしがそっちへ行くわ」
「なんてことを……っ! もう人間には戻れないんだ、ご両親やキノトはどうする!」
「尾が乾けば人型に戻れるでしょ? そうして会いに行く」
「でも……っ」
まだまだ言い募ろうとしたゼオの口を、シーナは自分の唇で塞いだ。ゼオの瞳が驚きに見開かれる。シーナからしたのは初めてで、かあっと頬が赤くなるのが分かった。
「……あたしにとっても、ゼオはたった1人の王子様なの。忘れるなんて無理よ」
「っきみは……っ」
「それにゼオも、あたしが壺を開けた時迷わず海に飛び込んだってことは、あたしがなるとしたら人魚だって分かってたってことでしょ?」
言われ、ゼオはぐっと押し黙った。確かにその通りだ。彼女は何になるか分からなかったのに、自分は人魚だと確信して海に飛び込んだ。ゼオは深くため息をついた。
「……レテンベールに行っても、きっと辛いことばかりだよ? 僕の傍にいると面倒事にばかり巻き込まれると思う。僕が王太子じゃなくなって、シーナ1人と決めていても、周りはきっと口を出してくるだろう」
「その重婚の制度を変えるためにも、ゼオは戻るんでしょう? あたしだってゼオと一緒にいられるように頑張る。口うるさい人になんか負けるもんですか」
意気込むシーナに、ゼオはもう一度ため息を吐く。やがて諦めたように微笑み、シーナをぐっと引き寄せた。
「……僕の負けだよ」
月光が海中を煌びやかに照らし出す満月の夜、2人の人魚は口付けを交わした。




