4・海の中
「今日はお前の相手をしてやってもいい」
「別にいいわ」
朝一番にシーナを訪ねて来て開口一番に上目線のセリフを突きつけてきたキノトに、シーナがさらりと答えると、彼は雷でもうけたかのように固まった。そんなキノトは放っておいて、シーナは洗濯物を干す手を再び動かし始める。
「なっ、なんだと!?」
石化状態から戻ってきたキノトは乱暴にシーナの髪を引っ張った。痛いってば! と言いつつもシーナが振り返ってくれるのを知っての行動である。現に、今もシーナは振り返ってくれた。
「今日はゼオと約束があるの。だから無理」
「ゼオ……あの人魚だな。あんなやつどうでもいいだろ!」
「どうでもいいなんてことあるわけないじゃない。約束したんだもの、破ったりなんてしないわ」
「……お、俺より大事なのかよ!?」
「どうしてキノトと比較する必要があるの?」
「…………っ」
「もう、いい加減手をはなしてってば。痛いのよ」
シーナが手を振りほどこうにも、キノトの力の方が強い。くるりとキノトに背を向けシーナは奮闘する。と、うわっ、というキノトの声が背後で聞こえ、髪を引っ張る手が緩んだ。これ幸いと髪を引き抜き振り返ると、キノトが両手をゼオに拘束されていた。
「ゼオ!」
ぱっとシーナが笑顔になったのを見て、キノトは唇を強く噛んだ。
「シーナ、仕事は終わった?」
「あ、ううん。でもあと1枚で終わりだから、ちょっと待ってて」
「うん。いくらでも待つよ」
相変わらずキノトを拘束したまま、ゼオは洗濯物を干すシーナをにこにこと見ていた。キノトはゼオを振り仰ぎ、力いっぱい睨みつける。
「おい人魚、手をはなせ」
「嫌だ。きみはシーナに言われたとき、手をはなさなかっただろう」
「くそっ」
キノトは拘束された両手に力を込めてみたが、ゼオの手はびくともしなかった。優男だと思っていたが力は半端なく強い。これが人魚というものなのか、とキノトはますます苛立ってきた。自分だって決して怠けた体をしているわけでもないのに、こんな男にすら勝てないのか。
「お待たせゼオ。行きましょ」
「うん」
シーナが振り返った途端パッとキノトの手をはなし、ゼオは彼女に歩み寄る。優しくシーナの肩に添えられた手も、甘い微笑みも、何もかもキノトは気に入らなかった。
そこに触れていいのも、その笑顔を向けることができるのも、全部自分だけのはずだったのに。あくまでも将来の予定として、というのが悔しいところだが。
「じゃあキノト、またね」
にこにこと去っていく2人を、キノトは睨みつけることしかできなかった。
* * *
2人が来たのは、シーナがゼオを見つけた岩場である。日中は海水浴客が多い砂浜だが、ここならば誰もいないだろうと判断してのことだった。
じゃあ、と言ってゼオが勢いよく上着を脱いだのでシーナが慌てて視線を外すと、ゼオはそんな彼女の様子にくすくすと笑った。シーナはむっとして背中を向けるが、それでも赤くなった耳は隠せなかった。
「もういいよ、シーナ」
言われ、恐る恐る後ろを振り返ると、浅瀬に人魚姿のゼオがいた。人間になるのは尾を乾かすのに時間がかかるが、反対に人魚に戻るときは早いようだ。足を海につけて一瞬のうちに変化である。
乾燥ワカメみたいと思ったのは黙っておこう、とシーナは決めた。
「じゃあ泳ごうか」
「えっ!」
「え?」
ゼオの言葉にシーナが驚きの声を上げると、ゼオはその反応に驚いた。しまった、とシーナは視線を泳がせる。
ゼオが人魚の魔法を見せてくれる、と言ったのは、シーナは砂浜にいたままゼオが魔法を披露してくれるということかと思ったので、シーナには彼に言っていなかったことがある。散々キノトに馬鹿にされたことだったので、できれば言いたくなかったのだが―――ゼオの追及の視線には耐えられそうもなかったし、この状況では言わないわけにいかなかった。
「……泳げないのよ、あたし」
ぽつり、シーナが呟く。
幼い頃からキノトに海に落とされ続けたことが原因だとは思うが、シーナは海が怖かった。見ている分には好きだし、全身つかるくらいなら大丈夫だが、泳ぐとなると途端に無理になる。あの息苦しさが思い返されるからだ。
シーナにとっては意を決した告白だったが、そろりと視線を上げてゼオを見ると、彼はちっとも気にしていないどころか満面の笑みだった。
「なんだ、そんなことか。そんなことを気にしてるなんてシーナは可愛いなあ」
「えっ」
「それならこの場で魔法を見せてもいいし、何ならシーナが海の中で呼吸できるようにすることもできるけど」
「そんなことができるの?」
「うん、ただちょっと……シーナは嫌がる、かも? いやいや決して僕が下手とかそういうわけではないんだけど」
むしろ上手いと自負したいくらい、だとかなんとかゼオはよく分からないことを言っていたが、シーナは一も二もなく飛びついた。
「お願いゼオ! 一度でいいから海の中を見てみたかったの」
泳ぐことは怖かったが、海の中に興味がなかったわけではない。むしろ周りの皆から聞かされる海中での光景に、憧れは強まるばかりだった。
「……お願い」
「そんなに可愛くお願いされちゃ、やらないわけにはいかないなあ。ただ、怒らないでね?」
ちょいちょい、とゼオがシーナを手招きする。シーナが小走りでゼオに近づくと、彼はぐいっとシーナの手を引っ張り、腰を攫った。え、と思う間もなく唇を奪われる。
「……ん……んんっ」
唇に触れる柔らかな感触に、シーナは一気に顔に熱が集まった。
これは世間一般に言う、キス、ではないか。
(なにこれなにこれ、どうしてこんなことに!?)
もちろんシーナにとっては初めての体験であり、息継ぎの仕方もさっぱりだった。どうにか空気を得ようと薄く開いた唇の隙間から、ぬるりとしたものが侵入する。歯列をなぞられ、ぶるりと身震いして開けた歯の間からそれはさらに奥へと侵入し、シーナの舌を絡めとった。
「んぅ……ん……」
初めての感覚に、シーナは段々腰の力が抜けていく。口腔を攻められているうちに上着のボタンが外されてするりと脱がされ、スカートも引きずり降ろされて水着姿にされていたが、抗うことすらできなかった。
口の中に自分のものではない液が流れ込み、息苦しさからごくりと飲み込む。それを確認にしたゼオはちゅっと音を立てて名残惜しげに唇を離した。2人の唇を細い銀糸が伝う。
ぼうっとした表情のシーナを見て、ゼオはふわりと笑んだ。
「ああもう、そんな顔しちゃって。……可愛いなあ、ほんとに」
そうシーナの耳元で囁くと、ゼオはぐいっと彼女を引っ張って海に飛び込んだ。キスの余韻で意識が薄れていたシーナも流石に覚醒する。冷たい海水が全身を覆い、いつもの息苦しさを恐れたシーナはじたばたと暴れた。が、目の前のゼオはゆっくりとシーナに呼吸を促す。
「落ち着いて、大丈夫。僕を信じて息をしてみて」
まるで地上にいるかのようにゼオの声が聞こえ、シーナは驚いた。海中なのにそうとは分からないくらい周りは穏やかで、シーナは意を決して一息吸い込んだ。もう息を止めているのも限界だったのである。
一息吸い、目を瞬かせる。
何も苦しくなかった。
「ほらね、大丈夫だっただろう?」
目の前のゼオを見つめて数回呼吸を繰り返してみるが、同じだった。まったく苦しくない。
地上で空気を吸うように水を吸うのかと思いきやそうではなく、何かよく分からない、ほんのり暖かいものが喉を通る。
「……苦しくないわ。あたし……海中にいるのに!」
「さあ海中はどうですか、レディ? お気に召した?」
シーナはぐるりと周りを見回し、顔を輝かせた。
色とりどりの魚や珊瑚に、海藻。日の光を浴びて七色に色を変える水泡。そして海面から差し込む幾筋もの光―――。
初めて見る海中の光景は、まるで1つの大きなステージのように見えて、シーナにはとても神秘的な世界であった。
「きれい……」
ほう、と息をついたシーナに、ゼオは柔らかく微笑みかける。
「よかった、気に入ってもらえたみたいだね」
「うん、ありがとうゼオ。こんなに綺麗な世界が見えるなんて思ってもみなかった。海中で息ができるなんて……」
「人魚の体液を摂取すると、人間でも海中で息ができるんだよ」
「そう、体……」
液、と続くはずだったシーナの言葉は途中で止まった。俄かに先程の行為を思い出したからである。茹でダコのように顔が真っ赤になった。頭の天辺まで真っ赤なのではないか、とすら思う。
一瞬で真っ赤になって黙りこくったシーナにゼオは首を傾げたが、ああ、とその理由に思い立ったようだった。
「だから言ったでしょ? シーナは嫌がるかも、って。ごめんね」
申し訳なさそうにゼオが謝ってくるが、シーナは顔を上げることができず、ふるふると首を横に振った。
嫌――はたして自分は嫌だったのだろうか。
そう思っていない気がして、シーナは自分で自分が分からなかった。
(……いいわ、もうどっちでも)
少なくともゼオを引っ叩いて蹴り倒し今すぐ水面に上がっていく気がないのは確かである。それならばもう、気にしない。
ゼオの裸の上半身に抱きついたままだということも頭をよぎったが、今更気にしてもしょうがない気がした。恥ずかしいには恥ずかしいが、ゼオは海の中で服を着る気は無いようだし。
「……ゼオ、魔法を見せて」
そう言い、シーナはゆっくりと顔をあげて笑いかけた。ゼオは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに今日一番の笑顔を見せて、シーナをもっと強く抱きかかえた。
より密着するのは恥ずかしいけれど、今体を離されては泳げないシーナは海底に沈んでいくしかないので、有り難い。
「それじゃあ、よーく見ててね」
ゼオはまず、2人の周りに渦を巻く球を作り始めた。徐々に色をおびていくそれを見つめ、シーナはその先の展開に胸を弾ませたのだった。




