2・彼は只今逃走中
「僕はゼオ。よろしくね」
キノトからズボンとシャツを無理矢理借りてきたシーナが駆け戻り、岩の向こうに投げ込むと、それを着終えたらしい男はそう名乗った。岩に背を向けて座り込んでいたシーナが振り仰ぐと、岩の向こうから男が顔を出している。ふらつきながら岩を越えてくるその様子はとてもじゃないが座って見ていられるようなものではなく、シーナは思わず立ち上がったものの、下手な手出しもできずにゼオが無事に着地するまでそわそわしていた。よいしょ、と腰を下ろしたゼオの隣に再び座り直す。
「服をどうもありがとう。あなたの名前は?」
「シーナよ」
答え、シーナが横を向くと、ゼオと目が合った。淡い青色の瞳はまるで 天を写し取ったかのように澄んでいる。さらりと肩にかかる髪は極薄い金色で、夕焼けを映してほのかな橙色をしていた。肌は白く、鼻梁はスッと整っている。男性的ではなく、どちらかといえば中性的な美貌。
「シーナ」
名を呼ばれ、シーナはゼオを見つめていたことに気づく。顔がカッと赤くなり慌てて前を向いた。さっきといい、ゼオを見つめ過ぎだ。一体自分はどうしたのか。
「ごっごめんなさいっ」
「いや、別にいいんだけどね。そんなに見つめられると照れるなーってだけで」
「ゼ、ゼオは人魚なのよね? どうしてこんな所にいるの?」
「ああ、自由になりにきたんだ」
「え」
「自由を求めて、逃げてきた」
いやー疲れた疲れた、と言ってゼオは足を伸ばす。ズボンの丈はゼオに合っておらず、足首がのぞいていた。キノトも身長が高い方なのにゼオはもっと高いのだと、シーナは初めて気づいた。そう言えば立っただけで岩から顔をのぞかせられたのだから、高いのは当たり前かもしれない。
自由を求めて、だなんてどんな生活を送っていたのだろう。ゼオの身なりは整っていて、酷い扱いを受けていたようには見えない。けれど逃げ出してきたというくらいなのだから相当のことがあったのだろう。もちろん、ゼオが適当なことを言ってはぐらかしているのでなければ、の話だが。
ゼオは伸ばした両足をぱたぱたと上下させた。
「足って不思議だね、別々に動くんだ。初めての感覚だよ」
「それが不思議って方が不思議」
「だろうね」
しばらく足を堪能した後ゼオはその動きを止めた。急に神妙な面持ちになったかと思うと、くるりとシーナの方を向く。真剣な眼差しを受けてシーナの心臓は大きく1回はねた。
「シーナ、この服の代金、もう少し待ってもらってもいい?」
「あ、うん、それは大丈夫」
キノトのだし、と心の中で付け加える。後で事情を説明すれば、いくらキノトとて分かってくれるだろう。
「それと、どこか泊まれる場所を教えてもらえないかな。できれば、働ける場所も」
「いいけど、ゼオお金持ってるの?」
「ううん、無一文。だから後払いを許してくれるところだとありがたいかな」
言われ、シーナは暫し思案した。泊まれる場所を探したところで無一文じゃどうなるか。この町の人は皆いい人だと思っているが、最近物騒になってきた中で身元の分からない男を後払いで泊めてくれるかどうか。しかも今は夏、アークリオの年で1番の観光シーズンだ。宿は埋まっている可能性が高い。かといってここで放り出すのも気が引けた。うまく歩けもしないゼオは見るからに高貴で、さらには軟弱そうで、格好のカモにされてしまうのが目に見えている。
「……それなら、うちにくる? 空き部屋が1つあるの。それならタダで泊まれるし」
ああまたキノトに怒られるな、などと思いつつも、シーナはそう口にしていた。
「え? そんな、いくらなんでもそこまでお世話になるわけには」
「この際もういいわ。乗り掛かった船ってやつよ。どうせ何にも使われてない部屋だったし」
「でもシーナのご家族は」
「うちの両親は適当な人だから大丈夫」
「いや、でも、こんな不審な男を泊めてくれるかどうか」
「だから、大丈夫だって」
不審って自分で自覚してるんだ、とシーナは思わず笑ってしまった。
傍から聞けばシーナが懸命にゼオを誘っているような会話だ。実際、それに近い。ゼオとここで別れてそれっきりになるのは何となく嫌だった。
「……それなら、お言葉に甘えさせてもらおうかな」
だから、ゼオがそう言って折れたとき、シーナは何故か安心した。
* * *
歩くとふらつくゼオの肩を支えて家の傍まで来たとき、玄関の前で仁王立ちしている人物を目にしてシーナは顔をしかめた。なんとも面倒なやつに出会ってしまった。両親よりこの男の方が問題だ、などと思っていたのに。
「シーナ!」
いらいらと爪先を上下してシーナを待ち構えていた男――キノトは、シーナとその肩によりかかる見知らぬ男を目にし、大声をあげた。
「そんな大きな声で呼ばなくても聞こえるわ」
「誰だこいつ」
シーナの主張は無視し、キノトはゼオを睨みつける。睨みつけられたゼオは驚いて目を丸くしたが、すぐに柔和な笑みを浮かべた。
「僕はゼオ」
「そんなこと聞いてるんじゃねぇ。離れろ目障りだ」
「あ、ちょっと!」
すたすたと2人に歩み寄ったキノトは、シーナが止める間もなくゼオをシーナから引き剥がした。突然支えを失ったゼオはふらついてそのまま地面に崩れる。シーナは慌ててゼオの隣にしゃがみ込み、顔を覗き込んだ。
「大丈夫!?」
「あ、うん。驚いたけどどうにか」
「よかった……あっ」
キノトの無事を確認してほっと息をついたシーナをキノトが乱暴に引っ張り上げる。力任せに引き寄せられたシーナは痛みに顔を歪めた。いくらなんでも乱暴すぎる。
「傍に寄るな!」
「放してよっ」
「お前はこっちにいればいいんだ」
「なによいきなり! いっ痛いってばちょっとっ」
力強く手を掴まれたままで、手首がジンジンする。まったくこの男は力加減というものが分かっていない。事情も聞かずにゼオを転ばせるし、自分勝手にもほどがあるだろうと、シーナは怒りのままにキノトを睨みつけた。手を引き剥がせない力の差が恨めしい。
と、背後から伸びてきた手がシーナの代わりにキノトの手を引き剥がしてくれた。そして強く引き寄せられたこと思うと、優しく抱きとめられる。
「痛がってるだろう」
すぐ傍でゼオの声が聞こえ、振り仰ぐと険しい顔でキノトと対峙しているゼオが見えた。シーナの視線に気づくと、ふっと表情を柔らかくして微笑んでくれた。どきっとシーナの心臓が脈打つ。その顔でその笑顔は反則だ、と思った。
「た、立てるの?」
「立つことはどうにか慣れたみたいだ」
一歩進むと崩れるけど、と言い、ゼオは苦笑した。
「てめぇその手を放せ」
「拒否する。君はシーナに乱暴すぎだ」
「馴れ馴れしくシーナを呼ぶな!」
「彼女には何も言われてないからね、それも拒否する」
「この野郎……っ」
キノトの瞳が怒りに燃えている。このままではまずいと間に入ったのはシーナだ。ゼオをかばいつつ、キノトを睨みつける。滅多なことでは睨まれないシーナに2度も睨まれて、キノトは一瞬ひるんだ。
「キノト、ゼオは今日から暫くうちに泊まるから」
「っはあ!? なんだよそれ!」
「詳しい話はまた今度。とりあえず今日は父さんと母さんに説明しなくちゃいけないし、もう家に入るから。それじゃあね」
キノトに邪魔される前に、と素早くゼオを家の中に押し込めた。きっとゼオは転んだに違いない。後で謝らなければ。
自分も家に入ってドアを閉める直前、忘れていたことを思い出して、シーナはキノトに向かって微笑みかけた。
「服、ありがとう。助かったわ」
「お、おう……」
ぴしゃりと閉じられた扉の外で、キノトは赤くなった顔を隠すように下を向いた。がしがしと短い髪の頭を掻き、ぼそりと呟く。
「……んだよ、それ」
その笑顔に弱かった。
* * *
シーナの思った通り、両親はちょろかった。ゼオが人魚だと言っただけで夢見がちな母ルーシャは全面的にシーナの味方となり、若い男はどうとかこうとか言っていた父ゴートも最強の母を相手にはなす術もなかった。情に厚い人だから、そうじゃなくとも結局はゼオを受け入れていただろう。
まるで物語みたいね、と言いつつキッチンへ向かったルーシャは、夕食に稀に見るご馳走を作りあげ、他3人の目を丸くさせた。
「たくさん食べてねー」
ルーシャはにこにこと笑いながら、ゼオにたくさんの料理を取り分けていく。最近ぽっこりと出てきたお腹を気にして控えめにした酒をちびちびと飲んでいるゴートの前の席に座ったゼオは、ありがとうございます、と一々お礼を言いつつ、ぱくぱくと食べ物を口に運んだ。美味しいです、の言葉にルーシャはご機嫌だ。
「そういえばゼオ、人魚は普段何を食べるの?」
「海中から魔力を取り込むだけで生きていけるから、何も食べない人が多いかな」
「食べないの!?」
「嗜好品として食べる人もいるけど、少数だから食文化は未発達だし、ほぼ海藻類しか調理に使われないからあんまり美味しくない。だからこんなに美味しい料理は生まれて初めてだよ」
そう言われると、大袈裟じゃないかというくらい美味しいを連発していたゼオにも納得だ。海藻類だけ、とは中々にひもじい。食べることが好きなシーナにとっては苦痛でしかないだろう。生まれてからそんな食事しかしていないなんて、想像を絶する。
「ゼオ、これも食べて」
ルーシャに加わり、せっせと食べ物をゼオの皿に取り分けるようになったシーナにゼオは目を丸くした。だがその姿が微笑ましく、ゼオはすぐに笑顔になって食事を続けた。




