小さな影。
その夜、僕らの部屋だけが無事だった。
高校に入学して間もない頃、初めての一泊旅行があった。
クラスでようやく言葉を交わせるようになったばかりの仲間と、同じ部屋を割り当てられた。
まだ互いの輪郭さえ曖昧な者同士が、同じ屋根の下で一夜を明かす。それは、きっと親交を深めるための、ささやかな儀式のようなものだったはずだ。
翌朝。同室の仲間は、あくびを連発しながら、まるで呪詛を吐くように言った。
「おまえ、イビキうるさすぎ」
普通なら、その出来事はすぐにクラス中に広まり、僕に一つや二つの、聞き捨てならぬあだ名を刻みつけただろう。
だが、他の部屋の連中は、それどころではなかった。
お化けが出た、金縛りに遭った、夜中に誰かの気配がした――そんな噂が次々と飛び交い、僕たちの部屋のことなど、完全に忘れ去られていた。
僕の関心は、そんな事よりも、ただ、イビキのことだけにあった。
その夜、僕は自分の寝息を確かめるために、録音を始めた。そして、眠りに落ちた。
再生した音は、すぐに答えを示した。寝落ちしてから、わずか数秒。
ぶふぉぉー、ぶふぉぉー。
すさまじい、獣じみたイビキが、闇を裂くように響いていた。
皆に申し訳ない思いが胸を衝いた。だが、その直後、僕は気づいた。イビキの合間に、別の音が混じっている。
トコ、トコ、トコ。細く、軽い足音。
そして、うやぉ…うやぉ…と、掠れた声。なんだろう。部屋を見渡すと、床のあちこちには、小さな足跡がついていた。
見覚えのある形。丸くて、柔らかくて、少しだけ外側に広がった肉球の跡。
――ステ丸――
昔、一緒に暮らしていた猫だ。捨てられていたのを、僕が拾った。名前も、僕がつけた。
あの頃、ステ丸は、夜な夜な家の中を歩き回り、鼠を追いかけて、小さな声で鳴いていた。その気配が、今もこの部屋に――
ステ丸は、もういない。
ずっと前に、いなくなった。なのに、足音は続き、鳴き声は続き、足跡は、僕たちの周りを静かに巡っていた。
ふと、一泊旅行を思い出した。他の部屋では、誰かが呻き、誰かが凍りつき、誰かが見てはいけないものを見た。
だが、僕たちの部屋だけは、何も起きなかった。イビキの合間に聞こえた、あの小さな足音。あの、うやぉ、という声。
ステ丸が、鼠を退治するように、この部屋を歩き回っていたのだとすれば――あの宿で、僕たちだけが無事だったのは、
ステ丸が、僕たちを守ってくれていたからかもしれない。
そう思うと、ステ丸のあの声が、今も聞こえるような気がした。
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