喫煙所の人

　雑居ビルの立ち並ぶ路地裏を進んだ、人目につかない喫煙所。夜になるといつもそこには、ある男がいるという。噂を聞いて青年が向かうと、長身の男がたたずんでいた。齢はおそらく、三十かそこらだろう。黒いスーツの上に、青島俊作が着ていそうなカーキ色のコートを羽織っている。喫煙所にいながら、その周囲に紫煙はない。

「よう、お客さんかい？」

　その問いかけに、青年は静かに頷き、上着の胸ポケットから煙草の箱を取り出す。男は何も言わずに、そのうちの一本を手に取り、マッチで火をつけた。

「近頃は不景気のせいか、フィリップモリスやらキャメルが多くてね。悪くはないが、たまには高い煙草が恋しくなる。しかもセブンスターときた。いいセンスをしているな」

　煙と共に、上機嫌な言葉を吐きながら、男は青年を見る。

「それで、お前は俺に何を聞いて欲しいんだ？」

「……特に何も。強いて言うなら好奇心ですね。煙草を一本差し出せば、それを吸い終えるまでどんな話にでも付き合ってくれる奇特な人がいると聞いたので」

「奇特とはひどいな。これは俺なりの節約術だよ。しかしいざ始めて見ると世の中には、とにかく誰かに話を聞いて欲しいという奴が、思った以上に多くてね」

　話しながらも、煙草を吸うことをやめない。勘定方法は昔の茶屋遊びの花代のようだが、こちらは線香と違って、この男の匙加減である。

「そういう人たちは、どんな話を？」

「色々だよ。賭け事で負けたという愚痴から、生きることが辛い、みたいなのまで――実に多彩だ」

「悪いことばかりですね。楽しいこととか喜びを語りに来る客はいないんですか？」

「もちろんいるさ。どれだけ技術が発展して、端末一つで想いを世界中に発信できる時代になっても、やはり人というのは感情を言葉に乗せて誰かに聞いて欲しいものらしいな」

「それは、分かるような気がします。自分も……」

　言いかけて、小さな水音がした。吸い殻が男の手から消火バケツに落ちる。水面に漂う煙草の残骸は、この男の律義さからか、あるいは愛煙家特有の吝嗇からか、しっかりと根本まで吸い尽くされていた。

「俺の話を聞きたいだけ、というのは嘘だろう？　それなりに長くやっていると、なんとなく分かるんだよ。それが喜怒哀楽、どの感情に属するものかまでは分からんがな」

　図星を当てられて、青年は思わず息を呑み込んだ。

　男はもう一度、胸ポケットに手を伸ばす。

「もう一本、吸いますか？」

「ああ、もらうよ」