戻ってきた日常、そして“学校の幽霊”
喰声の町での初任務を終えて帰宅したのは、夕日が沈みかけた頃だった。
重たい玄関の扉を開けると、温かい灯りが漏れ、湿った夜気が背中を押し返すように外へ逃げていった。
「ただいま……」
靴を脱ぎながら呟くと、ふと視界の隅に“見慣れないもの”が映った。
――靴箱の上に、熊の木彫り。
妙に迫力のある顔つきの熊が、こちらをじっと睨んでいる。
「……なにこれ?」
結さんがこんなものを買うとは思えない。
値札は付いていないし、埃もかぶっていない。今日置かれたばかりのようだった。
リビングから足音がして、結が現れる。
「ああ、それ? お姉ちゃんがくれたんだ」
「……お母さんが?」
「うん。民芸品店で買ったんだって。『結はこういうの好きでしょ』って」
結は少し照れたように笑う。
「へぇ……そうだったんだ」
葵はそう返しながら、木彫りの熊をそっと撫でた。
母の選んだものが、こうして家に残っている。
それだけのことなのに、胸が痛いように温かくなった。
その夜は、疲れが一気に押し寄せ、布団に入るとすぐに眠ってしまった。
翌朝。
雨上がりで冷え込む空気の中、葵は制服に着替えて身支度を整える。
鏡の中の自分は、数日前とは別人のように見えた。
母の死。手のひらの悪霊。初めての退治。
世界の色が大きく変わってしまった。
「……よし」
髪を整え、鞄を持ったところで、背後から声がする。
「葵」
振り向くと、キッチンに立つ結が心配そうな目でこちらを見ていた。
「まだ休んでいていいんだぞ。無理に学校行かなくても」
その声の優しさに胸がじんとする。
でも、葵は笑顔を作って言った。
「これ以上休んでたら、お母さんに怒られそうだから」
結は一瞬だけ驚き、そのあと柔らかく微笑んだ。
「……そうね。あなたが決めたなら、それでいい。でも、少しでも具合が悪くなったら帰ってきなさい。あと――幽霊を見たら、すぐに連絡すること」
「うん! じゃあ、行ってきます」
「ええ、いってらっしゃい」
玄関を出る背中に、結の優しさがずっとついてくる気がした。
学校に着くと、いつもの教室。
けれど、空気は以前と違っていた。
葵が「おはよう」と声をかけると、クラスの生徒たちはぎこちない笑顔で返す。
「……おはよう」
「……白羽さん……おはよう」
視線が合うとすぐに逸らされ、距離を置かれる。
優しさからか、好奇心からか、そのどちらとも取れる微妙な空気。
雑談しているグループの声が、葵の耳に刺さるように届いた。
「……あの子のお母さん、亡くなったんだって」
「ニュースで見たよ。首しめられてたって」
「自殺って噂も聞いたけど……」
「子供おいて死ぬとか……きっつ……」
「かわいそう……どうやって生きてくんだろ」
――聞きたくない。
胸に重たい何かが落ちてきて、葵は席を立った。
足が勝手に動き、教室を出て階段を駆け上がる。
息が切れていても、走るのをやめなかった。
辿り着いたのは――屋上。
フェンスの前に立つと、風が頬を撫でた。
「……はぁ……」
葵は深く深呼吸し、空を見上げる。
涙が出そうになるが、必死で堪えた。
泣くのは、もっと別の場所でいい。
もう一度、大きく息を吸ったとき――
「……?」
隣に、“誰か”がいる気配。
横目でそっと見る。
――軍服。
――軍帽。
――背の高い、無言の“男”。
「うわぁっ!」
悲鳴を上げて振り向く。
だがすでに、そこには誰もいなかった。
葵の心臓がばくばくと跳ねる。
「ゆ、幽霊……! 結さんに連絡しなきゃ!」
震える手でスマホを取り出し、メッセージを打とうとした――その時。
スカートに“違和感”が走った。
「?」
後ろを振り返ると――
幼い男の子の幽霊が、ニヤニヤ笑いながら、
葵のスカートをめくって下着を見ていた。
「ちょ――いやっ!!」
慌ててスカートを押さえると、子供の幽霊はケラケラ笑い、
走ってそのまま消えていった。
「な、なにあれ……!」
頬が熱い。
怒りより恥ずかしさが勝って、顔が真っ赤になった。
すぐスマホを操作し、結にメッセージを送る。
【学校に幽霊出た】
数秒悩んだ末、もう1通追加した。
【子供の幽霊に下着見られた……】
送ったあと、ものすごく恥ずかしくなったが、もう遅い。
画面にはすぐに既読が付き――
結からの返信が返ってくる。
【学校から帰ってきたら作戦会議をする】
その瞬間、葵は思った。
――この“日常”は、もう元には戻らないんだ。
けれど、その事実に、ほんの少しだけ安心が混ざっていた。
葵には、守ってくれる誰かがいる。
そして――
彼女自身も、霊を救う道を歩き始めているのだ。
屋上の風が、少しだけ暖かかった。




