喰声(くいごえ)の町
その夜。
葵は、夢の中で声を聞いた。
でも、途中で、何かが“食べるような音”に変わった。
――ずる、ずる、ぐちゃ。
目を覚ますと、喉が張りついていた。
汗でシーツが濡れている。
暗い天井を見上げると、心臓の鼓動だけが響いていた。
朝。
天城家の居間に降りると、結が食卓で湯気の立つ味噌汁をすすっていた。
彼女は無言のまま、葵に椀を差し出す。
「ちゃんと食べな。悪霊に体力吸われた後は、塩分を取るのが一番」
「……うん」
味噌汁は、驚くほど塩辛かった。
でも、その塩気が体の奥に染みる。
食後、結が新聞を広げる。
その見出しに、葵の視線が止まった。
“喰声町”で相次ぐ行方不明――住民たちは「夜になると声が聞こえる」と証言
「……喰声町って、あの隣の地区の?」
「ああ。昔、処刑場があった場所。霊の発生率が異常に高い」
結は淡々と答えるが、その表情はどこか険しい。
「現場に、行くわよ。今日から、あなたの“初任務”だ」
「えっ……私が、行くの?」
「私より“視える”のは、あなただけだから。
私は祓う。でも“見つける”のはあなたの役目」
その言葉が、胸に重く落ちた。
昼過ぎ。
二人は、曇天の下、喰声町へと向かった。
古い住宅地。人通りはなく、家々の窓は閉ざされ、空気が妙に重い。
風が吹くたび、どこからか「……たべて……」という囁きが聞こえる。
葵の背筋が凍る。
「……今、聞こえたよね?」
「聞こえたね」
結は淡々と頷く。「“喰声”の由来は、その声だ。食う声、食われる声。どっちも残ってる」
町の中心に立つ廃ビル――かつてスーパーだった建物の前で、結は足を止めた。
「ここだ」
入口には「立入禁止」のテープ。
だが風に煽られ、ぼろぼろに裂けている。
中は暗い。
蛍光灯が何本も割れ、天井からぶら下がっている。
奥から、ぬるりとした冷気が流れてきた。
結は懐から護符を取り出し、壁に貼る。
淡い光が漏れ、周囲を照らす。
「葵、感じる? どこに“いる”?」
葵は唇を噛み、目を閉じた。
暗闇の中で、何かの“気配”が脳の奥をかすめる。
――ぺた、ぺた。
――くちゃ、くちゃ。
誰かが、何かを噛んでいる。
「……あっち」
葵が指差した先――惣菜コーナーの奥。
割れた冷蔵ケースの中で、“何か”が動いた。
ぬるり、と。
人の形をしていた。
けれど、顔は食いちぎられ、口の代わりに黒い穴が開いている。
その穴の奥から、誰かの“声”が漏れていた。
――たべて。
――たべて。たべて。
葵は叫び声を押し殺し、後ずさる。
結が一歩前に出た。
「“喰声の群れ”か……なるほど、魂を食う類ね」
悪霊たちは、同じ言葉を繰り返しながら近づいてくる。
手には何もない。けれど、触れた者の“心”を喰う。
結が札を構えた。
「――封」
札が光り、空気が震える。
だが、悪霊は笑った。
無数の口が一斉に開き、光を飲み込む。
「くっ……食いやがったか!」
葵は息を呑む。
光を喰う――そんなことがあり得るのか。
「結さん……!」
「落ち着いて。奴らは“声”を媒介にしてる。逆に言えば、声を封じれば動けなくなる」
そう言って、結は懐から黒い紐のようなものを取り出す。
首にかける護符。
「葵、これをつけなさい」
差し出された紐を首にかけた瞬間、空気の圧が変わった。
重かった空気が、少しだけ軽くなる。
結が構える。
悪霊の群れが襲いかかる。
――その時だった。
葵の耳に、はっきりと“人の声”が届いた。
「助けて……ここにいるの……」
声の主は、女の子の霊だった。
年は十歳ほど。半透明の体が、棚の陰で震えている。
「……あの子!」
葵は駆け出した。
悪霊の手が伸びる。指先が頬をかすめ、焼けるように熱い。
だが、葵は立ち止まらなかった。
少女の霊を抱きしめ、叫ぶ。
「――お願い、結さん!!」
結が印を結び、地面に掌を叩きつけた。
「――退!」
地面が震え、光の円が広がる。
悪霊たちの体が砕け、断末魔の声を上げながら消えていく。
やがて、静寂。
少女の霊が、葵の腕の中で微笑んだ。
「お姉ちゃん……ありがとう」
その声と共に、少女は光の粒になり、空へと昇っていった。
夕暮れ。
喰声町を離れ、二人は坂道を歩いていた。
空には、雨上がりの虹がかかっている。
「……私、ちゃんと役に立てたのかな」
葵の問いに、結は短く答えた。
「立派だったよ。最初にしては、な」
その声に、葵の胸がじんと温かくなる。
結はポケットから煙草を取り出し、火をつけようとして――やめた。
「……お姉ちゃんが嫌がってたからな」
そう呟き、空を見上げる。
葵は少しだけ笑った。




