母の死
母子家庭で育った少女・葵は、母の死をきっかけに“霊視の力”に目覚める。
母の魂を救った除霊師・天城結と共に、葵は悪霊たちの未練を浄化していく。
それは同時に、母の死の真相と“見えざる世界”の真実へと繋がっていく――。
放課後の教室には、部活動へ向かう生徒たちの声が遠くに響いていた。
白羽葵は、机に肘をつきながら窓の外を見ていた。沈みかけた夕日が校舎の壁を赤く染めていて、風に乗って吹き抜ける声が、どこか現実感を奪っていく。
――今日も、お母さんは帰りが遅いのかな。
母の白羽美月は、市内の病院で看護師として働いている。夜勤も多く、帰宅が夜遅くなることは珍しくなかった。
それでも、朝には必ず葵のためにお弁当を作ってくれていたし、夜勤の合間に小さなメモを置いてくれるのがいつもの習慣だった。
〈今日は夜勤。冷蔵庫にカレーがあるよ。温めて食べてね〉
そんな文字を見るたび、葵は心の中で「いってきます」と返していた。
けれど、その日の夜は違った。
夜の十時を過ぎても、母は帰ってこなかった。
カレーを温めて食べ終えても、家の明かりは玄関を除いて沈黙していた。
携帯に電話をかけても、「電源が入っていないか、電波の届かない場所にあるため――」という無機質な声が繰り返されるだけだった。
葵は、胸の奥に小さな冷たい不安を感じながら、玄関に立ち尽くしていた。
外は雨が降り出している。傘立てには、母の折りたたみ傘がない。
出勤したまま、まだ戻っていない。
――でも、勤務はとっくに終わっている時間のはずだ。
「……おかしいよね」
小さく呟いた声は、雨音に溶けていった。
居ても立ってもいられず、葵は傘を手にして外へ出た。
母がいつも通っている通勤路。駅前の坂道、商店街の路地裏、公園へと続く小道――。
街灯が雨粒を照らし、夜の町を白く揺らしていた。
人の気配はなく、聞こえるのは雨と遠くの車の音だけ。
制服の裾が濡れても気にせず、葵は何度も名前を呼んだ。
「お母さん……どこにいるの……?」
携帯のライトを頼りに、足は自然と一本の道へと向かっていた。
それは、かつて母とよく通った近所の公園――今は再開発のために取り壊され、空き地になっている場所だった。
雨に濡れたフェンスが鈍く光る。
立ち入り禁止の札は色褪せ、ロープの隙間からは簡単に入れそうだった。
胸の奥で、何かが「そこだ」と囁くような感覚がした。
怖かった。
それでも、足が止まらなかった。
――カシャン。
金属のフェンスを押し開けると、錆びた音が夜に響いた。
空き地はぬかるんでいて、足元が泥に沈む。
薄暗い中、街灯の光が途切れ、代わりに雷光が一瞬だけ辺りを照らした。
その光の中で――何かが、見えた。
倒れている人影。
土に半ば埋もれるようにして、誰かが横たわっている。
傘を放り出し、葵は駆け寄った。
「お母さんっ!?」
泥を掻き分け、肩を抱き起こす。
冷たい。
あまりにも冷たい。
頬に触れた指が、その温度のなさに震えた。
母の顔は静かに閉じられ、唇には薄い紫が滲んでいた。
首には、深く赤黒い痕が残っている。
その痕を見た瞬間、葵の喉がきしむように痛んだ。
「やだ……やだ、やだよ……! お母さん、起きてよ……!」
抱き締める腕が泥に汚れ、雨が顔を打つ。
呼吸の仕方もわからない。何をすればいいのかも。
ただ、声を出していないと崩れそうで、泣き叫ぶしかなかった。
――そして、その夜を境に、葵の世界は終わった。
葬儀の日。
小さな斎場の中で、葵は真っ白な花に囲まれた母の遺影を見つめていた。
現実感がなかった。
誰かの夢の中にいるようで、泣くことさえできなかった。
「事故じゃないって……警察が言ってた」
親戚の誰かが、ひそひそと話している声が聞こえる。
「首を絞められたらしい」「犯人はまだ捕まっていない」
そんな断片的な言葉が、ガラス越しに聞こえるように遠く感じた。
葵の隣で、母の妹――天城結が静かに頭を下げていた。
二十代後半に見える若い女性だが、その瞳は異様に深い落ち着きを宿していた。
喪服の袖から覗く手には数珠のようなものが巻かれている。
葵が小さい頃に数回だけ会ったことのある人。
だが、母が彼女の話をする時は、いつもどこか複雑そうだった。
――「あの子はね、少し特別な仕事をしているの」
そう言って、それ以上は語らなかった。
結は、参列者が去った後、そっと葵に声をかけた。
「葵ちゃん。……無理に泣かなくていい。時間が経てば、涙は勝手に流れるから」
その優しい声に、葵はやっと唇を震わせた。
「どうして……お母さん、殺されたの……?」
問いは、風に溶けて消えた。
結はしばらく黙っていたが、やがて目を閉じて言った。
「まだ、分からない。でも……あの空き地には、何かがいる」
「……何か?」
結は返事をせず、葵の肩にそっと手を置いた。
その瞬間、葵の視界の端で――一瞬、白い影が揺れた気がした。
振り向いても、誰もいない。
ただ、空気が冷たくなっただけだった。
日が経つほどに、街の噂は広がっていった。
「白羽美月殺人事件」
ニュースで流れたその言葉が、葵の心に何度も突き刺さる。
「犯人はまだ見つかっていない」
その報道を聞くたびに、葵の胸には焦燥と恐怖が混ざった。
学校へ行っても、周囲の視線が痛かった。
「かわいそうに」「ニュースで見た子だよね」――そんな囁きが背中に刺さる。
友人たちも気を遣って話しかけてくるが、何を言われても心が動かなかった。
帰宅後、葵は母の部屋の前で立ち止まった。
扉を開ける勇気が、なかった。
でも、開けなければ――もう、二度と会えない気がして。
ゆっくりとノブを回す。
淡い香りが流れてきた。洗濯洗剤とハンドクリームの混ざった匂い。
それだけで、涙が零れそうになった。
机の上には母の看護記録と、写真立て。
そこに写る母の笑顔は、永遠に過去のものになってしまった。
「……お母さん」
葵は膝をつき、声を殺して泣いた。
外の風が窓を叩き、カーテンを揺らす。
それがまるで、誰かが部屋に入ってきたように見えて――
葵は、無意識に顔を上げた。
窓の向こうに、誰かが立っている。
一瞬、心臓が止まった。
次の瞬間には誰もいなかった。
ただ、ガラスの曇りの中に、指の跡のようなものが残っている。
――五本の指。
まるで、大きな“手のひら”が、そこに押しつけられたかのように。
葵は息を詰め、震える指でその跡をなぞった。
冷たい。
けれど、確かにそこに“何か”がいた。
その夜、夢を見た。
雨の降る空き地。
あの日と同じ場所で、母が立っていた。
振り返ったその顔には、涙が流れている。
けれど口は動かない。
何かを言おうとしているのに、声が届かない。
代わりに、後ろから伸びた巨大な手が、母を掴んだ。
それは人のものではなく、泥と闇でできたような黒い手。
掌の中央に――ひとつの、赤い“目”があった。
その目が葵を見た瞬間、夢は破れた。
息ができず、汗で体が濡れていた。
目を覚ますと、部屋の隅に立っている影があった。
窓の方を見つめると、再び曇りガラスに五本の指の跡。
まるで、何度も何度も外から叩かれているように。
葵は布団を握り締め、声を殺した。
「お母さん……?」
そう呟いた途端――影が、動いた。
その夜、葵は初めて“見えてしまった”のだ。
この世の者ではない、何かを。
翌朝。
空はどんよりと曇っていた。
玄関を出た葵の前に、ひとりの女性が立っていた。黒いコートに、白い数珠のような腕輪。
天城結だった。
「……やっぱり、始まったね」
結の声は低く、しかしどこか優しさが滲んでいた。
葵は驚きのあまり言葉を失う。
結はまっすぐ彼女を見つめ、静かに言った。
「葵ちゃん。あなたには、“視えてしまう”血が流れている。
あなたのお母さんも……そして、私も」
「視える……?」
「霊だよ。未練を残してこの世に縛られたものたち。
――昨夜、あなたは見たはずだ。空き地の“手のひらの悪霊”を」
その言葉が、葵の心を鋭く貫いた。
夢ではなかった。あの手、あの目。
全部――現実だったのだ。
結は傘を差し出し、静かに言った。
「行こう、葵ちゃん。お姉ちゃん――あなたのお母さんを、ちゃんと救いに行くよ」
雨がまた、静かに降り出した。
それはまるで、空が泣いているようだった。




