始まり その4
その3の続き、そして第一話完結になります。
「着いたよ、司くん」
ずっと追いかけていたヒールの音が止み。
やっと天原が後ろを向いた。
「はぁ、はぁ、はぁっ……は、速いですね」
「そう? さ、中に入ろっか」
汗ばんだ司とは反対に、涼しい顔で天原がドアを開ける。
「天原、ただいま戻りましたー」
司が入るのを見届け、続いて天原も中へと入ってくる。
「あ、焼肉弁当はあたしが……!」
「唐揚げ弁当もいいだろ」
「鳥じゃないですか!」
聞こえてきたのは、柴山と黒石が言い合う声。
司が少し奥を覗くと、応接間より先にあるデスクの前に、柴山と黒石がいた。
「部長、司くんの採用はどうなりました?」
そんな喧騒をものともせず、天原がさらに奥の方を見て声をかける。
すると奥から、司と面接をした男性が出てきた。その右手には、一枚の紙。
「おかえり、天原くん。採用の件はね……うん」
男性の濁すような言葉尻に、司はつばを飲む。
「平田くん」
天原から司に男性の目が合わせられ、司は姿勢を正す。
「はい」
「きみが、とくつみしょに就職したいなら。三日後の月曜日、またここに来なさい」
これ地図と、男性が持っていた紙を渡される。
「上は、それだけですか?」
「営業部の部長には、情報が来ないんだよ。天原くん」
それだけ言って、男性は奥へと戻っていく。
「じゃあ……汚れた上着は折を見て返すね。そのときは、タロに行かせるから。いいよね、タロ?」
「俺、行きます!」
「……隙あり!」
「あ! 俺の焼肉弁当!」
返事をした柴山は、すぐに黒石との喧騒に戻る。
「わかりました。柴山さんのコートも、そのときに」
もらった地図を司は丁寧に畳み、折り目をつける。
「本音は駅まで送りたいところなんだけど……遅めのお昼休み、取らないといけなくて」
「大丈夫です。地図がありますから」
「そう……じゃあ、ここで」
「はい。いろいろと、ありがとうございました。失礼します」
ドアを開けて、外へ出る。
とたんに襲われる冷たい風に、目を細めつつ。
ふと振り返ると、天原がガラス越しに手を振っているのがわかった。
(就職したい、か)
少しだけ、とくつみしょの看板を見つめて。
司は歩きだした。
スマホのアラームが鳴り響く。枕元にあるそれを掴み、オフにする。
寝ぼけた頭で通知に目を通すと、ニュースや天気予報の通知に混じって、珍しくメッセージアプリの通知があった。それを開くと、表示されたのは「家に来なさい」の一言のみ。
「はぁ……」
ため息をついて、司はベッドを出る。それから、ベッドと向かい合わせに置いている棚の写真立てに手を合わせた。
「ばあちゃん、おはよう」
食パンをくわえたまま着替えや荷造りを済ませ、飲み込んでからその他の身支度も済ませて、玄関ドアを開ける。
外に出てドアを施錠していると、ふいに声をかけられた。
「なぁ、このゴミ捨ててくんない?」
それは右隣に住む、たしか二つ下の男子大学生。その手には、チューハイや発泡酒の空き缶が詰まったゴミ袋。
「今日はゴミ出しの日じゃ――」
「別にいいっしょ」
司の前へ放り出すようにして袋が投げられ、ドアは閉じられた。
「え、なに? ゴミ出さなくていいの?」
「いつも出してくれんだよ。けど、もうすぐ卒業で出てくって。あーあ、便利だったのになぁ!」
わざとなのか、ドア越しでも聞こえる大声での会話を、司は聞こえない振りで誤魔化した。
右隣の彼が入居して間もなく、司の部屋の前に置きっぱなしにされていたゴミ袋を「邪魔だから」と司が捨てたのがいけなかった。
以降それはエスカレートし、さっきのような調子で押しつけられる始末。
(卒業までだ)
学生アパートの管理人に見られないようゴミを出し、司は大学の図書館を目指す。
本の返却を済ませて外に出ると、同じゼミ生たちが通っていくところだった。
「就職決まったし、卒業も決まったし! ゼミのみんなで飲みに行くか!」
「四年って、これで全員だっけ?」
「便利屋くんは? どうする?」
「別にいいでしょ」
「それもそっか!」
司の目の前でそんな会話をしながら、集団は去っていく。
(便利屋くん……そう呼ばれてたんだ、僕)
締めつけられるような胸の痛みを、服ごと胸を掴むことで誤魔化して。
司は、駅へと向かった。
(一月に帰ったばかりだけどな)
重い足を、なんとか進めながら。
司は高層マンションへ入った。エントランスで部屋番号を入力する。鳴りだす呼び出し音はすぐに止み、聞こえてきたのは。
「入れ」
静かに開いた入口。警備員に軽く頭を下げ、そこを通る。
エレベーターに乗り、目的の階まで向かう。
更に重くなった足取りで、実家である部屋のドア前にたどり着く。そこで、司は何度も深呼吸を繰り返す。
(大丈夫、大丈夫……きっと、いつものことだから)
意を決して、インターホンを鳴らす。
「はーい……って、あら? 司、帰ったの」
ドアを開けたのは、濃いめの化粧をした女性。着ている服は、高いんだろうなと想像できるほど煌びやかで。身に着けているネックレスやピアスには、大きいわけではないが宝石がついている。
「うん……父さんに呼ばれたから」
「そう。間違っても、怒らせないでね。面倒だから」
「……はい」
中へ入り、靴を脱ぐ。
「居るとこはわかるでしょ。じゃ、あたしは出かけるから」
女性が細くて高いヒールのついた靴を履き、出て行く。
「……いってらっしゃい。母さん」
閉まったドアに声をかけて。
司は奥へ入っていく。
リビングダイニングへ繋がるドアを開けると、ダイニングの椅子に父が座っていた。
短く整えられたグレーヘア、四角く分厚いフレームの眼鏡、そこから放たれる鋭い眼光。この眼光に、いつも司はおびえてしまう。
「遅い」
「……すみません」
「就職すると言っていたが。決まったのか」
父から、まっすぐにらみつけられる。
「あと少し……です」
少しでも眼光から逃げたくて、司は目をそらして答えた。
「どこだ」
「え、えっと……」
ここで「とくつみしょという、なんでも屋です」などと言えば、どんな怒号が飛んでくるかわからない。
それが、司の言葉を言いよどませた。
すると、わざとらしいほど大きなため息が聞こえて。
反射的に、司の肩がビクッと動く。
「……それなりのところでないのは、わかった。そんなことだろうと思って、父さんの叔父が経営する会社への就職を決めてきた。卒業式から一週間後、叔父の家へ行ってそこに住みなさい。住み込みだ」
父の提案に、思わず司は目を父に合わせる。
「そ、そん――」
「大学は、好きなところへ行かせてやっただろう。もう我儘は無しだ」
椅子から立ち上がり、司の横を通って父が出て行く。
「提案じゃなくて、決定事項なんだよ……」
誰もいない部屋に、呟きはむなしく響いた。
ぼんやりと、司は街を歩く。
(僕の意思は……僕の存在は……)
頭の中を、それが巡る。
同時に、胸が痛くて仕方ない。
「……い。おーい、新入り候補!」
突然肩を掴まれ、司は反射的に後ろを向いた。
しかし、頭がハッキリせず誰なのか思い出せない。
「ほら、とくつみしょの柴山。柴山 太郎」
「あ……柴山さん。すみません、気がつかなくて」
「そりゃそうだ。今日は日曜、俺も私服だしな」
たしかに、よく見れば柴山の前を開けたコートから覗くのは、派手な色使いのニットだ。
「あー……その、なんだ。ちょっと付き合え、新入り候補」
「えっ」
「ほら、俺おごるから。ちょうど、そこにカフェあるし。行くぞ」
柴山に連れられる形でチェーン店のカフェに入店し、注文とドリンクの受け取りを済ませて窓側の席につく。
「で。なんかあったのか」
コーヒーを一口飲んで、柴山が口を開く。
「そんなに僕、変ですか……?」
「あぁ。ほっとけないくらいにはな」
「そう……ですか」
司は、自分の前にあるコーヒーの湯気を見つめる。
「……僕、明日はとくつみしょに行けないみたいです」
それは、司の口から自然と出た。
「父が……父が、僕の就職先を決めてきたので。卒業したら、そこに行かないといけなくて。だから……だから、とくつみしょに行けないんです」
ゆっくり、ゆっくりと出る司の言葉を、柴山は黙って聞いていた。
「要は、父親が就職先を決めてきたから、とくつみしょに就職できないんだな?」
柴山の問いかけから、だいぶ間を空けてから。
司は小さくうなずく。
「そうか。それなら、仕方ないな。部長には、俺から言っておいてやろうか? 『明日、平田は来ません』って。さっき聞いた理由と一緒に」
「そ、それは……」
困る。
司がそう言い切る前に。
「なら、どうにかしろ。泣くぐらい、とくつみしょに行けないことが悔しいならな」
柴山の言葉で、司は涙が出ていることに気づかされた。
慌てて指で拭うが、なかなか止まらない。
「ほら」
柴山に渡されたハンカチで、目を覆う。
「キミちゃん助けるために木に登るって言いだした時のおまえ、かっこよかったけどな」
「え……」
その言葉に司が目元からハンカチを外したときには、柴山はいなかった。
それからの記憶は曖昧で。
気づけば、学生アパートの自分の部屋、ベッドに寝ていた。
歩いて帰ったのだろうが、どんなところを歩いたのか覚えていない。
「どうにかする、か……」
寝返りを打つと、窓から入るわずかな月明かりが手の甲を照らした。
「父さんをどうにかするなんて、出来ない……でも何か手を打たないと、僕は……」
なんとなく、月明かりに照らされた手を表に向ける。その手のひらには、木に登ったときの切り傷や擦り傷が、まだ残っている。
「かっこよかった……」
思い出すのは、カフェでの柴山の言葉。それと、キミちゃんを助けるため、木に登ると言い出したときの感覚。
「僕。またやれるかな……ねぇ、ばあちゃん」
呟いて、ベッドの向かい側にある写真を見つめる。
「……よし」
息を吸う度、昼間よりも冷たい早朝の空気が入ってくる。
「うぅ、寒い」
ネックウォーマーを鼻まで引き上げ、手元に視線を落とす。
「たしか地図だと……こっちだ」
折り目のついた手書きの地図を片手に、司は歩く。
しばらく歩くと、段々と見覚えのある場所と通り始めた。
「……ここだ」
古い、五階建てのビル。
その一階、ドア横にある『とくつみしょ なんでも まずは相談どうぞ』の看板。
ドアの向こうは明かりがついておらず、暗い。
「まだ朝の六時前だから。少し、待たせてもらおう」
看板の下に、司は腰を下ろす。
「よく冷えてる朝だ」
それから三十分ほど経った頃。
座ったままの司がうとうとしていると、ドアが開いた。
「寒いー。けど、コンビニ行くだけだから……って、司くん!?」
その声に、眠りかけていた司の頭は動きだした。
勢いよく立ち上がり、その勢いで頭を看板にかすめる。
「そ、その……おはようございます。天原さん」
看板から少し距離を取りながら、司は挨拶する。
「どうしたの、こんな早くに」
「朝早くに、すみません。でも――」
「先輩、どうし……おっ、新入り候補!」
天原の後ろから出てきたのは、柴山だった。
コートを着てモコモコとした見た目の天原とは対照的に、厚手のジャージを着た姿だ。
「来たな。じゃあ、どうにかするわけだ」
「はい」
「なんの話?」
首をかしげる天原を置いて、柴山は司に近づき肩を組んでくる。
「男同士の話です! 俺、部長を起こしてきます。善は急げって言いますし」
そう言うと、柴山は駆け足で中へ入っていった。
「そう……司くん、中に入ろっか」
「ありがとうございます」
天原に手招かれ、司は中へと入る。
初めてここに入ったときと同様、応接間に通された。
「まだ暖房がついてないから、寒いけど……外よりはマシでしょう?」
「そうですね。さすがに、外は……」
そんな雑談をしながら、待っていると。
「先輩! 部長、連れてきましたー!」
柴山の元気な声と共に、電気が点いた。
突然のまぶしさに目が眩んで、司はまぶたを閉じる。
明るさに慣れてきて、まぶたを開けたとき。目の前には、柴山と男性がいた。
「おはよう、天原くん。それに平田くんも」
「おはようございます。すみません、こんな早朝に押しかけてしまって」
挨拶する男性に、司は頭を下げる。
「いや、いいんだよ。早起きは三文の徳だから」
男性が「大丈夫」と言うように、胸の前まで挙げた右手を左右に振る。
「私、温かいお茶持ってきますね。タロ、数が多いから手伝って」
「わかりました」
天原と柴山が応接間を出て行くと、男性が司を見てきた。
「では、改めて。平田くん、きみの意思を聞こうかな」
「……はい」
ゆっくりと、深く息を吸う。
「僕、ここに就職したいです。就職、させてください。お願いします!」
言い終えて、司は頭を下げる。
「……平田くん、頭を上げてくれないかな」
少しの沈黙の後、男性に言われ司はおそるおそる頭を上げる。
すると、男性と目が合った。まっすぐに見つめる茶色い瞳から、司も目をそらさない。
しばらくそれが続いた後。
「うん。まだまだだけど、これならいいだろうね。まずは一歩だ」
そう言って、男性が司から目を離した。
「では、遅くなったけど自己紹介を。とくつみしょ営業部の部長、貫田 秋助です。これからよろしく、平田 司くん」
差し出された右手を、司は見つめる。
「よろしくお願いします、貫田部長」
それから司自身の左手で、しっかりと握手を交わした。
「よろしい……二人も、そこで見てないで入っておいで」
貫田部長の視線を司も追いかけると、応接間の出入り口近くのパーテーションに体を半分隠すようにして、天原と柴山がいた。
「おふた――」
「やった! やったね、司くん!」
「よくやった、新入りこ……あ、もう候補じゃないか。よろしくな、新入り」
司の体に跳びついてきた天原と、司の紙を撫でまわす柴山。予想していなかった二人の反応に挟まれ、司は目を白黒させる。
「ほらほら、二人とも。平田くんが困ってるよ。放してあげなさい」
「おっと」
「ごめんね」
二人から解放された司は、崩れた服と髪を軽く整える。
「平田くん。このとくつみしょは、社員寮に入寮してからいろいろと説明するのが決まりなんだ。だから、今日は入寮日だけ決めて帰ってもらいたい」
父の言う引っ越しは、卒業式から一週間後。
(それなら)
司は口を開く。
「わかりました。では……」
これにて、第一話 始まりは完結です。
第二話 とくつみしょの秘密は来週の土曜日(7月26日)に投稿開始の予定です。