第十八話 別れ
それから暫くの間、エマはほぼ毎日マリアンのお見舞いに訪れた。最初こそマリアンを始め、教会の面々が適当な理由をつけて断っていたが、最後はエマに根負けし差し入れを持ってきたり雑用などを手伝うことになり、結果マリアンとエマは教会の中でちょっとした噂話の一つに加えられることになってしまった。
そんな献身の甲斐あってか、マリアンが予定よりも早く回復したことに本人よりも喜んだのもエマだった。その様子にマリアンも喜びながらどこか愛おしさも感じるようになっていた。
「―ごめんマリアン、道具の購入が長引いて遅くなっちゃった」
その日エマがそう言ってマリアンに宛がわれた部屋の扉を開いたのは、西の空に太陽が傾きかけた頃だった。走ってきたのか少し汗をかいており、いつものローブの中に果実が入った小さい籠を抱えている。
「今日も来てくれたんだ」
キャソック姿でいつものように髪を後頭部にまとめているマリアンが腰掛けていたベッドから立ち上がる。その顔にはすっかり笑みが馴染んていた。
「もちろん。でもそろそろ学校が始まるから、少しこれなくなるかも…」
申し訳なさそうな顔をしたエマが、籠を備え付けのテーブルに置こうと部屋の中へ歩みを進めた途端、あるものが目に入って立ち止まる。ベッドの脇に荷物が括り付けられられた背負子が立てかけてあったからだ。
「ヤンクロットに戻ることになったんだ」
「いつ…?」
マリアンが目を伏せ、エマが静かに籠と被っていた三角帽をテーブルの上に置く。
「明日の朝一番で出発する」
「…もう体は大丈夫なの?」
「ああ、おかげ様ですっかり良くなったよ」
マリアンもエマも俯きお互い顔を合わせないまま、重くなった空気の中で時間が流れていく。
「その、君を王都まで送り届けるっていう任務はやり遂げたし…。今度はヤンクロットの教会まで手紙を届けてほしいって頼まれてさ…」
マリアンがバツの悪い顔をしながらつらつらと理由を述べ始めると、エマが無言のままローブを床に脱ぎ捨てた。そして口元を堅く一文字に結んだまま、つかつかとマリアンの目の前まで迫る。
「エ、エマ…?」
目の前で立ち止まったエマに困惑した表情を向けるマリアン、すると無言のままエマがマリアンの背中に両手を回して胸元に顔を埋めた。
「…本当はこのまま一緒に居たい」
エマが顔を埋めたまま、悲しそうな声で呟く。マリアンは黙ったままだ。
「―だけど、叶えたいことがあるんだよね…?」
「…ああ、ある。それはエマも一緒だろ?」
「うん」
マリアンが顔を埋めたままのエマの背中を優しく抱きしめる。エマはウォルフ伝いにマリアンが司祭への昇格を目指している話を聞いたのだろう。マリアンはそれを頭に思い浮かべながら、意を決したように息を吐く。これは言わなければならない。両手を血で真っ赤に汚した自分は彼女に相応しい存在ではない、と自らに言い聞かせる。
「ごめん、今の僕はまだまだ未熟だ。それに罪も犯した。今君を抱きしめてる両手だって、血で染まってる」
マリアンが一呼吸置き、「だから…」と続けようとした瞬間、エマが顔を上げる。そんな彼女の顔を見てマリアンが呆気に取られた。とても優しく慈しみに溢れた、まるで女神のような柔らかい表情をしていたからだった。
「分かるわ、辛いんでしょ。でも、私は気にしない。あなたは命の恩人なんですもの」
呆れたとも受け取れる口調で言葉を紡ぐエマに、マリアンは釘付けになっていた。最初に出会った時と同じように、彼女の顔から目が離せず心臓の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じるが、拒絶されると思っていた想定が外れたからか脳内に奇妙な幸福感が溢れかえる。
「ありがとう。でも、司祭になるのを諦めるつもりはないから…」
マリアンの口から一言余計ながら謙遜ではなく、素直な感謝の言葉が漏れた。
「分かったわよ。…なら、頼みがあるんだけど」
マリアンの今までと違う様子を察したのか、エマがしっかりと視線を絡ませつつキャソックの胸元に優しく掌を乗せる。なぜか彼女の声が甘く蕩けるように聞こえ、マリアンの心のヒビからハチミツのようにとろりと中に入り込んでくる。苛んでくる罪悪感を覆い隠して見えなくして、忘れさせてくれるくれるかもしれない。そうふと脳裏によぎった時、エマが再び口を開いた。
「せめてあなたを忘れないようにさせて」
最後のダメ押し、マリアンの理性が本能という名のハチミツの海に身を投げた瞬間だった。
「…わかった」
マリアンがごく自然な笑顔でエマをベットへ誘う。男故、覚悟を決めたと内心言い訳をして。