第十五話 覚悟の挺身
「ああ、くそ…」
まだ薄暗い翌日の早朝、起き上がったマリアンが渋い顔で目頭を押さえる。ウォルフより一足先に床に就いたまでは良かったが、慣れない環境で眠気も起きず浅い眠りを何度か繰り返した結果熟睡はできなかった。目の奥がズーンと重く、頭もぼんやりしている。硬い地面で寝たせいで体もあちこち凝り固まっているようだ。
恐らく目の下の隈は大変なことになっているだろう、とそんなことを考えながらマリアンが焚き木の方へ目をやると、ちょうどウォルフが砂をかけ残り火を消し終わったところだった。更にその横ではエマが準備を整えて腕を伸ばしている。ウォルフはともかく、エマも見た限りでは旅の疲れを感じさせない。明らかに旅に慣れてないのは自分だけ、と言った気持ちがマリアンの中に広がる。
「おい、行くぞ」
「ああ」
「ええ」
ウォルフが緊張感を放った顔で背負子を背負うと、彼の声を聞いたマリアンとエマが小さく頷く。すぐに足早に洞窟を抜け出し、本来の道へと脇目も降らず突き進む。街道にたどり着くのにそう時間はかからなかった。そして不用意に飛び出さず、三人はいったん手前の草陰に身を隠す。
夜露に濡れている草の影からマリアンが街道の見える範囲を見渡す、まだ小鳥たちも起きだしていないのか辺りは異様に静まり返っていた。周囲に視線を送りながら、マリアンが右手で胴体のアーマーとキャソックの間に埋もれているロザリオを取り出してしっかりと掴む。
「…いなさそうだ」
「よし、一気に森の出口まで走ろう」
ウォルフの指示で三人は街道へ飛び出し、王都方面へ駆けだす。出発前のウォルフの話では、王都の郊外の平原は兵士達が巡回しているという。訓練された正規軍に、特に平原では盗賊たちではまともに太刀打ちできない、だから仕掛けるなら森の出口だろう。長期戦を避ける意味合いも兼ねて素早くそこを抜ける、という作戦だった。
もちろん盗賊の動向も推測の域を出ておらず、作戦というには非常に頼りないものだったが、今の三人を奮い立たせるには十分だった。僅かな希望がその後の明暗を分けることはよくあることなのだから。
「主よ…」
マリアンが息を弾ませ、上手く声を出すことができないまま胸元でロザリオを掴んでいる右手に力を籠める。
「我らを…。いえ未来ある魔術師見習いを、どうかお守りくださいませ…」
そこまで言いかけたところで、不意にマリアンの背後から不自然な風切り音が耳に入る。その直後、前を走っているエマの輪郭が左右に揺れ始め、続いて彼女の背中へ向かって残像を放ちながら飛んでいく弓矢が見えた。
「危ない!!」
「えっ…、きゃっ!?」
マリアンが声を上げてロザリオを放した右手をエマに向かって伸ばし、エマが声の方向に振り向こうとした瞬間、彼女の右腕を弓矢が掠めた。
「エマ!?」
「…くそ、くそ!!」
悲鳴で事態に気づいたウォルフが方向転換して倒れそうになっているエマの体を支える中、マリアンは魔払いの杖を手に取って二人を守るように背中を向ける。心の底から負の感情が溶岩のように沸き出してくるのが抑えられず、それを映し出すような怒りを滾らせた表情で、走ってきた来た道から発せられる複数人の気配を睨みつけた。
「待ちやがれこの野郎!!」
すぐにマリアンの視線の先で、小さいながら数十人の男たちが得物を振り上げて三人に向かってくるのがはっきり見える。盗賊たちが追いついてきたのだ。
「大丈夫か!?」
「平気…」
ウォルフの腕の中でエマが平静を装うが、冷や汗をかき明らかに辛そうにしていて、矢が掠めた箇所を抑えている手が赤黒くなっている。一方のウォルフもそれ以上言葉が思いつかないのか、額に汗を浮かべ焦りを押し殺した表情を浮かべている有様だ。
「…ウォルフ司祭」
突然降ってきた低い声にウォルフが顔を上げる。その先にはマリアンの後頭部があった。
「彼女を連れて行ってください」
「お前…」
「だ、ダメ…」
ウォルフの顔から血の気が引いていくのと共に、エマが目に涙を浮かべながら力を振り絞ってか細い声で呼び止める。それでもマリアンは振り返らない。
「神のご加護を」
一瞥もしないままマリアンが来た道を引き返すように駆けだす。ウォルフの叫び声が耳に入ったような気がしたが、最早どうでも良かった。改めて魔払いの杖を握りなおすと、それに応じて杖が淡く青い光を放ちだす。同時に視界の中で盗賊たちの動きに揺れる輪郭が現れた。
「頼むぞ…」
自らに言い聞かせるようにマリアンが呟く。正直、この能力も「先の未来が見える」以外分からないことだらけだ。それでもやるしかない、戦えるのは自分だけ。と強く言い聞かせる。すると視界の端で盗賊の一人が立ち止まり、弓をつがえているのが目に入った。そのまま素早く矢が射られる。
勢いよく弧を描きながら飛んでくる矢の軌道に合わせて、マリアンが急制動をかけると矢が体を掠めて地面に突き刺さった。当人を含めてそれを目撃した全員が目を丸くする。お互いの距離が詰まっていく中、すかさず盗賊が二本目の矢を放った。今度は放物線ではなく、直線的な軌道だ。
「ハッ!」
自らの体目がけて飛んでくる矢の動きに合わせて、マリアンが魔払いの杖を振るう。派手な音と共に弾き落とされた矢が地面に叩きつけられるのを一瞥することなく、マリアンが盗賊たちに突っ込んでいく。その顔に以前のような笑顔はなく、緊張感で強張ってるようだった。
「兄貴の敵!」
叫び声を上げながら盗賊の集団から一人飛び出してくる。昨日マリアンに倒された盗賊の片割れだ。怒りをたぎらせた顔で一直線に向かってくる。
「おいよせ!!」
「死ねぇ!!」
仲間の忠告を無視し、憎き敵の懐に飛び込まんとする盗賊の目の前でマリアンがまた急制動をかけた。続いて予測した剣の動きに合わせキャソックの裾を靡かせながら体をひらり翻す。そして力任せに振り下ろされた剣の風切り音を耳で聞きながら、魔払いの杖のフランジを盗賊の顔面に叩き込んだ。盗賊の体が背中に向かって弓なりに反れ、血しぶきを上げながら仰向けに地面へ吸い込まれていく。
「野郎!!」
続いて二人目が距離を詰めてマリアンに切りかかっていく。幾度か風切り音を響かせるが、盗賊の剣は華麗な足さばきのマリアンを捕らえることができない。盗賊の動きを見たマリアンが剣が横に薙ぎ払われるのに合わせ、魔払いの杖のフランジを剣の鍔に絡めた。そのまま盗賊の剣を手から弾き飛ばすと、返す刀で唖然とした盗賊の顎を下から杖で叩き割る。
「盾持ち! 前に出ろ!!」
盗賊の集団の中で一人の男が声を上げた、立派なヤギ髭を蓄えた男だ。恐らく盗賊の頭目だろう。頭目に促され何人かの小さい丸い盾を持った盗賊たちがマリアンの前に立ちふさがり、その中の一人が素早くマリアンとの距離を詰めにかかった。
マリアンが先頭の盾持ち盗賊に左肩からタックルを仕掛けるが、盾で受け止められる。しかしその直後に魔払いの杖を盗賊の足へ叩きつけた。
「あああ!?」
盾持ち盗賊が悲鳴を上げてひざを付くと、マリアンがすかさずその脳天に向かって魔払いの杖を振り下ろす。鈍い音と共に頭の中身が飛び散り、マリアンの頬まで返り血が飛ぶ。頭蓋骨をかち割った感触が魔払いの杖を通し、握っている手に伝わってくるが、頭が疲労で逆に異様に冴えているせいか何も感じない。すぐさま次の相手へと顔を上げようとした瞬間、背中に衝撃を感じた。別の盾持ち盗賊が回り込んで背後から盾で殴りつけてきたのだ。
「捕まえたぞ!!」
「あっ、がっ!? この!!」
驚愕の表情を浮かべたマリアンへすかさずもう一人の盾持ち盗賊が正面から盾でマリアンを押し込む。アーマーのおかげで痛みは強くないが、前後を挟まれて身動きが取れなくなる。慌てて魔払いの杖を振り回すも、不安定な姿勢もあいまいって標的をうまく捉えられない。
「おどりゃあ!!」
少しの間もみ合いが続いたが、結局力負けしたマリアンが押し倒された。先日の雨でまだ濡れている地面に叩きつけられた瞬間、その衝撃で魔払いの杖も手を離れる。続いてどっと疲労感が押し寄せ、体が上手く動かせない。すかさず取り巻きの盗賊たちが集まってきてマリアンを取り囲む。
「よくも仲間をやってくれたな!」
「このくそ野郎!」
「やめろ! やめろぉ!! ―ぐへっ!?」
盗賊たちが怒りの形相で口々に汚い言葉を罵りながら四方からマリアンを踏みつけ、蹴とばす。マリアンが全身を丸く縮こませて身を守ろうとするものの、アーマーのない下半身や頭部に容赦なく蹴りが入り、後頭部の蹴りで視界が歪んだ。それでも次々とくわえられる痛みに意識を失うことが許されない。
「もういい」
手下たちを見ていた頭目が声を上げ、気づいた盗賊たちが渋々円陣を説いてその場から離れていく。円陣のあった場所には頭の先から足の先まで泥まみれになり、虫の息になっているマリアンが倒れていた。
「んぐ…」
それでも歯を食いしばり仰向けで起き上がろうとするマリアンの胸へ頭目の足が置かれ、そのまま力任せに踏みつけられると再び泥の地面に沈んだ。
「おーおー、ずいぶんひでぇ有様じゃねぇか」
押さえつけている足の主が、眉を顰めた顔でマリアンを覗き込む。対するマリアンは胸元の足を両手で掴んで退かそうとするが、びくともしない。
「…お前たち、神父とその庇護下にあるものにここまでしておいて…。ただで済むと思うなよ」
歯を食いしばったまま睨みつけてくるマリアンに頭目が明らかに不快そうに顔まで顰めると、腰を折り曲げてぐっと顔を近づけ唾を吐きかける。それがマリアンの顔に当たり、思わず顔を反らす。いつの間にか盗賊たちが再び周囲を囲むように集まっており、皆軽蔑するような目つきでマリアンを見下ろしている。
「知ったことかよ、お前だって何人殺した? 説教を説けるからって許されると思ってるのなら、お前は馬鹿だぜ」
頭目の口周りのヤギ髭が動く度、そこから発せられる言葉がマリアンの心に突き刺さる。頭目の口ぶりから、先ほど倒した三人どころか先日の一人も恐らく死んだのだろう。任務とは言え、人を殺めた。その事実がぐりぐりと心の傷口を広げていくばかりか、右手に頭蓋骨を割った瞬間の感触が戻ってくる。
「結局お前も俺たちとおんなじだ。なんならさっきまでのお前の顔、笑ってたしな」
「…そんな」
頭目の言葉にマリアンが目を見開いて言葉を失った。神職として忌避しなければならない行為の一つを楽しんでいる。薄っすら気づいていたが、面と向かってその事実を突きつけられるのは彼の心を大きく傷つけるのには十分すぎた。その証拠に全身が強張って動かず、半開きの口から思わず乾いた笑いが漏れる。
「なんだ? また笑い出したぞ」
「さっきのがそんなにショックだったのか? 笑える」
「神父サマも飛んだ野蛮人ってことかぁ」
周囲の盗賊たちの表情が緩み、げらげらと下品に笑い出す。どれだけ罵られても、例え役職や仕えている神を侮辱されても、マリアンの耳には入らない。ひたすら頭目の「笑ってたぞ」の言葉がグルグルと脳内を巡っているからだ。
「もういいだろ」
一人真顔の頭目が手下たちを手で払いのける仕草をすると、おもむろに腰に差していた剣を抜いた。そして刃先がマリアンの方へ向くように逆手に持ち直す。
「さて、さよならだ。首が落ちる瞬間をしっかり見とけ」
頭目が剣を高く掲げる様が、マリアンの瞳に映る。しかし当人はまるで事態が飲み込めていないように、表情はぼんやりとしたままだ。
「ははっ…」
マリアンから再び乾いた笑い声が漏れる。と、同時に風切り音が響き、頭目の体が一瞬横に揺れる。そして剣を手放し、それがマリアンの顔の真横の地面に突き刺さった。
「え?」
盗賊の一人が顔を上げ、頭目を見た瞬間に顔が青くなる。頭目の頭を一本の矢が貫通していたからだ。驚愕した表情のまま頭目が崩れるように片膝をつくと、その場に倒れこむ。
「おい、やばいぞ。あれ…!」
別の盗賊が後ずさりながら青い顔でとある方向へ指を差すと、それに釣られた盗賊たちも次々と顔を青くした。
「やべぇ、巡回部隊だ!!」
「逃げろ!!」
まとめる者がいなくなった盗賊たちが我先にと逃げ出す。マリアンが力なく盗賊が指さしていた方向へ首を向けると、人間の跨った馬が数頭走ってくるのが見えた。どんどんその姿は大きくなっていく。それに向かってマリアンが力なく手を伸ばしたところで、緊張の糸が切れたのか目のまえが真っ暗になった。