第十三話 身を隠す
エマが生やした木の枝に、二着のキャソックと三角帽、ローブがかかっている。それらは洞窟の中から届いている明かりに照らされていた。洞窟の外は雨こそやんでいたが、既に日が落ち漆黒の闇に包まれ、時折吹く風で木々が揺れる音が響いている。
洞窟の真ん中ではマリアンが白いシャツ姿で布一枚を地面に敷き、膝を抱えるように座って視線の先で燃え盛る焚き木を見つめていた。この空間の中では唯一の光源であり、熱源でもある。短い時間とは言え雨に打たれ冷えた体にはありがい存在だ。その証拠にマリアンはブーツまで脱いで足の指先を焚き木に当てている。慣れない旅路で指が赤く腫れ、じんじんと痛んでいた。
そして焚き木の中には石で組まれたかまどのようなものがあり、その上に小さい鍋が一つ乗っている。その鍋の中身をウォルフが焚き木の反対側で嬉しそうに鼻歌交じりで調理器具でかき混ぜていた。
「大丈夫そう?」
「ああ、温めたら大分よくなってきた」
隣で敷いた布の上に足を崩して座っているエマにマリアンが笑みを向ける。マリアンからすれば今の自分の格好はお世辞にも褒められたものではないが、気にしている場合でもない。
「なら良かった。ウォルフさんが言わなかったら脱がなかったつもりだったなんてびっくりしたけど…」
「だから規則…」
エマがちくりと差し込んできた本音に、マリアンが困惑と不快感が混じった顔で目を泳がせる。
「まぁそう言わずに、こいつは真面目君なんだからさ…」
「それと俺は呼び捨てで構わないぞ」と付け足しながら鍋をかき混ぜるウォルフが会話に入ってくる。
「ごめんなさい、ウォ、ウォルフ…」
「そうそう、その調子その調子」
ぎこちなさそうに名前を呼び捨てにしているエマをニコニコしながら見ているウォルフ。その様子にマリアンが居心地が悪そうにに膝へ顔を埋めた。
「お腹減った…」
続いて鍋から漂ってくる香りがマリアンの本能を刺激してくる。昼食は実質摂れていないし、今まで過度に興奮したせいか空腹を感じていなかった。ようやく空腹を感じとれるようになって、マリアンが鍋の中身、ぐつぐつと音を立てる白濁したとろみのあるスープに浮かんでいる干し肉と保存食、山菜たちにぼんやりと、だが確実に目が釘付けになる。
「おい、器を用意するから俺の代わりにかき混ぜてろ」
「えっ!?」
鍋に釘付けになっていたマリアンがびっくりして顔を上げると、目の前でウォルフがスープがついた調理器具の持ち手を差し出している。
「フフッ、ほらマリアン。いう事聞かないと」
「って、僕だけいきなり呼び捨てなの!?」
更に横から笑い声も響いてきて、マリアンが勢いよくそちらを向けば自然な笑みを湛えるエマの顔があった。それでも困惑した顔でしっかりとツッコミを入れるマリアン。
「いいからやれ」
「はい…」
幾分トーンの下がったウォルフの声に諦めたようにしょんぼりとした顔のマリアンが姿勢を正し、調理器具を受け取った。相棒が鍋をかき混ぜ始めるのを見て、ウォルフが荷物をあさり始める。それからすぐ、焚き木を囲む三人の手元にはスープが入った器とスプーンがあった。
「…おいしい」
祈りを済ませた後、空腹のせいであくせくとスプーンを口に運ぶマリアンの傍らで、静かにスプーンを口に運んでいたエマが一言呟く。その目は感動で輝いている。
「だろう、ちゃんと調理したらうまいんだよ」
エマの顔にウォルフは上機嫌でしたり顔だ。一方でマリアンは器に口をつけてスープの最後の一滴を飲み干す。
「おかわり」
「おい、食いすぎだ馬鹿。しかもレディの前で早食いかよ」
「あはは」
差し出された空っぽ器を見て、ウォルフが皮肉とも嘲笑とも取れる顔をする。すると器を突き出したままのマリアンが恥ずかしさから顔火が出てているように赤くなった。それを見たエマが口元を抑え堪えるように笑い出す。
「…ほら、これで最後だ」
「…ありがと」
あきれ顔のウォルフが器を受け取り、少しだけスープを入れて返した。渋々受け取ったマリアンが恥ずかしそうにスプーンでスープを掬う。
「あの、ちょっといいかしら?」
突然エマが真面目な顔になり改まった口調で呼びかける。それに呼応してマリアンとウォルフが手を止め二人の視線が彼女に向けられると、洞窟に焚き木から薪が爆ぜる音が響いた。
「さっきは助けてくれてありがとう、それと今までの失礼な態度も…」
「え、いや。全然!」
「俺はそう思ってないぜ、少なくとも悪いのは盗賊連中だし」
言葉の途中から目を反らし、後悔がにじみ出る顔のエマに、マリアンは音を立てるように器を地面に置いて大げさに両手を前に出す。対するウォルフはあくまでも冷静な態度を崩さず、スプーンで空中を指し示す仕草をしてみせる。
「っと、その。神父ってみんな堅苦しいのかと思ってたけど、二人を見てたらどうも私が間違ってたみたいで…」
エマがマリアンの身振り手振りに一瞬目を見開きながらも言葉を紡ぐ一方で、二人がお互いに顔を見合わせる。
「どういうこと?」
マリアンが少し身を乗り出すと、エマの表情が暗くなり手に持っている器に視線を落とす。
「実は…、私にはエリーズって姉がいるの。優しくて気立てが良くて…。でも以前、花嫁修業のために一時的に修道院に行った後、家族に異常に信仰を押し付けてくるようなっちゃって…」
俯いたエマの手が小さく震えているが、姉の豹変ぶりがどれだけショックだったかはかり知らせるのにはそれで充分だった。
「それは…、さぞお辛かったでしょう…」
「返す言葉もない。申し訳ないことをしました…」
少しの沈黙の後、神妙な面持ちで姿勢を正すマリアンに続き、同じ顔のウォルフが自らの胸に手を当てる。嫁入り前の女性に花嫁修業として家事全般を教えること自体はどこの教会や修道院でも広く行われている。ただし指導の練度にはばらつきがあり、『行き過ぎた』指導で当人の心身に異変を来すこともあった。
教会の不祥事は自らの不祥事、少なくともマリアンやウォルフはそう教えられていたし、本人もそう思っている。
「待って、そんな顔しないで」
そのまま謝罪でもしてしまいそうな勢いの二人をエマが慌てて制止した。
「昼食の時、二人は私にはお祈りを強要しなかったでしょう? 何だったらこの夕食の時だって。守ってもらったのもあるけれど、もしかしたらあなたたちは私の故郷の神父たちとは違うのかなって…」
堰を切ったように一気に内心を吐露するエマに、二人はまるでその言葉を全て受け止めると言わんばかりに真剣なまなざしでしっかりと見据えている。
「でも結局は教会の威厳と二人を利用しちゃったし…。そんなことを企んでいたのに、マリアンにケガまでさせて…」
後悔と罪悪感で押しつぶされそうな心を必死に支えているのか、器を持つ手に力が入りながら今にも泣きだしそうな顔をしているエマを見て、言い淀んでいたマリアンが口を開いた。
「大丈夫、僕は少なくとも利用されたなんて思ってない。それに困ってたのは事実でしょ?」
優し気な笑顔のマリアンと涙が溢れそうになっているエマの視線が絡み合う。その瞬間、エマの瞳から一つしずくがこぼれた。
「…ありがとう」
サッと下を向き、左手で溢れるしずくを拭う仕草を見せるエマをマリアンが優しく見守る。ウォルフは二人を眺めながら右の眉の端を吊り上げた。
「食べ終わったら、先に休んでて。見張ってる」
「うん」
マリアンの提案にエマが小さく頷いた。