後編 「夜明けの文化祭、鐘は再生を告げる」
十月一日午前四時。旧図書館棟の窓にはまだ月光が残り、活版機のローラーが夜の名残を噛み砕くように低く唸っていた。束ねた刷本が最後のカウンターを打ち、レジスターに「2000」の数字が浮かぶ――ノルマ達成。インクの匂いが飽和した空気の中で、僕――水島海翔は両掌を紙束に押し当て、鼓動を確かめる。深く、確かに生きている音だ。
窓の外で雲が破れ、東雲の薄橙が覗く。三日前に組んだコピー――遅すぎる放課後などない――活字が夜明けを刷り込む――その一行が表紙で曙色に輝いている。ヴァンヌーボVG110kg、曙箔押し。紙の柔らかな白が、鉛活字の硬質を受け止め、まるで夜と朝の境界を抱きとるようだった。
「よし、積み込み開始だ!」
高橋健太が声を張る。疲労で目は充血しているのに、動きは軽い。刷本十箱を台車へ載せ、リフトへ運び、トラックの荷台に積む。彼が数字で切り開いた道を、僕は言葉で照らす――その使命が血流を速めた。
午前七時、文化祭メイン会場・旧講堂。ロマネスク様式の天井から垂れる鎖燈がまだ冷えた光を落とし、ステンドグラスの欠片が床に散らばるように色を滲ませる。搬入口を通ると、ホール全体が紙と塗料と若い野心の匂いで満ちていた。僕らのブースは中央に向け斜め45度で配置、動線を最短にする健太の計算だ。
桜井心音は星空ポスターを天幕代わりに張り、スポットライトをコピー行へ誘導する角度を微調整している。指先には乾き切らない群青のインク。彼女が頬についた墨を袖で拭おうとして汚すと、僕は思わずハンカチを差し出した。布越しに感じる体温が、夜を通した疲れを柔らかく融かしていく。
午前九時の鐘。観光客、保護者、出版社のスカウト、記者――無数の靴音が石床を波のように揺らす。僕はパンフレットの束に手を置き、小さく深呼吸した。言葉は刃。臆するな。振り下ろせ。
「いらっしゃいませ!」
最初に立ち寄ったのは老司書だった。皺だらけの指で紙を撫で、見開きのコピーを声に出して読んだ。遅すぎる放課後などない―― 瞳に蝋燭のような光が灯る。「若い頃、閉館後の書庫で活字に救われた夜を思い出すよ」。
一人目が氷を割り、二人目が水を流し、三人目が灯を点す。パンフレットは次々と手から離れ、健太のホワイトボード上で配布グラフが弧を描き始めた。心音は訪問客の目線を読み取り、星空ポスターに光を回し、コピーの行へ誘導する。刃と盾が肩を並べ、数字という現実が背後から押し上げた。
正午、文化祭実行委員審査団が列を組んでブース前に並ぶ。黒いケープを羽織った委員長がパンフを手に取り、紙の小口を指で滑らせた。その指が中央コピーで止まり、瞳を閉じる。石造ホールのざわめきが遠ざかり、呼吸の音さえ紙の上を滑った。
「灯りだ」
その一言が隣へ伝染し、頷きが波紋のように広がる。僕の鼓動は紙面を叩くプラテンのように高鳴り、心音の袖がそっと僕の肘を掴む。「今の、一等の合図」――囁きは震えつつも確信に満ちていた。
午後三時。鐘楼から三度の鐘が落ち、舞台上のスコアボードが回転し止まる。〈活版部〉総合評価一位――得点76。 場内の照明が一段上がり、地域新聞社の編集長が白手袋ごしに契約書を掲げた。購読部数は目標の二倍を超え、廃部条件は霧散した。紙吹雪代わりに試し刷りの失敗紙が宙を舞い、客席から歓声が爆ぜる。
膝が抜けそうになるのを健太が抱きとめ、「数字、切ったぞ!」と嗄れた声で叫ぶ。心音は星空布の下で泣き笑いし、両腕で僕らを包み込む。インクと涙と笑い声の味が混ざり、胸に熱い渦が巻いた。
日没後、校舎へ戻る道。石畳が雨上がりのように光を散らし、旧図書館棟の小窓から活版機の呼吸が聴こえる。空は群青から紫へ、そして黒へ。最初の星が瞬き、尖塔の影が伸びる。
心音が足を止めて振り返る。「ねえ、夜明けは刷れた?」
僕は祖父の黒革ノートを開き、最後の空白へペンを落とした。
これからは昼も夜も、活字で灯す。
インクが乾くより早く、図書館の窓が次々と明るくなる。機械は眠りを拒み、未来を刷り始めていた。健太が拳を掲げる。「次は購読数四倍。数字の準備はできてる」 心音がノートの行を撫でる。「刃もまだ研げるよね」
僕は頷く。夜は終わらない。だが恐れはもう闇の中に置いて来た。活字は刃であり、灯であり、帰る場所だ。屋上の鐘楼が空を裂き、遠雷が低く鳴った。夜の向こうで、新しい夜明けが息を潜めている――刃を磨き、紙を重ね、次の朝を刷り上げる。その未来を僕らはもう、怖れていない。
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――もしも海翔や心音たちが「学園」ではなく、同じ会社に同期入社していたら?
そんな“パラレル・キャリア”ものを、創作投稿サイト Tales にて公開中です。
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社内報代わりのフリーペーパーを刷りながら、廃刊寸前の部署を立て直す――
舞台は変わっても彼らの活版魂は健在!
「学園活版部の面々が社会人だったら?」と想像が膨らんだ方は、ぜひ覗いてみてください。
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