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中編 「締切72時間、言葉が刃になる放課後」

 九月半ば、放課後の学園は文化祭準備の喧騒で満ちていた。しかし旧図書館棟だけは窓ガラスが闇をはね返し、人の気配より活字の残響が濃かった。入稿〆切まで七十二時間。〈活版部〉の部室は緊張で澄んだインクの匂いに満ちている。


 机に積まれたプルーフ版の山。その中心で、僕――水島海翔のコピーは征文先生の赤ペンに斜線を引かれていた。


刺さらない。血が通っていない。やり直し。


 言葉を武器にするはずの僕が、刃の背で自分を殴られたような痛みを覚える。掌が冷え、時間が内側から溶けていく。


 廊下から駆け込んで来た高橋健太が、受話器を肩で挟んだまま囁く。「スポンサー三社、コピーが決まるまで注文保留だ。俺が数字で走れるのはお前の言葉が立ってからだぞ」


 置いて行かれる焦りより、並走し損ねる悔しさが喉を焼く。僕は資料室の最深部へ潜り込んだ。埃を被った鍵付き棚には、百年前の創刊号とともに革装丁のノートが眠っている。


声は刃となり、紙は盾となる。恐れを切り拓き、読者の前に道を敷け。


 指が震え、鉛活字より重い鼓動が胸を打つ。刺さるか折れるか――二択しかない。


 時計は二十三時。雷雲が裂け、閃光が活字棚を白銀に染める。そこへ桜井心音が息を弾ませて現れた。爪の間に青いインクが染みている。


 「まだ刃渡りが足りない?」

 僕は干上がりかけた万年筆を見せた。心音は星空を模したレイアウトの中央を指差し、「ここに置いて。あなたの刃、私の盾で受け止めるから」と囁く。


 深呼吸を三度。祖父の声が火打石のように脳裏で鳴る。万年筆を紙へ喰い込ませた。


遅すぎる放課後などない――活字が夜明けを刷り込む。


 稲光が部屋を白く染め、インクが湖面に波紋を描く。心音が震える声で読み上げ、「夜を責めない言葉……これなら朝を渇望する心に届く」と頬を染めた。


 扉が跳ね上がり、健太が飛び込む。「征文先生が控室で待機中。コピーは?」 三人はゲラ束を抱え、濡れた廊下を駆ける。顧問室の蛍光灯の下、征文先生の赤ペンが静止していた。十五秒の沈黙。ペン先がゆっくり○を描く。


 「刺さった。だが責任も刺さるぞ。三日で数字を示せ」


 部室に戻ると健太が号令を放つ。「組版開始! スティックに10ポイント明朝、字面は3Uニコ基準、クワーコン用意!」

 僕は指で活字を拾い、スペーサーで行を緩め、ロックアップを締め上げる。心音はローラーに炭素ブラックのインキを載せ、コマのブロッキングを耳で確かめた。プラテンが紙を叩く低い鼓動――夜の静寂に穿たれた心拍の合唱だ。


 深夜二時三十七分。最初の束が刷り上がる。ヴァンヌーボVG110kgの紙面に曙色のタイトルが浮かび、インクがまだ温い。三人は機械の息づかいを聞きながら床に腰を下ろし、缶コーヒーを開けた。苦味が喉を貫き、身体がようやく自分のものに戻る。


 窓外で雷雲が遠ざかり、東の空に薄い群青が戻る。活版機はなお動き続け、そのリズムが僕らの鼓動を上書きしていく。夜は終わらない。だが恐れは色を変えた――インクのように深く、夜明けを呼ぶ色へ。


 僕は鉛の匂いを指に感じ、囁く。「言葉は刃。そして、刃はまだ研げる。」

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