前編 「入学式、沈む活字の学舎」
夜明けの雲はまだ群青で、雨上がりのキャンパスは朝陽を一滴も知らない。弓形の校門をくぐった瞬間、石畳が水鏡のように僕の影を映した。学園の尖塔は薄靄に呑まれ、鐘楼だけが輪郭を残している。六つの鐘声が空気を震わせ、僕――水島海翔――の胸骨まで共鳴した。
今日は入学式。しかし僕の足は講堂ではなく、旧図書館棟へ向かう。祖父の遺品から見つけた小さな部誌に載っていた印刷室――〈活版部〉の名前を確かめるためだ。祖父は昔、町工場の植字工だった。鉛の匂いを纏っていた背中を思い出すたび、胸の奥が温かい火種のように疼く。
図書館裏の回廊は人通りがなく、雨粒が欄干を滴っていた。重厚なドアに手を掛けると、蝶番が悲鳴を上げる。途端に鼻腔へ飛び込むインクと油脂の甘い湿気――子どもの頃に嗅いだ物置の匂いが一瞬で時間を巻き戻した。
薄闇の中、天井まで届く活字棚が並び、銀鼠色の鉛ブロックが鈍い光を宿す。足元に散らばるスペーサー、割れたレジンローラー、錆びたハンドモールド。プラテンプレスの円盤が沈黙したまま佇み、まるで息を潜める獣の骨格のようだ。それでも、どこかで微かに脈打つ音がする――“ここで言葉が生まれる”という鼓動。
その瞬間、背後で紙束が崩れる音。「おい、新入生か?」
茶髪の青年がゲラ束を胸に抱え、埃を払いながら立っていた。胸のタグには**高橋健太**。昨日の履歴書交換会で名前だけ聞いたばかりだが、彼はもう制服の袖をまくり、額に汗を浮かべている。
「先輩いなくてさ。とりあえずこの山をどかせって言われたけど……重要書類と廃鉛※1の区別がつかん」
※1 再溶融して再利用する使い古しの鉛活字。
二人で背丈ほど積まれた紙塊を動かす。ゲラを崩さないよう腰を落とし、段ボールを足で押さえ、活字ケースを滑らせる。床板がきしみ、インキ壜の琥珀色が揺れた。その底から赤い張り紙が現れる――
> 〈活版部〉は半年以内に購読数二倍を達成できなければ廃部とする。
入学初日に宣告されるデスマーチ。活字より重い沈黙が落ち、僕らは互いの呼吸を確かめた。
午前授業が終わる頃には空が淡い檸檬色に変わり、行事の喧騒が中庭を満たしていた。だが僕は式典への列を離れ、美術棟へ向かう。光が差し込む吹き抜けのアトリウムで、肩までの黒髪を透かす少女がスケッチブックを開いている――桜井心音。
机には真新しいカッティングマット、ガラスペン、インク壜。彼女はペン先を軽く振り、僕に視線をよこした。「活版部、見てきた?」
「溺れかけた。でも活字に掬われた感じ」
冗談半分の返事に、心音はふっと笑い、スケッチの余白を示す。「夕景の校舎をレイアウトしたけど、真ん中が空いてるの。あなたのコピーで埋めてみない?」
逸る鼓動を押し隠し、胸ポケットの万年筆を抜く。祖父の形見だ。ペン先を走らせる前、一拍だけ息を止めた――「言葉は刃にも鍵にもなる」。その遺言を心の内で繰り返し、インクを紙へ落とす。
夜を歩こう――言葉の灯りを携えて。
染み広がるインクと共に、僕の胸も静かに開いていく。心音は星形のトンボをのせ、トレーシングペーパーを被せて透け具合を確かめた。「読者の視線が夜空に上がる。臆病な夜が探検の夜へ変わるね」
その時、窓辺に置いたローラーが転がり、洗浄液のバケツを跳ね上げた。銀灰色の雫が心音の袖を濡らし、彼女が小さく悲鳴を上げる。反射的に僕は手を伸ばし、細い手首を引き寄せた。
距離は紙一枚より近く、制服の濡れた布が僕の胸に触れた。湿ったインクの匂いが甘く鼻先を撫で、鼓動が掌へ伝わる。「ごめん……びしょ濡れじゃない?」
「大丈夫。でも……温度差で、ちょっと震えてるかも」
頬を染めた彼女の微笑みが、古い活字より鮮やかに焼き付く。ふいに遠くで七つ目の鐘が鳴り、現実へ引き戻された。
夕刻、部活動承認会議。生徒会室の重たい扉を開くと、木製の長机に職員用のレザーチェアが並び、その中央で眼鏡を光らせるのが征文先生だ。指には赤インクが付着し、書類を捲るたび紙を刃物のように鳴らす。
「部誌は文化祭で一万冊配布。未達なら廃部。コピーは――水島、君が書くのだね」
刃の宣告のような声に喉が鳴る。僕は椅子の影で拳を握り込み、静かに頷いた。健太が横で「数字は俺が稼ぐ」と囁き、心音がノートの星を撫でながら微笑む。
活字が夜明けを連れて来るとしたら、その夜はすでに始まっている。刃を研ぐ時間は半年。けれど恐れるより先に、胸の内側で活字の鼓動が熱を放っていた。