夕暮れ時
人間は常にジグソーパズルをやっているのだと、私はとみに思うのだ。ジグソーパズルと言っても、実際にやっている訳じゃないしただの比喩表現ではあるが。それは何か目的を見つける為のパズルでもあるし、目標を達成する為でもあるし、満足する為に人はピースを探すのである。完成すれば、また新しいパズルを探すのだ。
なので、加古川が私に興味を持ったのには少し納得出来る。人は自分とは違うものを求めるのではないか。自分が持っていないものを埋める為に、違う人を探すのではないか。明るくて友達も多い。そんな彼女が私というピースを自分のパズルにはめ込む為、私に近付いたのではないか。同様に、夙川や別所もそうなのだろう。そう思えば、まあ、納得出来る。しかし、私は違うのだ。私はお前らを求めていない。私が完成させるべきパズルは一つ。ピースは二つ。私と先輩。この二つさえあれば、この二つさえはめ込めば全て終わり。他のものは何一ついらない。欲しいのは一つ。たった一つ。
「……おはようございます」
「ああ、おはよう」
すぐそこにあるのに、すぐ傍にいるのに、手を伸ばしても届かない。
今日は私から先輩に声を掛けた。マンションに近付いた先輩を、こう、ぐさっと。しかし勇気を振り絞ったと言うのに、彼はどうしてもつれない。もっと『おはよう七篠! 今日も最高に可愛いな!』 ぐらい言ってくれても良いじゃないか。でも本当に言われたら苦笑いしてしまいそう。ちょっと部長とキャラ被っちゃうし。そもそもそんな事を先輩が言う筈ないし、そんな事を言うのは先輩ではない。先輩の皮を被った部長だ。想像したら腹が立ったので、あの部長をどうにかして合法的に殴り飛ばしてやりたい。
「あのさ」
「……何ですか?」
「七篠って陸上部だったよね?」
私は頷く。
「朝練とか、良いの?」
あ。あっ、やば。そう言えば、そうなんだった。最近は休みまくってたからなあ。そうだそうだ、私はおいそれと部活を休めるような身分の人間ではなかったのである。河原に進退を握られた陸上奴隷だったのだ。
「……良いんです」
だが、先輩と会えるのならばやむを得まい。部活がなんだ。学校がなんだ。
「まあ、僕が怒られる訳じゃないから良いんだけどね」
「……酷い言い草ですね。あなたの可愛い後輩が泣いてしまいますよ」
「そんなもの、見えない」
もーうお茶目さんなんだからー!
「第一、僕は七篠が泣いたところ一度も見た事ないし」
「……可愛い後輩が私であるのは認めるんですね」
「可愛いは省いとく。……で、泣いた事あったっけ?」
そう言われれば、ないような気がする。他人に弱みを見せるのは嫌だし、先輩に迷惑を掛けたくなかったのだ。
「……先輩、涙は女の武器と言います」
「うん」
「使っても良いですか?」
「いや、僕の許可を取らずに勝手に使えば良いじゃないか」
素っ気ないなあ。
「……まあ、涙なんてそう簡単には出ませんけどね」
「そうなの? 委員長は自由自在に操ってるけどね、涙」
先輩、奴は人間ではないのです。明石つみきと相対する時は女狐だと思って臨んで下さい。
「それよりさ、七篠。あー、ちょっと言い辛い事なんだけどさ」
んん? 先輩が私に対して言い淀むような事が果たしてあるのだろうか。『まっ、まさか告白? きゃーっ、どうしようまだ心の準備がー!』 的な。まあ、ない。うん、ないな。
「今日の放課後遊びに行くって言ってたじゃないか」
「……ああ、そういえばそんな事も言っていましたね」
あくまで素っ気なく。
「あれ、悪いんだけどキャンセルで」
その時、私に電流走る。足元の感覚がなくなり、地面が崩れ落ちてしまったんじゃないかと錯覚した。
「……構いません、先輩が言い出した事ですからね。断るのも先輩の勝手です」
先輩は意外にも、本気で申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめん。埋め合わせは絶対にするよ。……日曜日って、暇かな?」
暇にします。
「……ふふ、良かったですね先輩。罪悪感は明後日には解消出来ますよ」
「助かるよ。そうだなあ、何時ぐらいから都合が付く?」
「……午前零時からでも結構ですよ」
「嫌だよ。大体、そんな時間じゃコンビニぐらいしか開いてないんじゃないのか?」
「冗談です」と、私は嘯いた。と言うか嘘を吐いた。
はあ。そうか。そうなのかあ。今日、先輩と遊べないのか。何だかいきなりやる気がなくなったなあ。学校行きたくないなあ。
「どうせなら午前中からどこかに行こうか」
ごっ、午前中から? 朝から晩まで先輩と一緒にいられるの? 最高じゃん。最高じゃないですか。放課後なら数時間までしか遊べそうにないが、休日だったら丸々一日。かっ、神様だ。チャンスとかロマンスとかの神様がくれたビッグチャンス。この一発に賭けろって事ですかゴッド!
「……朝から、ですか」
「あ、迷惑かな?」
「いえ、大丈夫です。六時からで良いですよね」
「良くないよ。早い、早いよ七篠さん。ううん、十時で良いんじゃないかな」
つまり、十二時間は先輩分を補給出来る計算になる。十二時間先輩独り占め。やばいな、鼻から血液出そう。
「……構いませんよ。待ち合わせはどうしますか?」
「待ち合わせ……って、家が近いんだから、そんなの別に――」
「――では駅前で。駅前に十時で」
「……ええと?」
やだー、やだー、待ち合わせしたい。待ち合わせてみたい。駅でこう、『待った?』 『超待ちました。でも先輩と手を繋げるなら許します』『仕方ないなあ、ほら』『うふふあはは』ってやってみたい! ザ・デート! デ・ザートのように甘くス・イーツのようにとろけるような、そんな事をしてみたい。周囲からは奇異の目で見られようとも構わない。ここだ、ここしかないっ、明石つみきや舞子眞唯子が台頭しつつある状況を、親指銜えて見ていられるものか、現状に甘んじてなるものか。七篠歩一世一代の大勝負。
「だからさ、待ち合わせの必要性を感じられないんだけど」
「……どんとしんく、ふぃーるです」
「だから感じられないんだってば!」
とにかく、無理矢理待ち合わせに決めてやった。これでデート気分を味わえる。今はもう、にやけないように我慢するので必死だ。
「おはよう、七篠さん」
「……おはよう」
あーあーあー幸せ気分ぶち壊してくれちゃってさー、どうすんだよ夙川、おお?
などと、そんな事は言うまい。不粋な行為に不粋で返すのは不粋の極みである。今日一日はメガネたちにも、まあそこそこ優しく振る舞えそうな私。
「何か良い事でもあったの?」
自分の席に座り、こちらに微笑み掛ける夙川。
「……どうして、そう思うの?」
「だって笑ってたじゃない」
…………マジでか。私もまだまだ修業が足りないな。頬っぺたに手を当てながら、そう思ったり。
「あ、そうだ。今日姫休みなんだって」
「……そう」
死ぬほどどうでも良い。しかし、元気だけが取り柄です、明るさが私の生命線です、みたいな別所が休みとは。
「今日は雪が降ったり」
「……雪ならまだマシ。風邪でも引いたの?」
「うーん、違うと思う。メールしても返事ないし、電話にも出ないの。家まで迎えに行ったら、おばさんが今日は休みだって」
少し気になる。昨日の今日だ。まさかとは思うが。が、しかし視線は教室の真ん中、加古川シホのグループに吸い寄せられる。奴らが何かしでかしたと言う可能性は捨てきれない。昨日の加古川をどこまで信用して良いものか。いや、信じちゃ駄目だ。信じるものはすくわれる。ただし足元を、である。
一時間目が終わって休み時間。私は女子トイレの個室に息を潜めていた。
「でさー」
「えー、マジでー?」
中身のない会話を繰り広げるカスどもめ。さっさと失せろ。私の目的はお前らじゃない。加古川シホだ。
女子と言うのは不思議な生き物で、トイレに連れ立っていく習性を持っている。怖いから、なんて可愛らしい理由ではない。恐らくはコミュニケーションを取る為なのだろう。あと化粧直しとか。私はそういうのに興味ないから理解出来ないし、しようとも思わないけれど。
話が反れたが、加古川は数人のクラスメートと一緒にここにやってきていた。奴が一人になった隙を見計らって話を聞き出す。場合によれば尋問も可。と言うかしたい。
……静かになったな。そう思っていると、隣のドアが開く音がする。暫くしてから、壁をノックされた。
「そっちに行っても良い?」
間違いない、加古川の声である。まあ、個室の壁を挟んで会話しているのが見付かってはまずい。狭いところに誘い入れるのは非常に嫌だったが、やむを得まい。
「……早くして」
「もう、七篠さんったら欲しがりなんだから」
何も欲していない。
私が鍵を開けた瞬間、加古川は待ち望んでいたかのようにドアを開く。勢いがあり過ぎて少しびっくり。
「昨日の今日だったから、声なんて掛けてくれないと思ってたよー」
超にっこにこしながら、何故かこいつは私にしな垂れかかろうとする。イラっときたのでこめかみにパンチをお見舞いしておいた。
「七篠さん、休み時間になったらすっごく見つめてくるんだもん。何か用事でもあったのかな?」
「……用がなければ、あなたみたいな人を見ない」
加古川は目の端に涙を浮かべる。多分、演技だ。クラスの中心人物的存在である加古川。しかし、その実態はかなり、変。変態である。よりにもよって私のような人間に近付こうとするのだから間違いない。類は友を呼ぶなんて言葉はあるが、こいつとは友どころか知り合いになるのすらお断りなので、その表現は当てはまらない。当てはまらないったらはまらない。
「私は七篠さんのそういうところが好きだから、泣かないよ」
あっそ。
「……今日、別所が休んでいる」
加古川は小首を傾げて(わざとらしい)、唇に指を当てた。
「ああ、あの眼鏡さん、ね」
彼女は一瞬だけ意地悪そうな笑みを浮かべるが、すぐに犬のような人懐こい笑みへと変える。
「もう一人の眼鏡さんは来ているけれど。ああ、残念。どこかに行っちゃえば良いのに。そうしたら、七篠さんはもっと……」
なるほど、ね。
私は加古川の喉を掴み、トイレの壁に押し付けた。結構大きな音がしたけれど、しちゃったからには仕方ない。幸い、今は誰もいないようだし。
「い、痛い……」
「……痛くしているから」
とぼけやがって。
「……別所が休んでいるのと、あなたと、何か関係があるんじゃないの?」
「なっ、ない! ないないない! ないってばぁ!」
「……信じられない」
「私と七篠さんの仲じゃない!」
そんな仲知らん。
「本当だってばあ。そりゃ、あの二人にはいなくなってもらいたいなーとか思ったりしてるけど、実際にそんな事出来ないし、もし出来たとしても実行したら七篠さんに嫌われちゃうもん」
「……本当に知らないの?」
「知らないから、そろそろ離して……」
私は加古川から手を離して、トイレットペーパーで両手を拭いた。あとで滅茶苦茶洗っておこう。
「え、ちょっと酷くない?」
消毒用アルコールの導入を学校に陳情したい。菌が移ると大変だ。
「でも、熱い七篠さんもちょっとだけ良いかも。友達の為に怒る七篠さん、ああ、いつか私の為にも怒って欲しい」
「……友達?」
「うん。眼鏡さんは七篠さんの友達なんでしょ。だからあんなに怒ってたんじゃない。良いなー、私も心配されたーい」
「……用は済んだから、早く消えて」
「呼び出したのはそっちなのにっ。も、もう少し密着していたい……」
私は変態を突き飛ばして個室を出た。
加古川は何も知らないらしい。はーあ、無駄な接触を取ってしまった。二時間目が終わって、私は机に突っ伏す。まだ二時間しか経っていないのに、これから先が思いやられる。
「大丈夫?」
「……うん」
夙川は一緒にいても平気な部類だ。彼女は大人しいし、気を配れるしそこそこ空気も読める。まあ、別所と加古川、河原に比べればの話ではあるが。奴らはもはや人ではない。クリーチャーか何かの類なのだ。
「頭が痛い? それともお腹? 私、お薬持ってるから飲む?」
そう言って、夙川は机の上に色々な薬を広げ始める。痛いのは私じゃなくて加古川だから、どうせ飲ませるなら奴に飲ませてやって欲しい。毒がないなら睡眠薬でも良い。そのままプールに放り込んでやるのだ。
「……マニア?」
思わず口をついて出た言葉に対して、夙川は反応を見せる。
「えーと、そうかもしれない、かな。私って体が弱いから、こうして常備してるの」
へえ、しかし量が多いな。むしろこれだけあると薬と言うよりか、体に毒な感じである。
「……平気」
「そう? ……惜しいなあ」
眼鏡の奥がきらりと光ったのを、私は見逃さなかった。
お昼休み。夙川と一緒に食堂でご飯を食べていると視線を感じた。それも二つ、である。けど誰のものかには気付いているのでオール無視だ。粘っこい視線は加古川。視線だけで殺そうとしているのは明石つみきである。奴ら、別の人間と話しているくせに視線だけはずっとこっちを向いてやがるのだ。
「七篠さん、目が恐いよ?」
「……気にしないで」
絶対に目を合わせてやらない。私は親の仇でも見るような風にカツ丼を睨み続けていた。ええい、サクサクしやがって。すごく美味しいぞ。
「あ、姫からメール」
夙川は何やらカチカチと携帯電話を操作している。文明の利器を見せびらかされても何とも思わない。
「あ、なんだ。七篠さん、姫ってば馬鹿だよ」
ほら見てと、ディスプレイを差し出された。覗いてみると、何やら私には理解出来ない図形? と言うか絵が並んでいる。これ、何?
「……読めない」
「んとね、姫は今日アイスを食べ過ぎてお腹を壊して休んでるんだってさ。だったら早くそう言ってくれれば良かったのにね」
小学生か。高校生でそんな理由使って休む奴を初めて見たぞ。……と、なると、加古川なんかと接触したのがますます悔やまれる。
「……月曜日、アイスでも買ってもらおう」
「あはは、それも良いかも」
まあ、大した事がなくて良かった。
「安心した?」
「……心配なんてしてないし」
「うわー、テンプレート的な返しだ」
夙川とは別れて、私は一人部活に行く。げんなり。
しかし、どうやら今日は河原と部長がいないらしい。しゃっきり。
じゃあ部活が終わるまで適当に流すか。とか思ってたけど、私の背後を付ける奴がいた。言うまでもなく加古川である。
「今日もずっと見てたよ七篠さん。食堂では無視するし、教室でも無視するし、私が嫌いなの? けど良いもん、ここにはもう眼鏡さんはいないからねー、私と七篠さんと二人きりー」
スピードを上げた。
「ちょっ、ちょっと待ってよ! うう、まさか部活でも無視されるなんて!」
うるさいなあ、もう。黙って走れよ。
「ねえ七篠さん、はっきりしてよ。私の事を好きなの? それとも嫌いなの?」
「…………死ね」
「良かったあ、嫌われてなかったー」
底抜けに馬鹿だなこいつ。ポジティブ過ぎて腹が立つ。いつか殴る。
「ねえ、そう言えばさー、七篠さんは私に言う事があるんじゃないのー?」
ねえよ。
「あるでしょー、ほらほらー」
更にスピードを上げるが、加古川はまだ離れない。こいつ、下手したら私より伸びるんじゃないのか。
「お休みだった眼鏡さん、私のせいじゃなかったよね? アイスの食べ過ぎだって、アイス! あー、マジウケる。絶対あだ名決まりだよ、アイスで」
「……何故それを」
「女子の情報網を舐めちゃダメだよねー、やっぱり」
ふん。しかし、それと私が何か言う事と関係はない。
「謝ってよ、七篠さん。お願いします謝ってください。わ、私に頭を下げる七篠さんが見たい、見たいのっ」
アホだなこいつ。しかも真性の。
「濡れ衣を着せられた私、ああ、かわいそうな私!」
面倒だな。……仕方ない、あと一時間もないし、本気を出すか。
部活が終わり、着替えも終わって部室を出ると、
「あー、遅いよ七篠さん」
ゾンビみたいな顔をした加古川がいた。
こいつは私に付いて来られず、無茶なペースで走り続けた挙句に保健室へ運ばれていたのである。ざまあ。
「むっ、無視しないで! せめて死ねでも殺すでも良いから何か言って声を掛けて!」
「……鬱陶しい」
「ひゅー! さっすが七篠さんだ。私の期待を裏切らないぜー」
何を言っても無駄である。勘弁してよ、もう。
「一緒に帰ろうよー、話に花を咲かせようよー」
頭がお花畑の奴が花を咲かせるなどと……ん? あれ、今、校門を出て行ったのは先輩じゃなかったか? し、しか、しかも、その隣にいたのは、あ、明石、つみき……? あ、そっちは先輩の家の方角じゃない。まさか、まさかまさかまさかまさかまさか。
「どしたの七篠さん?」
まさか、私との約束を破ったのは、明石つみきと出掛けるから、なのか? そんな、馬鹿な。信じられない。あの先輩に限って、そんな。いや、いやいや、待てよ。先輩が約束を破る筈はない。明石つみきだ。奴が先輩を手八丁口八丁で誘ったのだ。くそ、奴なら自分の都合を無理矢理にねじ込んできてもおかしくない。
「きゅ、急に四つんばいになって……まさか、お尻を触らせてくれるの? さ、触っても良いよね? 突き上げてるんだもの!」
許さない。
私と先輩の逢瀬を邪魔しただけでなく、私を押し退けて先輩と一緒にどこかへ行こうとするなんて……! もう良い、構うもんか。こうなったら全面戦争だ。野郎、私を舐め切りやがって。
「なっ、七篠さん!」
「……うるさい」
加古川の顎を蹴り上げて、私は先輩たちの後を追った。