夜
学校を出る。何だか家に帰りたくなくて、いつもよりもゆっくりと歩く。ああ、先輩に会いたい。会って話したい。あとシャワー浴びたい。と言うかシャワーを浴びたい。むしろ先輩に会わなくても良いかもしれない。
「……はあ」
と、気付いたらマンションの前まで来ていた。こう、ぼんやりしていると歩幅が広がってしまうのである。着いてしまったからには仕方ない。帰るしかないだろう。寄り道しようにも別に行きたい場所とかないし。時間を潰すとなれば、私に出来るのはただ歩く事だけなのだ。今日はもう思う存分走れたから、これ以上歩いたり走ったりはしたくない。
意識してゆっくり歩き、エレベーターのボタンを押す。この待ち時間が死ぬほど嫌いだ。階段を使おうとは思ったが、一昨日に三段抜かしで跳んでいたのを同じマンションの小学生に見つかったので自粛しよう。集合掲示板に『階段は跳ばないでください』とか書かれるのはこりごりだ。
「ふうー」
!?
なっ、しまった油断した! エレベーターはもうすぐそこまで来ていると言うのに、サラリーマンが私の後ろに陣取りやがった。どうしよう。嫌だ。嫌過ぎる。エレベーターを考えた奴を殺してやりたい。『あー、便利じゃねこれ?』 みたいな安直な考えを滅してやりたい。いやしかし全否定する訳ではない。ただ、もっと何かあったんじゃないのか。例えば、もっと広くするとか。考えてみればエレベーターはただの密室なのである。狭い密室、空間を他人と共有する地獄のような時間で悪魔めいた拷問じゃないか。……とどのつまり気まずいのである。しかし、ここで退くのは躊躇われた。この脂ぎったオッサンに気を遣っている訳じゃない。負けたような気がするのだ。それが許せない。
負けても良かった。加齢臭が充満する空間とカメムシが充満する空間。どちらの空間を圧縮してこの世から消すかと聞かれれば、うーん。やはり筆舌に尽くし難い苦渋の選択を強いられる事になるだろう。だけど私を声を大にして言いたい。消えて欲しいのはやはりオッサンの方だ、と。
「……ただいま」
「おかえり歩ー、ちょっとお願いがあるんだけどー」
お母さんの間延びした声。嫌な予感がする。嫌な予感しかしない。
「……何?」
私、部活から帰ってきて超疲れてるんだけどーって風にアピールしてみる。
「今日お父さんが帰らないのよ。だから晩を簡単なもので済ませたいのよー」
またコンビニ弁当か。お母さんはいつもこうなのである。お父さんがいない時はすぐに手を抜きたがる。成長期の私にもっとまともな栄養を与えようとは思わないのだろうか。肉とか、寿司とか。私が所々小さいのはこの人のせいと言っても過言ではない。
「……先にシャワー浴びてきて良い?」
「お腹空いたんだけどなー」
勝手に空いていれば良いじゃないか。と言うか、お使いを頼んどいてそれはないだろう。
都合により、シャワーシーンはカットです。
ああ、良い気持ちだった。汗を流す為に走った。そう言い換えても良いくらいの気分である。
「あ、歩上がったの? そしたらねー、お母さん今日はサンドイッチがいっぱい食べたいなー」
「……分かった」
カツサンドばっかり買ってきてやろう。
「はいお金。あ、勝手に変なもの買ってきちゃダメよ?」
はいはい。
お金を受け取ったので、部屋に戻ってジャージに着替える。さて、面倒だけどご飯を食べるには仕方ない。アルバイトとか、考えてみようかな。そしたらもっと好きな物とか食べられるし。
「歩ー? 早く行ってきてよー。あ、またジャージなの? 色気がないなあ。女の子なんだから、もっと可愛い服着れば良いのにー」
うるさいなあ、もう。
ジャージにはジャージの良さがある。確かに、可愛いだとか、綺麗だとか言った具合のカテゴリにはまらない服なのは確かだ。が、ジャージは何と言っても動き易い。機能美と言う奴である。世の男性諸君に問う。スカートで力いっぱい走れるか? 走れないだろう。……そもそも走らないだろうか。
「……色気」
やっぱり、ないよりはあった方が良いよね。でも、どうやったら手に入れられると言うのだ。何をしたら良いんだ。七つの玉集めたりとか銀河を飛び回る鉄道に乗って願いを叶えてくれる星を探すしかないのだろうか。
ジャージに、コンビニ袋か。いや、中々様になってきたじゃないか。こんなところを知っている人に見られたらちょっと悲しい(そもそも、知り合いなんて片手で数えられるぐらいではあるが)。
「ああ、七篠じゃないか」
「…………え?」
顔を上げると、そこには先輩がいた。
…………マジで。
「合ってて良かった。えと、買い物の帰り?」
「……それが何か?」
レアだ。レア過ぎる。まさか先輩とこんな時間、こんな場所で会うなんて。あまつさえ話し掛けてもらえるなんて。しかし、油断した。完全に緩み切っていた。こんな、こんなジャージ姿で出会ってしまうなんて……! どうしよう、これが私のプライベートモードだと思われたらっ。
「いや、話し掛けてみただけなんだけど。あ、ごめん、迷惑だったかな?」
と ん で も な い 。
「……いえ、別に」
先輩、まだ制服姿だけど、どこかに行ってたんだろうか。
「……制服」
「あ、そうなんだよ。実は、今から家に帰るところでさ」
へえ、そうなのか。……あれ? おかしいぞ。先輩は部活動なんかやっていない筈だし、そもそも基本的にはまっすぐ家に帰っているんじゃなかったっけ。寄り道? いや、いやいや、先輩に限ってそれは。
「……補習でも食らっていたんですか?」
「いや、駅前で遊んでた」
!!??
「……へえ、一人で。先輩は一人遊びがお上手で羨ましいですね。時間を無駄に潰す術を心得ているようで。是非、私にもご教授して欲しいです」
「お前、僕を何だと思っているんだ。いつまでも昔のままの僕だと思うなよ。高校生になった僕を知らないから仕方ないとは言え、友達の一人や二人や百人作るのなんか簡単なんだよ」
それはないな。
「嘘ですね」
「まあ嘘だけど。でも僕に友達がいるのは確かだ」
「愛と勇気ですか?」
「僕からは凡そかけ離れたものであるのは確かだ」
うーん、流石先輩である。突っ込みがぶれないな。
「……しかし、先輩に友達と呼べるようなモノがいたとは。明日は誰かが死ぬんじゃないですかね」
「そりゃ死ぬだろうけどさ、僕のせいじゃないぞ。僕をカラスの鳴き声みたいに言うな。さっきから失礼過ぎだろ」
だって先輩が全部拾ってくれるんだもん。
「……何をして遊んでいたんですか? やっぱりケイドロですか?」
「駅前でやる遊びじゃないよ、それ。しかも、遊んでいたって言っても二人だったし」
へえ、二人で。へええ、先輩と二人で遊べる人間がこの世に、私以外に存在するのか。早くそいつをどうにかしてやらないといけないな。
「……男二人でプリクラですか。世も末ですね。早く滅びれば良いのにと切に願います」
「お前の思考は小学生でストップしてるみたいだな。駅前での遊びイコールプリクラとか笑われるぞ」
うう、ぐっ……っ! くっ、くそ、先輩のくせに……っ!
「何か顎が尖ってないか?」
「気のせいでしょう。それよりも先輩、今の台詞は聞き捨てなりませんね。私を笑うのなら、先輩はとっくに小学生の思考を脱しているのでしょう? その証拠を見せてください。具体的には、高校生っぽい事を言ってみてください」
先輩は露骨に嫌そうな顔をしていた。
「はあ、そういう無茶振りはやめてくれないかな。僕にそんなコミュニケーションスキルはないんだぞ」
「またまたー、そんな事言ってー」
「誰だよお前は」
しかし、先輩は(私の)期待に応えてくれる人なのだ。私は信じている。
「高校生っぽい事ねえ。うーん。ドラムが見付からなくて、打ち込み」
それっぽい!
「……それだけでは判断しかねますね」
「ブログに詩を書く」
「大学生や小学生もやると思いますよ」
「数学が難しい」
「私は全教科満遍なく難しいと思いますけど」
「それはお前だけじゃないのか?」
そんな筈はない。
「……まあ、一番最初のがそれっぽいですかね」
「ありがとう。ところで、何の話をしてたっけ」
「高校生男子は休み時間になるとヘアワックスの話を絡めてくる確率が高まる話では?」
「ああ、そうだ。聞いてよ七篠、僕、今日初めてゲームセンターに行ったんだよ」
ちょっとテンションの上がった先輩も素敵。ん? あれ、やっぱりゲームセンターに行ってるんじゃないか。
「衆人環視の中で踊ったりギター弾いたりドラム叩いたりディスクジョッキーの真似事してたよ」
「……それはそれは。さぞかしギャラリーが沸いた事でしょうね。『ヘイ、見ろよ。あいつのステップ、まるで酔っ払いみたいにふらふらだぜ! 自分に酔っているのさ、ハハハ!』」
「ギャラリーなんて逆に寄ってこなかったよ。それより最近は凄いんだな。色々、見た事のないジャンルのゲームがあったんだ」
ゲームかあ。全然やった事ない。ボードゲーム、テーブルゲームぐらいなら、まあ、何とか。
「カードゲームとか、クイズとか、いや、技術は常に進化しているんだな」
「……脱衣麻雀とか」
「さり気なくそんなものを混ぜようとするな。大体、麻雀なんか昔からあるジャンルじゃないか」
「コンピューターにあがられたらプレイヤーも脱がなくてはなりません。服とか、ベールとか。今明かされる真の本当の最強最後の私の力っ、みたいな」
あ、先輩が私を無視しようとしている。
「知っているか七篠、最新型の対戦格闘ゲームはな、自分で動かさなきゃならないんだ」
えっ、そうなの? うわあ、面白そう。凄いぞ技術大国日本! そんなもの開発する暇があったらもっと景気を良くするマシーンを作ってください。
「こう、何かモビルファイター的な、トレースシステム的なものが付いたピチピチのスーツを着た自分の動きと連動して画面のキャラクターが動くんだよ」
「……はあ、しかし、対戦に負けてしまった方がリアルファイトに突入したらどうなるんですかね」
「はい?」
「既に疲れ切っているからスーツを脱ぐのも一苦労。その後で更にリアルファイトなんて到底無理では?」
「喧嘩になったとして、ゲームのシステムから見ても負けた方が更に負けちゃうよな」
「……そもそも、そのスーツは誰が着たのか怪しいですよね。順番待ちしてる時とかドキドキですよ。液体的なものが染み込んでそうで嫌です」
構造的に、と言うか根本的に無理なのではなかろうか。
「……先輩、果たしてそれは本当なんですか?」
「うん。だって自分の目で見てきたからね。何ならうちの担任に誓っても良い。僕以外の命を賭けても構わない」
そりゃ先輩は構わないだろうけど。
「……ここは信じておきましょう。先輩は無駄な嘘を吐かない人ですからね」
「うん、ありがとう」
「ところで、先輩はどなたと遊んでいたのですか」
「ああ、クラスメートだよ」
クラスメート! まさか、先輩が本当に実在する人物と遊んでいたなんて。
「男二人、むさいツーショットの代名詞ですね。二人でカラオケ、二人でボウリング、ハイタッチ……ああ、すみません。少し吐き気が……」
「何を言ってるか分からないけど、僕は女の子とゲームセンターに行ったんだよ」
……は?
「舞子さんってクラスメート。何だか最近振り回されててさ」
はあああっ!?
な、なっ、馬鹿な馬鹿な馬鹿なあっ! この七篠歩を差し置いて!? 舞子眞唯子……っ、くっ、あのアバズレが。油断していた。明石つみきに気を取られ過ぎたああっ。
「いや、しかし、これで僕も高校生になったって感じがするね」
「……調子に乗らないでください」
「拗ねるなよ七篠。あ、そうだ。今度は僕が連れてってやるよ」
今、何と?
「格闘ゲームって奴で舞子さんにボロ負けしちゃってさ、今度遊んだ時までにもう少しだけ上手くなっておきたいんだ」
「……はあ、なるほど。しかし、先輩が私とゲームセンターに行きたいのは分かりますが、その逆はどうでしょう」
先輩はううんと唸った後、申し訳なさそうに口を開く。
「あー、そうか。だよな。部活があったら遊んだり出来ないもんな。ん、じゃあ気が向いた時にでも……」
「明日行きましょう」
「え、早。いや、部活は……?」
辞めます! 私、先輩とゲームセンターに行く為に辞めます! だってずるい、羨ましい。妬ましい。私だって先輩と遊びたいもの。
「……心配いりません。私、エースですから」
「お前、いつか痛い目見そうだよな」
「……そうですね。ゆくゆくは処女ま――」
「――それ以上言ったら連れていかない」
冗談なのにー。先輩はシモい方面に耐性がないからなあ。
「……とにかく、明日はちょうど暇だったので仕方なく先輩に付き合ってあげましょう」
「うーん、残念だけど、明日は僕が無理なんだ」
「……先輩に予定があるとは思えませんが」
「君は本当に酷いな。とにかく、ええと、明日はダメなんだ」
怪しい。もしかして、また舞子眞唯子と遊びに行くのだろうか。二人で、娯楽施設に。……これ、デートじゃないの? あれ、もしかしてオフタリサンはお付き合いを……いや、いやいやいやいや、ない。あったら殺すし。うん、だって先輩はクラスメートと言ったもの。彼女なら彼女と明言するだろうから、大丈夫。今は全然問題ない。
「明後日なら大丈夫と思うけど、七篠は平気?」
「……はい。余裕っす」
退部届けってどうやって書くんだろう。まあ適当にやるか。無視しまくっとけば良いし。それよりも明後日かあ、楽しみだ。
「そういや、聞きたい事があったんだ」
「……何をですか」
「や、その、今日、七篠が明石つみきって人と会ったかなーって」
……明石つみき。忘れていた。奴に生徒会などとふざけた勧誘を受けていたっけ。
「……会いましたとも」
「あー、やっぱり。委員長張り切ってたもんな。生徒会がどうとか言ってなかった?」
超言ってました。
「……副会長の席を用意すると言われました。確か、先輩は会計だと」
「かなり無理矢理だよ。僕がそんな面倒な事をしたがる筈がないだろ」
「断ってしまえばよろしいのでは? 私はバッサリいきましたよ」
「そうしようと思ったんだけど、何か、何故か委員長には逆らえないんだよね……」
先輩は溜め息を吐く。憂いを帯びた横顔が素敵です。
「……そこで私を利用したと」
「う。人聞きが悪いなあ。まあ、でもそうなるか。ありがとう、七篠が断ってくれなきゃ、僕は生徒会なんて変に目立つポジションに就いてしまうところだった」
「……お礼なら、ああ、明後日に。何か期待しておきますよ」
「分かった。バームクーヘンとかで良い?」
「え、食べ物ですか」
嫌いじゃない。むしろ好きな部類には入るんだけど、だけどなー。ちょっとがっかりって言うかー。
「じゃあタイガーバーム」
本当に駆け引きを知らない人である。そこがたまらないんだけど。
「……何をしてくれるかは当日までの楽しみに取っておきます」
「あんまり期待して欲しくないなあ」
「いえ、します」
と、結構な時間話し込んじゃったかな。
「……先輩、私はそろそろ帰ります」
「ああ、引き止めちゃってごめんな」
「お気になさらず。お腹の減った親が待っていますからね」
ビニール袋を掲げて、少しおどけてみせる。学校での私なら、まずやらない所作だな。
「おばさん、元気?」
「…………え、ええ、まあ」
驚いた。よもや先輩が他人を気に掛けるとは。そういえば、何だか今日は話しやすいな。こう、バリアを張っていないと言うか、無防備である。ん、少し、変わったのかな。
「じゃあ、途中まで一緒に帰ろうか」
う、うお。どういう風の吹き回しだろう。いや、風が吹いているんだ。今まで向かい風が吹き荒れていた分、今日は何かが違う。追い風だ。とんでもないハリケーンサイクロンが私の背中を押している。
「……そうですね」
「久しぶりに七篠と話したって気がするな」
「……恋しかったですか?」
二人並んで歩き始めた。ばれないように、いつもよりもゆっくりと歩く。
「え、何が?」
「何でもないです。それより先輩、本当に生徒会には入らなくても良いんですか?」
「どういう意味?」
「……いえ、特に意味は」
人間とは変わっていく生き物なのだろう。私は、分からないけど、先輩は今変わりつつあるのかもしれない。とても良い意味で。好きな人が変わると言うのは喜ばしい事でもあり、置いていかれたようで、何だか悲しい気持ちにもなる。
先輩は以前とはまるで違う。別人、とまではいかないが、やはり雰囲気は柔らかくなった。
「……少し、変わりましたね」
「そうかな」
「そうです」
「だとしたら、多分僕は変わったんじゃないと思う。いや、少しは変わろうとも思ったけど、正しく言えば、僕はきっと変えられたんだよ」
舞子眞唯子と明石つみき、か。
そうか、私では先輩を変えるのは無理だったに違いない。変えようとも思わなかった。変えられるとも、変えたいとも思えなかったのだから。
「七篠は変わらないな」
「……ですか」
「うん。安心したよ」
安心?
「変わるってのはさ、いや、未だに自分が変わったかなんて僕には分からないけど。けど、やっぱり良い事ばかりじゃないんだと思うんだ。むしろ、僕にとっては悪い事だらけなんだよ」
「……はい」
「良い事が起こって舞い上がったり、悪い事に遭って沈んじゃったりした時に、自分の元いた位置って言うのか、本当に取るべきスタンス、なのかな。とにかく、そういうのを忘れたくないんだ」
先輩は立ち止まり、少しだけ、私と距離が開く。
「七篠はこの先ずっと変わらない方が良い、なんて、僕には言えないし、言わない。けれど、七篠がいて良かった。僕はまだ、僕を忘れられないでいられる」
――――ああ、やっぱり。
「……先輩、死ねば良いほど恥ずかしいです」
「こんなくだらない事は七篠にしか言わないよ。それじゃあ、僕の家ここだから」
「ふふ、知ってます」
やっぱり私は、この人が好きなのだ。