放課後
顧問に見つかったので、私は部活に向かう事にした。河原め、伝言なんかよこしやがって。これでサボるのが難しくなった。いや、これが狙いなんだろう。汚いな教師さすが教師きたない。
しかし、河原は汚いと言うよりかは綺麗な印象を受ける。生徒の扱いは平等だし、誰に対しても公平だ。公明正大。綺麗過ぎるくらい。別の言い方をすれば厳しい、か。常に無表情であるし、奴が感情を露わにしたのも見た事がない。怒るのは怒るのだが、平坦な口調で話すので掴みきれない。私は一学年で、河原は先輩が率いる二学年担当なので、部活動以外では殆ど会わない。
つまり、良く分からない。
河原が陸上部の顧問としてやってきたのは一週間ほど前の事だ。前任の顧問が何故だか突然辞めてしまったのである。顧問を、ではない。教師と言う職そのものを、だ。学期が変わった訳でもないのに、急に、突然と、いなくなった。男だから妊娠の線もないし、犯罪か? 何かに巻き込まれた? いや、少なくとも私が見たところ特に不審な点も見受けられなかった。さっぱり理由が分からない。ただ、いてもいなくても構わない存在だったのには違いない。
な、訳で、後任として河原が来た。彼女は部の顧問を受け持っていなかったらしく、暇だったから適任だったのだろう、と言うのが部の総意。同時に、早く消えろとも。
何しろ厳しいのだ。辛い、苦しい。単純に練習量が倍になっている。私ならともかく、他の奴がこなせるメニューではない。時間内に終わらせられなかったらペナルティも待っている。文武両道をモットーにしている河原が陸上部に課したペナルティは、プラス一点。この点数は中間試験で取らなければならない点数だそうな。練習をやり遂げられない奴のハードルが高くなっていくシステムになっている。最初は全員六十点からスタート。この時点で、全教科平均六十は必須。無理。これ、中間前にペナルティが百点を越える奴も出てくるだろう。どうするんだ本当に。
ちなみに、中間試験で課せられたノルマを達成出来なかった場合は……まだ知らされていない。部員たちの話を(盗み)聞く限りソープに沈められるとか臓器売られまくるとか。今日からヤのつく自由業かよ、アホらしい。
……まあ、悪い噂が流れるのも無理はない。この学校、特に何かしらの部に属する者の中では有名な話がある。部活潰しの鬼河原。去年廃部になった卓球部の顧問があの河原なのだ。とんでもないスパルタで、皆が皆辞めていったらしい。根性のない奴らめ。
まあ、私には関係ない。練習量が二倍三倍になったところで何とも思わない。それをこなすだけだ。そもそも、もう辞めるから関係ないしー? みたいな?
学校には部室棟と呼ばれる建物がある。何の事はない。部室を固めただけの施設である。ここには体育会系のごっつい男や女が出没する。私とは似ても似つかぬ醜男と醜女ばかり。いやいや、夏までには辞めたいな。汗臭い女は先輩に似合わないだろうし。
陸上部の部室は一階の奥まったところ。なので、柔道やアメフトのユニフォームを着た男どもの巣を横切っていかなければならない。最悪。最低。すれ違っただけで獣臭が鼻を突くし。ちょっとでも私に触れてみろ。一秒掛からずボコボコにしてやる。クレーターみたいな顔を全て平らにしてやる。私の肉に触れて良いのは先輩だけなのだ。
と、部室前に着いた。二つ扉があるが、私が開けるのは右。左を開ければ世にも奇妙な口にするのもおぞましいゲヘナが見られる。と言うか一度見てしまった。絶対に許さない。陸上部はもう女子だけで良いのに。
「…………」
無言で入室。先客が二人ほど。ちらりと視線を向けてくるが、それだけ。
部室は割と片付いている。散らかすほどのものがないのだ。背もたれのない、ベンチみたいな椅子とロッカーだけ。ホワイトボードやダンベルなどはあるが、使われているのを見た事がない。隅にまとめて置かれているだけだ。言うなれば、ただの更衣室である。着替える為だけの部屋なのだ。
さてと、向こうがシカト決めてきたので、こっちもシカトする。三年だろうが二年だろうが知らないし。早く生まれたのがそんなに偉いのか。悔しかったら私より早く走ってみろノロマ。
ユニフォームに着替えると、私はすぐに部室を出た。とりあえず部長を探さなければ。河原から伝言を預かっているのだ。任されたからには仕事をしなきゃ。
グラウンドに出てみると、
「いっち、に! さん! し!」
うるさい男がいた。
「ごお! ろく! しちっ、はち!」
ああ、嫌だ。そいつが陸上部の部長なのである。今から、こいつと話をしなければならないのか。果てしなく地獄だ。が、仕方ない。
数人の部員と一緒に準備体操をしている部長のところまで、だらだらと歩いていく。
「……あの」
「いっち、にぃ――お、おおっ、七篠君! どうしたんだい? はっ、まさか遂に君も一緒に準備体操を!?」
違うっつーのダラズが。
「……違います。あの、河原先生が――」
「良くないな! 準備体操は大切だよ!」
部長。長身。健康的に焼けた肌。笑顔でにっこり白い歯。明るく、元気だけが取り柄です。みたいな。男女問わず、彼はとても人気がある。
だが、私は嫌いだ。うるさいのは好きじゃない。とてつもなく声がでかいのだ。耳障り過ぎて気が違いそうになる。
「良いかい七篠君、君はとても素晴らしい才能を持っている! 陸上部の誇りだよ! だけどっ、そんな君だからこそ準備を怠って肉離れっなどとつまらないミスを犯して欲しくないんだ! 分かるかい!? 分かってくれるかい!?」
人の話を最後まで聞かないし、と、おい、おいっ顔が近い! ぶん殴るぞコノヤロウ!
「……分かりました。あの、河原先生から伝言を預かっています」
「んん! そうだったのか! すまないねっ! それでっ、河原教諭はなんと!?」
「……今日の練習は見に行けないかもしれない、と。用事があるそうです」
すると、部長は唸りながら腕を組み出した。
「ううん、そうか、いや、ありがとう七篠君。君も準備体操を始めたまえ」
私は頷き、こいつらとは離れたところで準備体操を始める。
さて、部長、何を困っていらっしゃるのか。いや、聞かなくても分かる。こいつは河原を指導者として気に入っているらしいのだ。何を隠そう、私以外に河原特製内臓殺しメニューをクリア出来ているのは、残念な事にこの部長だけなのである。彼は厳格な顧問を欲していたのだろう。良く聞き、良く学び、良く走る。陸上部員の鑑とも言える逸材なのだ。
一方、他の部員は喜びを隠し切れない様子である。そりゃそうだ、河原がいないって事は、誰がクリア出来たとか出来なかったとか分からないんだし、そもそも真面目にメニューに取り組まなくても良いじゃん、あラッキーとか考えているのだろう。
馬鹿が。
河原が見ていなくてもお前らの大好きな部長様がチェックするに決まってるだろう。
「七篠君っ!」
ん?
「…………はい?」
部長がこちらに駆け寄ってくる。こいつは常にガンダッシュなのだ。
「相談があるんだけど、少し良いかな!?」
「……構いません、けど」
「ここだけの話にして欲しいんだけどね!」
どうして私なんだろう。と言うか、お前は隠し事出来る声じゃないぞ。
「……ここだけの話なら、声を潜めた方が良いのでは?」
「んん! それもそうだね!」
分かってないし。まあ、良いけど。
「ん、んんっ。実はだね、今日の練習についてなんだけど」
私は視線だけで続きを促す。一々相槌などを打っていられるか。
「今まで通りのものにしようと思うんだ」
今まで? ああ、河原が来る前のものに戻すのか。
「先に言っておくよ。僕は河原教諭を指導者として評価している。んん、尊敬していると言っても良いかな。ともかく、僕は河原教諭を信頼している。あのメニューも、実に素晴らしい」
はあ。
「しかしっ、しかしだね! 皆が皆付いてこられるかと言えば話は別になるんだ!」
ほう、腐っても部長。気付いているのか。
「今までが楽だったのかもしれないっ、だけど急に苦しい思いをするのは誰だって嫌なんだ! だからっ、だからだね!」
うーん。今日のところは楽なメニューにしとこうってところかな。鬼のいぬ間に何とやら、か。悪くないんじゃないかな。
「……良いと思いますよ」
「そうか! 七篠君がそう言ってくれると心強い! 何せ、今日は僕以外の三年が殆ど塾に行っているからね。意見を求められる人がいなかったんだよ!」
ああ、それでここだけの話って奴なのか。まあ、確かに他の部員にとっちゃ一年がしゃしゃり出てると気に入らないもんね。くだらないプライドだとは思うが、私より劣っている人たちにとっては、早く生まれたってところだけしか威張れないから仕方ない。
「うん! それじゃあ今日は前のメニューで行く! 僕はそう決めたぞ!」
分かったから私の近くで大声を出すなっつーの。
「皆ーっ、集合だあああっ!」
ま、仕事は終わった。適当に走るとするか。
陸上部と一口に言っても、その活動内容は多岐に渡る。百、二百、四百メートルの短距離走。八百と千五百の中距離。それ以上の長距離。走り高跳び。幅跳び。棒高跳びに三段跳び。砲丸投げと円盤投げやり投げ。八種競技なんてものもある。が、とりあえず短距離と長距離に分かれていると言えば問題ない。ちなみに私は短距離。長距離でも何でも構わないのだが、さっさと終わるからこっちにしといた。
「七篠さーん、あと何周走れば良いのー?」
……どうしてこうなった。何が起こっている。何故、私がこいつらを引き連れて走っているのだ。いや考えるまでもない。あのクソ部長が提案したのだ。『短距離の指導は七篠君に任せるよ!』 と。
部長は長距離専門だ。なので、長距離の奴らを率いて学校の外周を走り回っている。で、残った奴らの世話を私が頼まれた。おかしくない?
「七篠さんってばー」
三年はいない。じゃあ二年でも良いだろうと思ったのだが、残念ながら二年の短距離はいなかった。サボりだろうな、多分。
「……二百」
「冗談きつくないかな!?」
「ふざけんな!」
こっちの台詞だ。足手纏いをカルガモの親よろしく引き連れている私の身にもなってみろ。
……私が下した指示は一つ。走れ、だ。面倒だし、他に何も思い付かなかった。今日は運動場が空いている。サッカー部はいるが、ゴール近くに座り込んでだらだらしているだけ。あっちも顧問がいないのだろう。グラウンドをただ走り続ける。一年どもにはちょうど良いメニューだろう。
「ねっ、ねえ、別の事しない?」
さっきからしつこく質問してくるのは、あれ、誰だっけこいつ。まあ、名前なんかどうでも良い。要はこの女が欝陶しいって事だ。
「私疲れちゃった。休憩しても良いよね?」
「おっ、じゃあ俺も!」
「自販機行こうぜ、バナナオレが死ぬほど飲みたい」
好都合だ。邪魔者がいなくなれば自分のペースでいける。
「……勝手にすれば」
「許しが出たぞー!」
「しゃああと一周行くか!」
まだ百もいってない内に休憩だあ? だからダメなんだこいつらは。私に追い付くのも不可能なら練習をクリアするのも無理に決まっている。盛り上がりやがって。痛い目見ろ。
「行こうぜー」
「何か飲みながら走るとかどうよ?」
グラウンドを抜け、ぞろぞろと自動販売機へ向かうカスども。ふん興味ないね。そいつらを横目に私は速度を――。
「何をしている!」
――上げなかった。
「今は練習中だ。勝手に抜け出そうとしているな、貴様ら。私が見ていないと思って好き勝手するな」
ガン見イヤッホォォーイ! ざまあ! ざまあみろ! 見つかってやがんの! 他人の不幸で今日も私のご飯が美味しい!
「部長はどこにいる?」
河原さんあざーす。さーて、私は怒られないように走っておこう。
「……いない? 勝手にメニューを変えたな。まあ良い。では、お前らに指示を出していた者を呼べ」
……雲行きが怪しい。おかしい、私は何もしていない。
「七篠だと? もう良い、話にならん。彼女を呼べ。お前らは筋トレ五セットが済んだら、部活が終わるまでグラウンドを走っておけ。早くしろ!」
ちょっ、ちょっ! そりゃないでしょう!
「七篠っ!」
ちっ。不様な表情をしたカスどもと入れ違いに、私は河原の元まで走る。
「七篠、君が指示していたのか?」
「……ジュースを買いに行けと言った覚えはありません」
「分かっている。だが、勝手にしろとは言ったそうじゃないか」
チクった奴誰だ。あとで体育館の裏に呼び出す。
「……私では手に負えませんから」
「君はまだ一年生だ。他者を率いるには若い。しかしだ、君は部長に任されたのだろう。中途で投げ出すような真似はするな」
任されたのではない。無理に押し付けられたのだ。
「私にも責任の一端がある。朝にしっかり伝えておけば良かった。が、私が見ていないからと油断したな。……部長はもう少しまとめてくれると思ったのだが、いや、そうか。それで七篠か……」
「……戻っても良いですか?」
何かぶつぶつ言いながら、河原は中指で眼鏡の位置を押し上げる。
「構わん。今日の事は不問にしよう。少し様子を見に来ただけだから、私は戻る。何かあれば職員室まで来るように」
「……分かりました」
「うん、頼んだぞ」
それだけ言って、河原は校舎に戻っていった。とんだとばっちりである。さて、気を取り直して走るとしよう。
そこからは特に何もなかった。黙々と走っていたら、部長ども長距離組が帰ってきたので、今日の練習は終わり。たまには汗を流すのも良い。部には籍だけ残しておいて、気が向いた時に走りたいぐらいだ。
「それじゃあ皆っ! 今日はお疲れさまだ! 明日も朝練頑張ろう! ああっ、車に気を付けて帰るんだよ!?」
最後の最後まで元気な奴だ。
ぞろぞろと、だらだらとしながら部室棟に戻る部員たち。私はしばらくの間、グラウンドに佇む。今戻ってもごった返しているから着替えづらいのだ。話し掛けられたら面倒だし。
「……ん」
ふと、嫌なものを感じた。振り返ると、段差の上から私を見下ろす黒い影。
「お疲れさま。見学させてもらっていたのだけれど、素晴らしいわ、あなた」
上から、上から話し掛けるな。
「……明石つみき」
長い黒髪、風に揺れ、さらさらと靡いている。くりくりとした猫のような瞳がこちらを捉えていた。
「あら、光栄ね。あなたのような有名人に名前を知られているなんて」
「……どの口で言いますか。次期生徒会長サマ」
明石はくすくすと笑いながら、一歩ずつ段差を下りてくる。誰もいない空間。私とこいつだけのグラウンド。吐き気がする。
「……用がないのなら消えてください。私は忙しいんです」
「そう邪険にしないで、悲しいわ。それに用事ならあるしね」
こいつが、私に?
「実はね、あなたには私を手伝ってもらいたいの」
「却下です」
誰がお前なんぞを助けるか。正気かこいつ。
「次期生徒会長、確かにその席を狙っているわよ。だけど、それだけじゃダメなの。私だけじゃ足りないのよ」
「……足りない?」
明石つみきは髪の毛をかき上げ、校舎に視線を向ける。
「生徒会よ。生徒会長、副会長、書記、会計の四人。私が生徒会長になったとしても、他のメンバーがアレだったら、ほら、どうしようもないでしょ?」
人好きのしそうな笑みを浮かべ、明石は指を一本立てた。うそ臭い。
「七篠歩さん、もう一度言うわね。あなたの身体能力は素晴らしいの。是非、いえ是が非でも副会長になってもらうわ」
「……副会長?」
頭おかしいんじゃないのか。いや、色々と言いたい事はあるが、よりによってどうして私なんだ。分かって言っているのか、こいつ。私が七篠歩と知っていて声を掛けてきているのか? と言うか副会長に身体能力が必要あるのか?
「困惑しているわね。ま、無理もないかしら。いきなり副会長だもん。降って湧いた僥倖、唯々諾々と享受するのは人間としての……」
「違います」
沸いてるのはお前だ。頭沸騰して脳味噌ぐちゃぐちゃになってんじゃないのか。
「……どうして、私なんですか」
「あなたの大好きな先輩から聞いたのよ」
「……!」
っの野郎。
「素晴らしい後輩がいるので、副会長に推してみてはどうか、ってね」
「嘘ですね」
「あら?」
嘘を吐くな。あの先輩が、私の好きな先輩が私の事を素晴らしいと手放しで褒める筈がない。大方、私と先輩が幼馴染と言うところに目を付けたのだろうが。
「……明石、先輩。あなたが先輩と仲が良いとは聞いています」
「聞いただけじゃなくて、実際見ていたものね」
黙れ小娘が!
「しかし、先輩は他者の意見に流され、他者との協力を良しとしない方の筈です。あなたが無理矢理に先輩を捻じ込み、丸め込んだのでしょう。私を生徒会に誘ったのは先輩の出した条件をクリアする為、違いますか?」
先輩ならばそんな面倒な事態を避けようと思うだろう。そこで条件を出した。『僕を生徒会に入れたいなら、七篠歩も誘う事が条件だ』、って感じかな。うん、それなら納得がいく。へへへー、良かったあ。先輩、私の性格とか覚えていてくれたんだあ。
「……へえ、脳筋だと思っていたけど案外頭も回るのね……おっとっと。近いんだけど、遠いわね」
「……はあ?」
「彼は確かに条件を出したわ。『七篠歩を生徒会に入れろ』ってね」
何が間違いなんだってんだ。
「あなたが考えているのと違っているのは、既に彼は生徒会の会計の席に座っていると言う事ね。あなたを指名したのは、そうね、緩衝材と言ったところかしら。彼も少しは気心の知れた人間がいた方が良いと思ったのね。もしくは道連れ、かしら? ふふふ、なんちゃって」
「……先輩が?」
馬鹿な。あの先輩が……?
「詳しい話はまた今度。返事は、今日はもらえるのかしら? ふふ、無理そうね。それじゃあ」
明石はそれだけ言うと、私に背を向けて歩き去っていく。颯爽と、悠然と、堂々と。もう、私には振り返らない。あのクソ女は前だけを向いて、進んでいく。
「……頭、痛い」
うう、考え過ぎは体に毒だ。とにかく、先輩に会わなきゃ。先輩に会いたい。