土曜日
何があったのだろうか。何が起こっていたのだろうか。
私はベッドの上で、今日の出来事について思いを巡らせる。反芻する。
………………ぐう。
目が覚めると、午後の八時を回っていた。私はベッドから下りて、洗面所に向かう。
「あ、あゆむー、ご飯食べないのー? 今日、お父さん遅いからー、早く洗い物を片付けちゃいたいんだけどー」
お腹、あんまり減ってない。
「走ってくるー」
「えー? 何よう、それ、今から?」
顔を洗って、ちょっと走ってお腹を減らそう。何だか今は食欲が湧いていないのだ。
家を出て、マンションの入り口に誰もいないのを確認し、ストレッチを始める。さて、どこまで走ろうか。折角だから先輩の家の周りをぐるぐる走ろうかな。で、会えちゃったり。話せちゃったり。うん。そうしよう。と言うか先輩と会えるまで外にいよう。
「……よし」
決意を声に出し、マンションの敷地内を出て、歩道に足を踏み出した瞬間、
「あれ、七篠じゃないか」
「…………どうも」
先輩と、出会えた。
「今から走るのか」
「いいえ、走りません」
「え?」
先輩は目を丸くする。
「……お話しましょう」
「え、いや、でも、こんな時間だし」
先輩は、まだ制服を着ていた。ちょうど、帰ってきたところなのだろう。明石つみきと二人して出かけた、その帰りなのである。
「……用事とは、何だったのですか」少し、嫌味な口調になってしまっただろうか。
「あ、ああ、その、大した事じゃないんだ」
そう言って、先輩は小さく微笑む。
「じゃあ、私はそんな、大した用事以下の存在なのですね」
「約束を守れなかったのは、ごめん」
「……いえ、良いんです」
何だか、気が重い。残念だ。あの占い師は、今晩、先輩に会えると言っていた。けれど、何が起こるのかまでは言わなかった。ただ、会えるだけ。それだけなんだ。
「……やっぱり、走ってきます。それでは、また」
「あの、さ」
「何ですか」
「僕、言い訳とかは好きじゃないんだ。だけど、良いかな」
言い訳?
「今日、僕は委員長……ああ、明石つみきさんと出かけていたんだ」
知っていた。知っていたが、いざ、先輩の口からそうなんだと聞かされて、落ち込んでいた気分がまた沈む。きっと、二人で楽しそうに歩いて、遊んでいたんだろう。本当なら、今日、そこにいたのは私の筈だったのに。
「……楽しかった、ですか?」
「いや、あんまり。遊びに行った訳じゃないから、何だか疲れちゃったよ」
「え?」
遊びに行ったんじゃないの? じゃあ、何か、本気だったとでも言うのか。明石つみきとは遊びじゃなく、本気の関係なのか!? よし殺す。もう殺す。絶対殴って蹴っ飛ばす。あの泥棒猫め、好奇心が過ぎたようだな。
「ほら、生徒会の選挙があるじゃないか。と言っても、まだ先だけど。それで、委員長が先生に話を聞いて、色々と仕事を引き受けたりしてるんだよ。今日もさ、そういう、何と言うのかな、見回りとして賑やかなところを回ってたから」
ゲームセンターや、ホテル街。阿呆な生徒が行きそうな場所。そこを回って、注意するなり、こっそり証拠を押さえるなり、教師に言いつけるなりしていたのか。
「……点数稼ぎですか」
「まあ、そうなるかな。無理矢理付き合わされちゃって。ごめん。僕、どうしても委員長には逆らえないんだよなあ。何でだろう」
「……はあ、つまり、遊びに行っていた訳ではなく、無理に点数稼ぎに付き合わされていたと」
「うん」
よっしゃあああああああああああ! やった! やったぞ歩! ほーらやっぱり、先輩を信じてて良かった! 流石は私の先輩である。明石つみきに騙されていた訳ではないのだ。聡明だなあ。先輩の頭脳は五臓六腑に染み渡るくらい素晴らしいなあ。もーう、こんなに私を脅かして。酷い人である。罪な人だ。許すけど。先輩になら何をされても良い。と言うかして欲しい。色々と。私のお粗末な語彙力や想像力では及ばないようなエロイ事をされたい。でも先輩は何事に対しても消極的なので、一緒にいるだけで幸せなのである。そう、隣に立っていられるだけで良いのだ。つまり、今、こうしているだけでも充分。満足感。幸福感。充足感。全てが得られている。最高である。いつ死んだって構わない。ひゃっほい人生。やったぜ七篠。愛しています先輩。まあ、アレだ。最初から分かっていた事である。変な女が出たり、小太りの男が出てきたりしてたけど、私にはちゃんと分かっていた。このエンディングが見えていたのである。ふ。ふはは。明石つみきがナンボのものか。あんな女狐に何が出来ると言うのだ。私と先輩はなあ! 小さい頃からの付き合いなんだ! あいつなんかに盗られてたまるか! ざまあみろ明石! ああ、楽しい。ああ、嬉しい。先輩は先輩なんだ。うん。いつまで経っても、根っこの部分は変わらない。変わったとして、私はそれを許容するのだろうけれど。ああ、抱き締めたい。抱き締められたい。こんな夜に出会えるなんて、恐ろしいくらいに運命的じゃないか。触りたい。触りたいなあ。ちょっとだけ。ちょっとだけなら。ああ、でもっ、先輩は私みたいな女が気軽に触れてはならないような! 神がかったような! と言うかもはや神様である! 先輩! 先輩! 先輩! せんぱい!
「……そうですか」
「そうなんだ」
「では、そうですね。許してあげましょう。死ぬほど感謝してください」
「ありがとう」
先輩は私から視線を逸らし、空を見上げた。ああ、決まってます、その仕草。
「でも、あくまで言い訳だから。約束を破ったのに変わりはないよ」
「……面倒な人ですね、先輩は。私が許すと言っているのですから、もう良いじゃありませんか」
「でもなあ」
「だったら、土下座でもしてくれますか」
私は空を見上げている先輩を見上げる。
「すれば、許してくれるのか」
うわあ。ぞくぞくしてきた。
「……先輩にはプライドと言うものがないようですね」
「犬に食べられちゃったよ」
「可哀想に。犬が」
「えっ、犬が?」
「……先輩のプライドなんて、食べさせられた犬が可哀想です。お腹を壊して今頃死んでます」
先輩は低く唸る。とは言え、そもそも彼の声はそこまで低くないので、何だか頑張っている風で渋さのかけらなど感じられない。そこが良い。
「七篠さんは僕の事が嫌いみたいだな」
「好かれていると思っていたんですか? ちゃんばらおかしいですね」
「ちゃんちゃら、な。でも、そうだな。どっちでもないと思ってるよ。勿論、今でも」
好きでも、嫌いでもない。どっちでも良いし、どうだって良い。先輩は、そういう人なのだ。
「……でも、デートは楽しみにしていますよ」
「ああ、それは僕もだ」
え? えっ、せ、先輩も?
「だってさ、一緒にどこかへ出かけるなんてなかったじゃないか。楽しみだよな」
「……どういう風に先輩が踊ってくれるのかが楽しみです」
「えー、そういう意味なの?」
あーっ鼻血出そう! 最高だ! 生きてて良かった! 早く時間経て! 日曜日早く来い! そしてそのまま時間よ止まれ! お願いだから時間よ止まって! 終わらない日曜日を! 私と先輩だけの世界をプリーズ! お願いゴッド! さのばびっち!
「では、私はそろそろ」
「ん。ああ、そうだな。じゃあ、また」
「ええ、また」
先輩の背中を見送りながら、私は叫び出したくなるのを堪えていた。
翌朝、目覚めは最高だった。嘘だった。実は一睡もしていない。私は昨夜の、先輩との逢瀬を思い出し、布団に包まって、枕を噛んだ。咽び泣きそうである。
「あゆむーっ、今日は部活があるんじゃないのー?」
ぎゃあ! 勝手に入ってこないでよ!
学校までの道のりをとぼとぼ歩く。そう。そうだった。今日は一日中、練習なのである。あーあ、部活辞めたい。でも、河原に脅されているようなものだし。私、これから先あのクソメガネの言う事を聞いて、顔色を窺いながら生活しないと駄目なのだろうか。まあ、嫌になったら辞めてしまおう。深く考えないのが生きていく上でのコツである。歩賢い。
「おっはよう!」
「……触らないで」
「えーっ! つれないなあ七篠さん」
朝から、最悪だ。私に触れようとしてきたのは、加古川シホである。こいつ、まだ息があったのか。
「昨日は酷いなあ、七篠さん。私、良く分からないんだけど置いていかれちゃったんだよね? 気付いたら、路地裏のポリバケツに頭から突っ込んでたんだけど。もう、友達なんだからツッコんでくれても良かったじゃない。『なんでやねーん』って」
死ね。
「……どうして、私の家の近くにいるの」
「決まってるじゃーん、待ってたからだよーん」
このストーカー女が。お前のような勘違いがいるからこの国が駄目になっていくんだ。
「今日はずーっと部活だねー」
何故か、加古川は嬉しそうである。生意気にも私の隣を歩こうとするので、距離を取ったり歩くスピードを変えたり蹴りを入れたりしてみた。
「邪魔者がいない訳だよ。ふふん、あの暗くて地味ぃなメガネさんたちがいないしー、今日はー、私が七篠さんを独り占めー。うふふふふ」
やっぱりやめとこうかな、部活。
「……その馴れ馴れしさ、どうにかならない?」
「友達なんだから、もっといちゃいちゃしようよう」
「友達じゃない」
私にそんなものいらない。
「じゃあ他人でも良いからいちゃいちゃ……ああ、やっぱり友達のが良い! 私たち、いつまでも友達だよね!?」
「……私と、あなたは、友達」
「うんっ」
「……友達なら、自殺してくれませんか?」
「すごい距離感だよ七篠さん!」
ああ、もう、うざい。
「それじゃあ! 今日も元気に頑張ろうじゃないか! だけどっ、水分補給はしっかりね! さあ、外周だ! 僕たちは午後からグラウンドを使えるからね! それでは河原教諭、行って参ります!」
「ああ、しっかり頼む」
部員たちの顔を見回す。皆、死にそうな表情だった。まだ、始まったばかりだと言うのに。これだから軟弱な奴らは信用出来ない。
「頑張ろうね、七篠さん」
私の横を抜けていく際、加古川が囁く。気持ち悪い。こいつは理由なんか必要ない。とにかく、信用出来ない。してはいけない。
加古川は他の部員と楽しそうに話を始めていた。アレは、奴の真の姿ではない。作り物のそれである。だが、堂に入っている。偽物の顔を張りつけて、随分と長い間慣れ親しんできたのだろう。もはや本物と変わらない。思わず、溜め息。私は知ってしまったのだ。いや、知らされたと言うべきか。何の因果か、加古川に気に入られてしまったのだからしようがない。いっそ、『こいつはこういう奴なんだ! 騙されるな!』 と何もかもをぶちまけてやりたい衝動に駆られるが、その感情をぶつける相手はいない。適当な奴を捕まえて洗いざらい喋ったとして、『あっそう。気持ち悪っ』と一蹴されるのがオチだろう。ムカつく。
ムカつく。
全部ムカつく。うるさい部長も、顧問も、部員も。何もかもが。
だけど、私はここから逃れられないのだとも分かっている。ああ、早く終わって欲しい。土曜日なんてさっさといなくなってしまえ。そしたら、明日は日曜日だ。先輩との楽しい時間が待っている。それまでは耐え抜け。頑張れ私。
頑張った、私。
部活が終わり、うるさい部長の話を聞き流し、加古川を部室に縛りつけ、私は駆け足で校門まで来ていた。さあ、後はゆっくり家に帰るだけだ。
というところで、嫌なものを見てしまう。……舞子眞唯子の姿である。彼女は誰かと話をしていたらしいが、そいつはどこかへ行ってしまった。残された舞子眞唯子は、所在なげに立ち尽くしている。制服姿であるのを見ると、彼女も部活をしていたのだろうか? でも、今まで観察していてもそんな風には見えなかった。補習か、何かだろうか? とりあえず、ムカつくので睨んでおく。奴もまた、私と先輩を邪魔するクソ蟲なのだ。明石つみきほど警戒する相手ではないだろうが、敵は敵。差別せず区別せず、平等に扱ってやるべきだろう。
ん? 舞子眞唯子が手を振っている。私は思わず振り返った。が、誰もいない。何だ、あの女、トチ狂っているのか? そう思ったのだが、どうやら、そうではないらしい。胸糞の悪い話だが、彼女は、私に手を振っているのだ。
面白い。私はそう判断した。一歩ずつ、悠然という言葉を意識しながら奴に向かっていく。
「あは、こんにちは」
「……こんにちは」
舞子眞唯子はアホみたいな笑みを浮かべていた。人を疑う事を知らないような、無垢なそれである。それだけで、死ぬほど腹が立った。こんな頭の悪そうな奴が、先輩に近づこうとしている。許せない。と言うか頭が良かろうが悪かろうが許せない。手加減などするものか。私に声を掛けたのが運のつきである。徹底的に苛め抜いて、その顔を醜く歪ませてやろうじゃないか。