第9話「秘密を抱えた若者」
冬の寒さが本格的になり、ほぐし庵にも少し早いクリスマスの飾り付けが施されていた。赤と緑のリースや控えめなイルミネーションが、訪れる人の心をほんのり温めている。陽菜はカウンターでホットココアを飲みながら、ひと息ついていた。
その時、ドアが静かに開いた。冷たい風が入り込むと同時に、見慣れた顔が現れる。
「水野くん! いらっしゃい!」
現れたのは21歳の大学生、水野涼だった。彼は陽菜に気軽に挨拶を返しながら、マフラーを外して施術室に向かう。
「いつもより早い時間だね。今日は授業ないの?」
「うん、ちょっと気分転換がしたくて。」
そう言いながらも、涼の表情にはどこか影があった。
施術台にうつ伏せになった涼の背中に触れると、陽菜はすぐに異変を感じた。
「水野くん、今日はずいぶん体が硬いね。疲れてる?」
「……うん、ちょっとね。」
いつもなら軽口を叩く涼が、今日は歯切れが悪い。陽菜は背中を押しながら、そっと声をかける。
「何かあった?」
「別に……大したことじゃないよ。」
「そう?」
陽菜はそれ以上問い詰めず、指先に集中した。涼の肩甲骨のあたりに固いしこりがあるのを見つけ、じっくりほぐしていく。その間、彼はぽつぽつと話し始めた。
「最近、ちょっと考えちゃうんだよね。俺、このままでいいのかなって。」
「どういうこと?」
「大学生活もあと少しだけど、就職のこととか、やりたいこととか……何も決まってなくてさ。」
「ふむふむ。」
陽菜は、彼の言葉を遮らずに聞きながら施術を続ける。
「このまま流されるようにどこかに就職して、それで終わりでいいのかなって……でも、やりたいことなんて特にないし、どうしたらいいかわかんないんだよ。」
涼の言葉を聞きながら、陽菜は自分の過去を思い出していた。大学を中退し、職を転々としていた頃の自分。あの頃も同じように、何も定まらず不安でいっぱいだった。
「ねえ、水野くん。」
「ん?」
「私も、昔は水野くんと同じだったよ。」
「え、そうなの?」
「うん。大学も中退して、フラフラしてた。何がしたいのかわからなくて、いろんな仕事を転々としてね。」
涼は驚いたように顔を上げた。
「でも、今はこうしてマッサージ師をやってるじゃん。それって、どうやって見つけたの?」
陽菜は少し考えてから答えた。
「たまたまだったよ。本当に、たまたま。ふと立ち寄ったマッサージ院で、この仕事を見て『これだ!』って思ったの。でも、それまでにたくさん迷ったし、失敗もした。」
「そうなんだ……。」
涼はしばらく黙って考え込んでいた。
施術が終わる頃、涼は急に口を開いた。
「陽菜さん、実は……俺、ずっと言えなかったことがあるんだ。」
「なに?」
「……俺、本当は、絵を描くのが好きなんだ。でも、それで食べていける自信がなくて……親にも、友達にも、誰にも言ったことがない。」
その言葉には、長い間心に抱えていた重みが滲んでいた。
「絵を描くの、好きなんだね。」
陽菜は優しくそう言うと、涼は少し照れくさそうにうなずいた。
「でもさ、好きなことなんて、やってみなきゃわからないよ。」
「でも……うまくいかなかったらどうするの?」
「失敗してもいいじゃん。だって、それが水野くんの人生なんだもん。」
陽菜の言葉に、涼は目を見開いた。そして、少しずつ表情がほぐれていく。
施術が終わり、涼は深く息をついた。
「ありがとう、陽菜さん。なんか、ちょっと気持ちが軽くなった気がする。」
「それはよかった! でも、これからが本番だよ。好きなことに向き合うのって、すごく大変だけど、すごく楽しいから。」
涼は頷きながら、ほぐし庵を後にした。その背中には、少しだけ自信が戻っているように見えた。
数週間後、陽菜の元に涼から小さな封筒が届いた。中には、一枚の絵と短い手紙が入っていた。
「陽菜さん、この前の言葉のおかげで、初めて自分の絵を誰かに見せる決心がつきました。これ、陽菜さんをイメージして描いた絵です。ありがとう。」
絵には、笑顔で施術をする陽菜の姿が柔らかいタッチで描かれていた。
「……水野くん、頑張ってるんだな。」
陽菜はその絵をそっと棚に飾り、再びほぐし庵の仕事に向き合うのだった。