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第8話「孤独を抱えた来訪者」

その日は冷たい雨が朝から降り続いていた。ほぐし庵の窓ガラスを伝う水滴を見ながら、陽菜は少し退屈そうにカウンターで帳簿をつけていた。いつもは賑やかな施術室も今日は静まり返っている。雨のせいで予約が何件かキャンセルになったのだ。

「たまにはこんな日もいいかもなぁ……」

つぶやきながら、お茶を入れようと立ち上がったその時、ドアが開いた。

「あの、やってますか?」

ドアの向こうには70代くらいの男性が立っていた。小柄で痩せた体型に、色あせたジャンパーが雨に濡れている。

「もちろんです、どうぞお入りください!」

陽菜は明るく声をかけ、すぐにタオルを手に取った。

「雨がひどいですね、傘はありますか? 乾かしましょうか?」

「いやいや、大丈夫だよ。」

男性は軽く手を振り、躊躇うように施術台に向かった。

「お名前を伺ってもいいですか?」

「佐藤……佐藤信次です。」

声に少し緊張が滲んでいたが、陽菜は笑顔を崩さず施術の準備を進める。信次が腰を下ろし、うつ伏せになると、陽菜は手を当てて体の状態を確認した。

「背中も腰も、かなり張ってますね。普段からずっと気になってましたか?」

「まあ、そんなところだな。歳を取るとあちこちガタがくるよ。」

信次の口調はどこかそっけなかったが、陽菜は慣れた手つきで会話を進めた。

「お一人でお住まいですか?」

「……そうだよ。妻に先立たれて、もう10年以上になる。」

陽菜は一瞬手を止めたが、すぐに優しく施術を続けた。

「そうなんですね……お辛いことも多かったでしょう。」

「まあ、慣れるもんだよ。けど、たまにこうやって体を動かしてもらわないと、やっぱりきついな。」

信次の言葉には少しだけ寂しさが混じっていた。

陽菜が背中を丁寧に押していくうちに、信次は少しずつ口を開き始めた。

「実はな……最近、昔の教え子から手紙をもらったんだ。」

「教え子さん? 信次さんは学校の先生だったんですか?」

「そうだ。中学校の数学教師をしてた。30年以上やってたかな。」

陽菜は興味深そうにうなずいた。

「手紙にはなんて書いてあったんですか?」

信次は少し考え込むようにしてから答えた。

「昔の自分を謝りたいって書いてあったよ。先生に迷惑をかけたこと、勉強を全然しなかったこと、全部後悔してるって。」

「へえ、それは素敵なお手紙ですね!」

「……だが、俺は返事を書けないんだ。」

信次の声は急に沈んだ。

「なんでですか?」

「謝ることなんて何もないんだ。あいつらはまだ子供だった。それを、俺がうまく導けなかっただけなんだよ。」

陽菜は手を止め、信次の言葉を静かに受け止めた。そして、ふと思いついて問いかける。

「信次さん、その教え子さんに伝えたいことがあるなら、何ですか?」

信次はしばらく黙っていたが、やがて絞り出すように言った。

「ただ……幸せでいてほしい。それだけだ。」

「それなら、それを書いて伝えたらいいんじゃないですか? お手紙って、書いた人にとってもらった人にとっても、すごく特別なものだと思うんです。」

陽菜の言葉に、信次は小さく笑った。

「そうだな……あんたの言う通りだ。」

施術が終わり、信次はすっかり体が軽くなったようだ。

「ありがとう。なんだか体だけじゃなくて、心も少し楽になった気がするよ。」

陽菜はにっこり笑って答えた。

「それが私の仕事ですから! もしお手紙を書くことになったら、また教えてくださいね。」

信次は少し照れくさそうにうなずき、ほぐし庵を後にした。

その後、信次は教え子に手紙を書いた。それは短いながらも、真心のこもった言葉だったという。

「幸せでいてほしい。ただそれだけを願っています。」

教え子から返事が届いたのは、その数週間後。信次はほぐし庵を再訪し、陽菜にその手紙を見せながら、照れくさそうに微笑んだ。

陽菜はそんな信次を見ながら、自分の仕事の意味を改めて感じていた。

「人の体だけじゃなくて、心にも触れられる仕事なんだな。」


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