第7話「ほぐし庵に吹く春風」
薄曇りの空の下、ほぐし庵のドアがいつもより少し強めに開いた。
「こんにちは!」
その声に陽菜は振り向き、すぐに目を細めた。ドアの向こうから、田中和也が恐縮したような笑みを浮かべて立っていた。スーツ姿の肩には少し緊張が滲んでいる。
「和也さん、今日はスーツ姿ですね!なんだか新鮮。」
陽菜は手にしていたタオルを畳みながら軽く声をかけた。
「いや、今日はちょっと大事な打ち合わせがあって……その後、急に肩がズシンと重くなったもんで。」
「なるほど、それじゃあいつもの肩こり、念入りにほぐさないとですね。」
施術室に通され、和也はスーツの上着を脱ぎながら話を続けた。
「実は、例の異動の話、正式に決まったんです。」
「えっ、そうなんですか?」
陽菜は背中をほぐしながら驚きの声を上げた。
「新しい部署に移ることになったんですけどね……正直、不安しかないですよ。」
和也の肩はいつも以上に凝り固まっている。陽菜が指で押しながら問いかけた。
「その異動って、和也さんにとって良いステップなんじゃないんですか?」
「うーん、確かにそうなんですけど。新しい部署は企画部で、今までよりクリエイティブな仕事を任されるんです。でも、自分がそんなにできるのか、正直自信がないんですよ。」
和也は苦笑しながら言った。
「そっか。でも、和也さんって、ほぐし庵でいつも話してくれる仕事の話を聞いてると、すごく責任感が強くて、ちゃんと考えて行動してるじゃないですか。それって、どこに行っても役立つんじゃないかなって思いますよ。」
陽菜は指圧を続けながら、ふと思いついて口を開いた。
「ねえ和也さん、『失敗したらどうしよう』って思うとき、どうしてます?」
「え? どうしてるって……それはもう、考え込むしかないですよ。頭の中であれこれシミュレーションして、どうやったらうまくいくかって悩むだけで。」
「それで、答えって出ます?」
「正直、出ないですけど……やっぱり考えずにはいられないんですよね。」
陽菜はふっと笑った。
「私が大学辞めていろんな仕事を転々としてたときね、同じように悩んでたんですよ。『これがダメだったらどうしよう』とか『次はうまくやれるのかな』って。」
「へえ、陽菜さんにもそんな時期が?」
「もちろんですよ。私なんて和也さん以上に自信ない人間でしたから。でもね、あるとき気づいたんです。」
「何に気づいたんですか?」
「失敗って、結構するもんなんですよ。」
和也は思わず笑った。
「そりゃそうでしょうけど、それでいいんですか?」
「いいんです。だって、失敗しないと分からないことってたくさんあるんですもん。失敗したらどうリカバリーするか考えればいいし、失敗することで次に繋がることもある。だから、怖がらずにやるしかないんです。」
陽菜の言葉に和也はしばらく黙っていたが、やがてポツリと呟いた。
「……陽菜さんって、本当に強い人ですね。」
「え? 私、強いかな?」
「うん、少なくとも僕よりはずっと強いです。」
和也の声にはどこか羨ましさと尊敬が入り混じっているようだった。
「いやいや、そんなことないですよ。でもね、和也さん、強さって、最初から持ってるものじゃないんですよ。私も患者さんや周りの人たちに支えられて、少しずつ強くなってるだけ。」
和也は少し考え込んだあと、ぽつりと呟いた。
「……僕も、強くなれるかな。」
「もちろん! 和也さんにはそれができると思いますよ。」
陽菜の明るい声に、和也は小さく笑みを浮かべた。
施術が終わり、肩が軽くなった和也がスーツの上着を羽織りながら言った。
「陽菜さん、今日もありがとう。少し気が楽になりました。」
「どういたしまして! 新しい部署、応援してますね。絶対うまくいきますよ!」
和也はうなずき、ほぐし庵のドアを開けた。外には雲間から差し込む明るい光が広がっている。
和也が去ったあと、陽菜はふと考えた。
(私だってまだまだ迷うことは多いけど、こうやって誰かの背中を押せるのって、ちょっと嬉しいな。)
少しずつ強くなりたいと願う和也の背中を思い浮かべながら、陽菜は自分もまた成長していると感じていた。