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第4話「動けない心」

朝の冷たい空気がビルの隙間を吹き抜け、「ほぐし庵」の看板がかすかに揺れていた。陽菜はいつものようにカウンターで掃除をしながら、今日の予約リストに目を通す。

「次は……水野涼さんか。」

21歳の大学生。前回、施術中にぽつりぽつりと語った言葉から、どうやら恋愛で悩んでいるらしいと察していた。肩と首が異常に固まっているのは、若さのせいというより心の問題に思えた。陽菜は、「今日は少し心をほぐせるといいな」と心の中でつぶやいた。

ドアが開く音とともに、涼が現れた。黒いパーカーのフードをかぶり、目を伏せたまま入ってくる。

「こんにちは、水野さん。寒かったでしょう?」

陽菜の明るい声に、涼は小さく頷くだけだった。

施術室に通され、涼がベッドに横たわる。前回と同じように、陽菜は首元から肩、背中へと手を滑らせていった。

「うーん、やっぱり硬いですね。相当、考え事してません?」

「……まあ、そうかも。」

涼の声は小さく、どこか投げやりだ。

「何かいいことがあったとか、逆にちょっとモヤモヤしてるとか?」

陽菜は軽い口調で問いかけるが、涼は少しの間黙った後、ため息をついた。

「別に……いいことなんてないです。」

その一言に、陽菜は微かな孤独感を感じ取った。

「そういえば、水野さんって大学生ですよね? 専攻とかって、どんな感じなんですか?」

陽菜が話題を変えようとすると、涼は少しだけ声のトーンを変えた。

「経済学部です。でも……正直、やりたいことが分からないんです。」

「そっかぁ。21歳って、未来のことを考えちゃう時期ですよね。」

涼は反応せず、ただ天井を見つめている。その横顔に、陽菜は微かに隠された感情の揺らぎを見た気がした。

「水野さん、最近気分が沈むことが多いですか?」

陽菜の問いに、涼は少し驚いたように顔を向けたが、すぐに目を逸らした。

「……はい。なんか、何をしても楽しくなくて。」

その声は小さいが、言葉を紡ぐ力がこもっているようだった。

陽菜は手を止めずに施術を続けながら、優しく問いかける。

「それって、例えば恋愛とかも関係あります?」

涼は一瞬体をこわばらせた。図星だったようだ。

「……まあ、そうですね。」

「そっかぁ。何か、うまくいかないことがあったのかな?」

「……うまくいかないっていうか、もう……無理なんです。」

涼の声が少し震えた。陽菜は黙ってその言葉を待つ。

「好きな人がいて。でも、その人に彼氏がいるんです。」

涼は言葉を絞り出すようにして続けた。

「告白もできないし、そもそも俺なんかがどうこうする話じゃないんです。でも、諦めるのも辛くて……どうしたらいいのか分からない。」

その言葉には、若さゆえの苦しみが詰まっていた。陽菜は一呼吸置いてから、静かに口を開いた。

「好きな人に、好きって気持ちを伝えられないのって、辛いですよね。」

涼は微かに頷いた。

「でもね、水野さん。たとえその気持ちが相手に伝わらなくても、自分の中で大事に持っておくこともできるんじゃないかな。」

「大事に……持っておく?」

涼は不思議そうに聞き返した。

「そう。恋って、うまくいくかどうかだけが全てじゃないと思うんです。今その人を好きだって気持ちは、水野さんにとってすごく特別なものだから。それを無理に諦める必要はないと思うな。」

涼はしばらく考え込んでいたが、少しだけ顔が柔らかくなったように見えた。

施術が終わり、涼は受付で会計を済ませた後、ふと陽菜に尋ねた。

「……桜井さんは、恋愛で悩んだこと、ありますか?」

陽菜は驚いた顔をしたが、すぐに笑みを浮かべた。

「私ですか? うーん、悩んだこともありますよ。でも、今は仕事が恋人かな。」

涼はその答えに思わず吹き出した。

「なんか、それっぽいですね。」

「でしょ? でも、水野さんの恋もきっと、これから何かの形でちゃんと実を結ぶと思いますよ。」

涼は小さく頷いた。

「……今日は、ありがとうございました。」

そう言って帰る涼の背中が、来たときより少しだけ軽く見えた気がした。

陽菜は窓から去っていく涼を見送りながら、小さくつぶやいた。

「若いって、やっぱりいいなぁ。あの悩みも、いつか懐かしく思える日が来ますように。」

冬の空気が澄み渡る中、ほぐし庵の一日が静かに過ぎていった。


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