第3話「背中に刻まれた過去」
冬の朝、冷たい風が都会の街を駆け抜ける。「ほぐし庵」の窓ガラスが曇り、外からはほのかに漏れる灯りだけが見える。陽菜は一人、カウンターで手帳をめくりながら次の予約を確認していた。
「佐藤信次さん……。」
先日初めて来た患者。70歳の初老の男性で、腰痛を訴えていたが、それ以上にどこか心に大きな重荷を抱えているようだった。陽菜はそのときの短い会話を思い出しながら、ふと深呼吸をした。
ドアベルが鳴り響く音に、陽菜は我に返る。
「こんにちは、佐藤です。」
重いコートに身を包んだ佐藤信次が現れた。少し猫背気味で、寒さに縮こまった様子だ。
「こんにちは、佐藤さん。どうぞお入りください。寒いですね。」
陽菜の明るい声に、佐藤は少しぎこちなく微笑んだ。
施術室に案内された佐藤は、準備を終えるとベッドに横たわった。
陽菜はタオルをかけ、腰から肩へと手を滑らせていく。
「前回よりも少し硬さが取れてますね。ご自宅でストレッチ、されました?」
「いや……あまり続かなくてね。」
佐藤の声は短く、それ以上何かを語る気配はない。
陽菜は軽い調子で続けた。
「まぁ、無理せず少しずつで大丈夫ですよ。でも、動かさないとやっぱり固まっちゃいますから。」
返事はないが、佐藤の体が微妙に緩むのを感じた。陽菜は施術を続けながら、慎重に会話の糸口を探った。
「佐藤さん、お仕事は何をされてたんですか?」
「教師だよ。高校の。」
短い答えだったが、その声には僅かな誇りが宿っているように聞こえた。
「先生! すごいですね。どんな教科を教えてたんですか?」
「国語だ。もう何十年も前の話だけどね。」
「国語かぁ、私、高校のとき、現代文が苦手で……。」
陽菜は思い出したように笑った。
佐藤はわずかに眉を動かしたが、それでも口元に笑みはない。
「先生って、すごくやりがいのある仕事ですよね。でも、やっぱり大変なことも多いんですか?」
佐藤の体が微かに硬直するのを、陽菜は指先で感じ取った。
「そうだな。人に教えるというのは、時に想像以上に重い。」
「重い……ですか。」
陽菜はその言葉を噛み締めるように繰り返した。
しばらく沈黙が続いた後、佐藤がぽつりと言葉をこぼした。
「……私は一人の教え子を救えなかった。」
陽菜は手を止め、佐藤の顔をそっと覗き込んだ。
「どういうことですか?」
佐藤は深い溜め息をつき、しばらく天井を見つめたままだった。そして、重い口調で語り始めた。
「あの頃、私は若かった。教えることに情熱を燃やし、生徒の未来を信じていた。でもある日、一人の生徒が学校を去った。理由も告げずに。私はそのとき、何もできなかった。」
「その生徒さんとは、それ以来会っていないんですか?」
「会っていない。もう何十年もだ。」
その声には、深い後悔が滲んでいた。
陽菜は施術を再開しながら、優しく語りかけた。
「佐藤さん、その教え子の方に、もし今会えるとしたら、何を伝えたいですか?」
「……謝りたい。私の至らなさを詫びたい。そして、あのとき、何を抱えていたのかを知りたい。」
「謝りたい……。」陽菜はその言葉を反芻し、少し考え込んだ後、提案した。
「佐藤さん、その教え子の方に連絡を取ってみることはできませんか? 今はSNSとか、同窓会のネットワークとかもありますし。」
佐藤は驚いたように目を開けた。
「今さら……遅すぎるだろう。」
「遅すぎるなんてこと、ないと思いますよ。」陽菜はにっこりと微笑んだ。「教え子さんだって、先生から声をかけられたら嬉しいと思います。」
佐藤はしばらく無言だったが、陽菜の言葉を真剣に受け止めている様子だった。
施術が終わり、佐藤は受付で会計を済ませた後、しばらく陽菜を見つめた。
「……ありがとう、考えてみるよ。」
その言葉には、微かだが前向きな響きがあった。陽菜は温かい笑顔で送り出した。
「またお待ちしてますね。佐藤さんの腰、次回はもっと楽にしてみせます!」
佐藤が店を出た後、陽菜はカウンターに戻り、小さく伸びをした。
「次に会うときは、少しでも肩の荷が軽くなっていますように。」
冬の日差しが「ほぐし庵」の窓から差し込み、陽菜の柔らかな笑顔を照らしていた。