第2話「母の背中、重なる想い」
「ほぐし庵」に昼下がりの柔らかな日差しが差し込む頃、陽菜は施術室の掃除を終えてカウンターに座っていた。ふと壁時計に目を向ける。今日は午後一番の予約が入っている。
「そろそろかな。」
陽菜がつぶやいたその時、ドアベルがチリンと鳴り、明るい日差しの中から一人の女性が姿を現した。
「こんにちは。予約した山本です。」
柔らかな声。だが、その笑顔にはどこか疲労の影が漂う。
「山本玲子さんですね。どうぞお入りください。」
陽菜は笑顔で迎え入れながら、女性の全体をさりげなく観察した。肩のラインはやや前に出ており、姿勢が崩れている。歩き方もどこか重そうだ。
「お疲れが溜まっている感じですね。」陽菜は柔らかく声をかけた。
玲子は薄く笑いながら、「はい、ちょっと……」と答えたが、その言葉に深い重みが感じられる。
施術室に通された玲子は、施術用の服に着替え、ベッドに横たわった。陽菜がタオルを掛け、まず軽く肩に手を置く。
「肩も張ってますが、腰もだいぶ辛そうですね。」陽菜が言うと、玲子は小さく頷いた。
「そうなんです。子供がまだ小さくて、抱っこや家事で腰にきちゃって……。」
「お子さん、いくつですか?」
「6歳と3歳。どっちも男の子で、元気いっぱいです。」
その声には愛情がにじむが、同時に疲労感も隠しきれない。
陽菜は親指を腰の周りに押し当てながら問いかける。
「旦那さんもお忙しいんですか?」
玲子の返事は少し間を置いてからだった。
「ええ、帰りも遅いし、休みの日も疲れて寝てることが多くて……。まぁ、仕方ないんですけどね。」
陽菜はそれ以上踏み込まず、腰から肩へと施術を続ける。
「山本さん、普段はどんなことをしてリフレッシュしてるんですか?」
陽菜が尋ねると、玲子は少し戸惑ったような声で答えた。
「リフレッシュ……あんまりそういうことしてないですね。子供の相手をしてると、自分のことは後回しで。」
「そうですよね。お母さんって本当にすごいです。私なんて自分のことだけでもいっぱいいっぱいなのに、山本さんはお子さんのことも家のこともちゃんとされてて……。」
玲子はふと目を閉じて、ため息をついた。
「ちゃんと……できてるのかなぁ。」
陽菜はその一言に玲子の本音を感じた。少し手を止めて、玲子の顔を覗き込むようにしながら声をかける。
「ちゃんと、ですよ。ここにこうして来てくれたのも、自分を大事にしようって思えた証拠じゃないですか。」
玲子は驚いたように目を開けた。そして、ほんの少しだけ笑顔を見せる。
「そうかもしれないですね……。」
施術が終わる頃には、玲子の表情は幾分穏やかになっていた。着替えを終えて受付に来ると、陽菜が笑顔で声をかけた。
「山本さん、今日はありがとうございました。お子さんの話、私も楽しかったです。」
玲子は少し照れたように笑いながら言った。
「こちらこそ、なんだか体も心も軽くなりました。ありがとうございました。」
陽菜は施術台の横に置いてあった紙袋を手に取り、玲子に渡した。
「これ、私が趣味で作った小さなアロマスプレーなんです。リラックスしたい時や、ちょっと自分をいたわりたいなって時に使ってみてください。」
玲子は目を丸くして受け取った。
「ありがとうございます。こんな素敵なものまで……。」
「ぜひまた、お話しに来てくださいね。私も聞いてほしいこと、いっぱいありますから。」
玲子はその言葉に微笑み返しながら、「また来ますね」と帰っていった。
玲子が去った後、陽菜はふぅ、と一息ついた。
「お母さんって、本当にすごいなぁ。」
受付でカレンダーを見つめながら、次に来る患者のことを考える。
玲子との会話を思い返し、陽菜は胸の中に小さな決意が芽生えていた。どんなに忙しい中でも、「自分を大切にすること」を忘れないように。そして、それを他の誰かにも伝えられる存在でいたい、と。