第18話「涼の迷い」
都会の空はどんよりと曇り、霧雨がほのかに降る朝だった。陽菜は開店準備をしながら、ふと窓の外を見やる。雨で人通りの少ない街並みが、どこか静かな映画の一場面のように感じられる。
「雨の日って、なんだか考え事をしたくなるよね。」
独り言をつぶやきながら、コーヒーを一口飲む。そのとき、入り口のドアが開き、ベルの音が響いた。
「こんにちは、桜井さん。」
低くて控えめな声が聞こえ、陽菜は振り返った。そこに立っていたのは、大学生の水野涼だった。
「涼くん! 久しぶりだね。元気だった?」
「まあ、ぼちぼちです。」
涼は少し無表情なまま、カウンターに近づくと、小さくため息をついた。
「どうしたの? 今日は肩こり? それとも、また心のほうが凝っちゃったかな?」
陽菜の明るい問いかけに、涼は微かに笑みを浮かべた。
「心のほう……かもしれません。」
涼は施術台に横になり、うつ伏せの姿勢をとった。陽菜は彼の背中に手を置き、ゆっくりと筋肉の状態を確かめながら施術を始める。
「肩、かなり張ってるね。最近、何かあったの?」
しばらくの間、涼は答えなかった。だが、陽菜が黙って待つと、彼はようやく口を開いた。
「就職活動のことを考えてるんです。もう3年生だから、そろそろ本腰を入れなきゃいけない時期で……」
「そっか。それで肩に力が入りっぱなしになってるのね。」
陽菜の声は柔らかかったが、涼はさらに沈んだ声で続けた。
「でも、自分が何をしたいのか、分からないんです。みんなは『これが夢だ』とか『こういう仕事がしたい』って言ってるけど、僕にはそんなのがなくて……」
「ふーん。じゃあ涼くんは、何をしたくないとかはある?」
思いがけない質問に、涼は少し驚いたようだった。
「したくないこと……?」
「そうそう。『これだけはイヤだ』とか、『これをしてる自分は想像できない』とか。」
涼は考え込むように黙り込んだ。陽菜はその間も肩甲骨周りを丁寧にほぐしながら、静かに待つ。
「自分の価値」を探す
しばらくして、涼が口を開いた。
「たぶん……大きな会社に入って、毎日遅くまで働くのは無理だと思います。性格的に、そんなに競争に向いてないし……」
「うんうん、それは分かる気がする。涼くん、どちらかというと、穏やかにじっくり物事を進めるタイプだもんね。」
陽菜の言葉に、涼は少し顔を上げた。
「そうなんです。だから、みんなみたいに『一流企業に入りたい』とか思えなくて……でも、それじゃダメなんじゃないかって。」
「うーん、難しいよね。でもさ、『一流企業』って涼くんにとって価値があるもの?」
「え?」
陽菜の問いに、涼は再び考え込んだ。
「涼くんにとって大事なのは、周りの基準じゃなくて、自分がどこに価値を感じるかだと思うよ。」
涼はその言葉をしばらく反芻するように黙り込んだ。そして、少しだけ弱々しい声で答えた。
「……自分の価値、か。」
施術を続けながら、陽菜はふと自分の過去を思い出した。
「私ね、昔は自分に自信がなくてさ。大学も途中で辞めちゃったし、いろんな仕事を転々として、『これが私の価値だ』なんて思えるもの、全然なかったんだよね。」
涼は少し驚いたように振り返った。
「桜井さんが……?」
「そうそう。でも、マッサージに出会ってから、少しずつ変わってきたの。誰かの体をほぐして『ありがとう』って言われるたびに、『これが私の役目なんだ』って思えるようになった。」
陽菜の声には、温かな確信が込められていた。
「涼くんも、きっと何かに出会うよ。自分がどこに価値を感じるかを見つけるのは、時間がかかることだから。」
「何か小さなことから」
施術が終わり、涼は少し軽くなった肩を回しながら立ち上がった。
「なんだか、少しだけ気が楽になった気がします。ありがとうございます、桜井さん。」
「どういたしまして。でもね、涼くん。たまには気晴らしも必要だよ。」
「気晴らし、ですか?」
「うん。真剣に考えるのも大事だけど、気を抜いてみないと見えないこともあるからさ。たとえば、趣味とか、ちょっとしたバイトとかで、好きなことを増やしてみたら?」
涼はその言葉にうなずいた。
「……そうですね。まずは、できそうなことから始めてみます。」
涼が「ほぐし庵」を出た後、陽菜は窓から彼の背中を見送った。その背中は来たときよりも、少しだけ軽く見えた。
「大丈夫だよ、涼くん。きっと、涼くんのペースで答えが見つかるから。」
そう呟く陽菜の目には、どこか母親のような優しさが宿っていた。
その日、「ほぐし庵」のドアベルがもう一度鳴り、新しい患者が訪れる。だが、陽菜の心の中では、涼の未来への応援歌が静かに響き続けていた。