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第17話「玲子の決意」

冬の冷たい風が吹く午後、陽菜は「ほぐし庵」の窓を磨きながら、通りを行き交う人々の姿を眺めていた。

「最近はますます寒くなってきたなぁ。肩や腰が張る人も増える季節だね。」

そんな独り言をつぶやいていると、入り口のドアベルが心地よい音を立てた。

「こんにちは、桜井さん!」

明るい声が店内に響き、陽菜は顔を上げた。そこには山本玲子が立っていた。

「玲子さん、こんにちは! 今日も寒い中、ありがとうございます。腰の調子、どうですか?」

「まあまあね。あのとき桜井さんに言われてから、少しずつ体を動かすようにしてるんだけど、無理しない程度にって言い聞かせてるわ。」

玲子の顔には少しだけ自信が戻ってきた様子が見える。だが、その瞳にはまだどこか迷いが残っているようだった。

「それなら良かったです!じゃあ、今日はその疲れをほぐしていきましょうね。」

玲子が施術台に横たわると、陽菜は彼女の背中に手を置き、じっくりと筋肉の状態を確認する。

「最近、何か楽しいこととかありました?」陽菜がさりげなく話題を振ると、玲子は「うーん」と考え込んだ。

「楽しいことね……。子どもたちが学校で頑張ってるのを見ると嬉しいけど、それ以外はあんまり思いつかないかな。」

玲子の声はどこか疲れていた。

「でも、この前の趣味の話、覚えてます? それで、久しぶりに昔好きだった編み物を始めてみたの。」

「編み物! いいですね。玲子さん、前に趣味がないって言ってたから、何か始められて嬉しいです。」

「そうなのよね。やってみると楽しくて、編んでる間は何も考えずに集中できるの。けど、やっぱり家のことも気になっちゃうのよ。」

陽菜は玲子の言葉に耳を傾けながら、腰から背中にかけて丁寧に指を滑らせていく。

「玲子さん、家のことばかり考えて、自分の時間を後回しにしちゃうのはもったいないですよ。」

「そうね……分かってるんだけど。でも、家族に迷惑をかけるんじゃないかって思うと、どうしてもね。」

玲子の声には、長年主婦として生きてきた中で染み付いた「責任感」が色濃く滲んでいた。

「玲子さん、もし迷惑だなんて言われたら、どうします?」

陽菜がふと問いかけると、玲子は一瞬驚いたように黙り込んだ。そして、少し困ったように笑みを浮かべた。

「それはないと思うけど……でも、夫に『そんな時間があるなら家のことをしてくれ』なんて言われたら、ちょっと嫌ね。」

「でも、玲子さんの幸せって、家族にとっても大切だと思いますよ。お母さんが笑顔でいられると、家の中も明るくなるっていうじゃないですか。」

玲子はその言葉を聞いて、ゆっくりと息を吐いた。

「そうね……でも、最近は夫ともあんまり話してなくて。桜井さんに言うのも何だけど、どこか心が離れてる気がしてるの。」

「話す時間、減っちゃったんですか?」

「ええ。子どもたちが小さい頃は一緒に子育ての話で盛り上がったけど、今は私が家のことを全部任されてて、夫は仕事ばかり。たまに顔を合わせても、テレビを見てるだけで終わっちゃうの。」

陽菜は玲子の背中に手を当てたまま、少し考え込んだ。そして、柔らかい声でこう言った。

「玲子さん、もしかしたら、ご主人も同じように悩んでるのかもしれませんよ。」

「え?」

「なんていうか、玲子さんが『家庭のことをやらなきゃ』って思うのと同じように、ご主人も『仕事で頑張らなきゃ』って思ってるだけかもしれないなって。」

玲子は陽菜の言葉をしばらく反芻するように沈黙していた。そして、小さくうなずいた。

「そうか……確かに、そうかもしれない。」

施術が終わり、玲子が立ち上がると、陽菜は笑顔で彼女に話しかけた。

「玲子さん、もしよかったら、ご主人と一緒に何か作業をしてみたらどうですか? たとえば、一緒に編み物とか。」

「夫と一緒に……編み物?」

「そう! 今は編み物が玲子さんの趣味なら、それを共有してみるのもいいかなって思って。」

玲子は目を見開き、しばらく考え込んだあと、少し笑った。

「夫がやってくれるか分からないけど、聞いてみようかな。」

「きっと、玲子さんが楽しそうに話したら、ご主人も興味を持ってくれますよ!」

陽菜の言葉に励まされ、玲子は肩の力を抜いて笑みを浮かべた。

その日、「ほぐし庵」を後にした玲子の背中は、来たときよりも軽く見えた。

玲子は家に帰る途中、スマートフォンで「初心者向け編み物キット」と検索を始めていた。

「夫と一緒に……やっぱり、少し勇気を出してみよう。」

玲子の中で小さな決意が芽生えた瞬間だった。

玲子が帰った後、店内に一人残った陽菜は、窓から夜空を見上げた。

「玲子さんが、自分の時間を見つけられるといいな。それに……ご主人とも、もう少し近くなれますように。」

その願いは、玲子への祈りであると同時に、自分自身への励ましでもあった。陽菜は、自分の未来に少しだけ希望を重ねながら、次の患者を迎える準備を始めた。


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