第16話「変わりゆく日々」
「いらっしゃいませ。」
陽菜の元気な声が「ほぐし庵」に響く。扉を開けて入ってきたのは、田中和也だった。スーツ姿で肩には鞄を提げ、少し疲れた表情をしている。
「田中さん、いつもより遅い時間ですね。」
「すみません、急な仕事が入っちゃって。予約、ギリギリになっちゃいました。」
「全然大丈夫ですよ。遅い時間に来てくださる方が増えたおかげで、私も夜型になりつつありますから。」陽菜が軽く冗談を言うと、和也は少し笑った。
いつもより小さなその笑顔が、何かを抱え込んでいるように見えて、陽菜は少し気になった。
施術室に入り、和也がスーツの上着を脱いで施術台に横たわると、陽菜は首元から肩にかけて手を滑らせた。
「いつもより張ってますね、ここ。最近、特に忙しいですか?」
「ええ、実は部署異動になりまして……。」
陽菜の手が一瞬止まる。「えっ、それは突然でしたね。」
「まあ、会社の都合なので仕方ないんですけど。新しい環境に慣れるのが、思った以上に大変で。」
和也の声は、少しだけ力を失っていた。
「新しい環境って、最初は誰でも緊張するものですよね。でも田中さんなら、きっとすぐに慣れると思います。」
「そう言ってもらえると、少し気が楽になります。でも、新しい部署はみんな若くて、僕なんか年寄り扱いですよ。」
陽菜はその言葉にくすっと笑った。
「田中さん、35歳はまだまだ若いですよ! むしろ、その年齢で培った経験って、チームにとって貴重なんじゃないですか?」
「そうですかね……。でも、毎日肩身が狭くて。」
和也の言葉の裏にある本音を探るように、陽菜はさらに力を込めて肩を押した。
施術が進むにつれ、和也は少しずつ言葉を継ぎ足していった。
「新しい部署って、企画開発の仕事なんです。前の営業とは全然違って、アイデアを出すのが求められるんですけど、これが本当に難しい。」
「アイデアを出す仕事、かあ。それは確かに、大変そうですね。でも、田中さんって人と話すのが上手だし、それを活かした企画を考えたら、すごくいいものができそうじゃないですか?」
和也は少し考え込んだ後、ぽつりと漏らした。
「でも、自分のアイデアなんて、大したものじゃないと思っちゃうんですよね。若い連中の方が、いつも斬新で面白いことを考えてるし……。」
陽菜は一瞬手を止め、和也の背中に優しく手を置いた。
「田中さん、若い人たちと競おうとしなくていいんです。今までの経験を活かして、田中さんにしか出せないアイデアを出せばいいんじゃないですか?」
「僕にしか出せないアイデア……。」
「はい。だって、35歳の田中さんだからこそ見える視点や価値観があるはずですから。」
和也は目を閉じ、陽菜の言葉を噛み締めるようにうなずいた。
和也が少し元気を取り戻した様子を見て、陽菜は話題を変えた。
「そういえば田中さん、最近お休みの日は何してます?」
「ん? 休みの日……特に何も。疲れ切って寝てるだけですよ。」
「それはもったいない! たまには自分を甘やかして、何か好きなことをしてみたらどうですか? 美味しいものを食べに行くとか、新しい趣味を始めるとか。」
「新しい趣味、かあ。いいアイデアがあれば教えてほしいですね。」
「趣味って、自分をリセットするためにも大事なんですよ。肩のコリだけじゃなくて、心のコリもほぐれますからね。」
陽菜の柔らかい声に、和也は「なるほど」とつぶやき、少し笑った。
施術が終わり、和也はスーツを着直しながら「ありがとうございました」と頭を下げた。その表情は、来たときよりも明らかに柔らかくなっている。
「田中さん、次に来るときまでに、新しい趣味をひとつ見つけてみてくださいね!」
「うーん、それも宿題ですか? まあ、考えてみます。」
和也は苦笑しながら扉を開けた。その背中には少し軽やかさが戻っているように見えた。
一人になった店内で、陽菜は片付けをしながら考えていた。
「自分を大事にする選択……か。」
田中和也に伝えた言葉は、どこか自分自身へのメッセージでもあるように感じられた。陽菜自身もまだ模索中の未来に向けて、立ち止まることなく進む必要がある。
「私にしかできないこと、かあ。」
そうつぶやきながら、陽菜は「ほぐし庵」の看板の灯りを消し、店を閉める準備をした。