第14話「新たなスタート」
静かな午後の「ほぐし庵」。冷たい冬の風が街を吹き抜ける中、店内には陽菜の流した軽やかなジャズの音楽が響いていた。施術台やタオルの整理を終えた陽菜がカウンターで一息ついていると、玄関の扉がカラカラと音を立てて開いた。
「こんにちは。」
現れたのは、子連れの山本玲子だった。
「山本さん、お久しぶりですね! 今日は息子さんも一緒なんですね。」
玲子の横にいるのは、小学校低学年くらいの男の子。玲子にそっくりな大きな瞳が印象的だ。
「最近、なかなか時間が取れなくて。でも、少しだけでも癒されたいなと思って……この子、静かに待てると思うから。」
「もちろん、大丈夫ですよ。絵本も置いてありますから。」
陽菜は微笑みながら玲子を施術室へ案内し、息子のために待合室の机に数冊の絵本を置いた。
施術台に横たわった玲子は、どこか晴れやかな表情をしているようだったが、陽菜が彼女の肩に触れると、その固さに驚いた。
「うわっ、またガチガチですね。前よりひどいかも。」
「そうかな。でも、前ほど重くは感じてないのよ。不思議ね。」
陽菜は首をかしげながら、丁寧に肩を揉みほぐしていく。
「でも、肩が悲鳴を上げてるのは事実ですから、少しは自分を労わってくださいね。」
玲子は小さく笑いながら、ぽつりとつぶやいた。
「最近、ちょっといろいろ変わったのよ。」
「変わった?」
「前に、桜井さんに言われて始めた趣味の教室、覚えてる?」
「もちろん! あのフラワーアレンジメントですよね。」
玲子はうなずきながら、少し照れくさそうに続けた。
「最初はただ気分転換になればいいと思って始めたんだけど……そのおかげで新しい友達ができたの。そして、その友達に誘われて、最近パートを始めたのよ。」
「えっ、パートですか? 山本さん、すごいじゃないですか!」
「いやいや、大したことじゃないのよ。近所のカフェでちょっとお手伝いしてるだけ。でも、働き始めたことで、自分の時間を持つ楽しさを改めて感じてね。忙しいけど、今は心地よい疲れなの。」
玲子の言葉に、陽菜は心から感動した様子でうなずいた。
「それは素敵ですね! 山本さん、前に来たときは『時間がなくて何もできない』っておっしゃってましたけど、すごい進歩じゃないですか。」
「ありがとう。でも、まだまだ不安も多いわ。家庭と仕事のバランスをどう取るべきか、時々悩むのよ。夫も最初は戸惑っていたみたいだけど、今は少しずつ理解してくれてる。」
玲子の声は少し疲れを含みつつも、確かな自信が感じられるものだった。
施術を終えた後、玲子が待合室に戻ると、息子が絵本を片付けながら陽菜に笑いかけた。
「おばちゃん、この本おもしろかった!」
「おばちゃん!?」
陽菜は驚きながら笑い声を上げた。玲子もそれにつられて笑う。
「もう、桜井さんはまだ若いんだから。ちゃんとお姉さんって呼びなさい。」
「だって……お姉さんはちょっと違う気がするんだもん。」
息子の無邪気な言葉に、店内は笑いに包まれた。
玲子が帰り支度をしている間、息子はふと陽菜に言った。
「お母さん、前より笑うことが増えたよ。」
陽菜はその言葉に胸が温かくなるのを感じた。
「そうなんだ。お母さん、今すごく頑張ってるもんね。」
「うん! 僕も、お母さんが楽しそうだと嬉しい!」
その純粋な笑顔を見て、陽菜は改めて玲子の変化を感じ取った。彼女自身が一歩踏み出したことで、周りの人にも良い影響を与えているのだと。
玲子がほぐし庵を後にした後、陽菜はカウンターで少しだけ立ち止まり、彼女の言葉を振り返っていた。
「自分の時間を持つ楽しさか……。」
陽菜はふと、自分自身の未来について考え始めた。毎日患者と向き合い、彼らの人生に寄り添う仕事は充実しているが、自分の夢や目標についてはまだぼんやりとしている。
「私も、もっと自分の時間を大切にしないといけないのかな。」
玲子の成長を見守りながら、陽菜は自分自身にも問いかけていた。
ほぐし庵の静かな空気の中、陽菜の心に小さな変化の芽が生まれ始めていた。