第13話「揺れる心」
冬晴れの日、ほぐし庵のガラス窓から差し込む陽射しが心地よく感じられる昼下がり。桜井陽菜が受付で整理をしていると、いつもの少し重たい足音が聞こえてきた。
「こんにちは。」
陽菜が顔を上げると、そこに立っていたのは常連客の田中和也だった。彼は肩に大きな鞄を提げ、疲れ切った顔で陽菜に微笑んでいる。
「田中さん、いらっしゃいませ! また肩が限界って感じですか?」
「そうなんだよ、桜井さん。最近また仕事が忙しくて……今日はたっぷりお願いします。」
田中の声にはどこか弱さが滲んでいた。陽菜はその声のトーンに気付きながらも、明るい調子で施術室に案内した。
田中が施術台に横たわると、陽菜はいつものように肩に手を置き、軽く押してみた。
「うーん、これはひどい。まるで鉄板ですね。」
「はは、そう言われると思ったよ。最近、部署の仕事が増えたせいでずっとデスクワークだし、会議の準備とかで肩がパンパンなんだ。」
陽菜は優しく力を込めながら、凝り固まった筋肉をほぐしていく。
「でも、仕事増えたんですか? 前も『忙しい』って言ってたけど、今度はさらに大変そうですね。」
「うん、実は先月、また異動を命じられてね……。それで新しいチームを任されることになったんだ。」
田中の言葉には、どこか自信のなさが混じっていた。
「新しいチームって、リーダーになったんですか?」
「まあね。でも、リーダーなんて性に合わないし……正直、なんで自分が選ばれたのかも分からなくてさ。みんなが期待してくれるのは分かるけど、それに応えられる自信がないんだよ。」
陽菜は手を止めずに話を聞きながら、小さくうなずいた。
「ふむふむ、なるほど。でも田中さんって、私から見るとすごく真面目で信頼されてる感じだから、上の人もそう思ったんじゃないですか?」
「……そうかな。」
「絶対そうですよ。あと、田中さんって話しやすいし、部下もきっと慕ってくれますよ。」
田中は目を閉じたまま少し黙っていたが、ふと笑い声を漏らした。
「桜井さん、いつもそうやってポジティブなこと言うよね。」
「だって本当のことですもん。」
陽菜は明るく返しながら、田中の肩の硬さが少しだけ和らいできたのを感じた。
「でもさ、リーダーになるってことは、自分より優秀な人間を束ねなきゃいけないってことでしょ? 自分にその器があるのかって、どうしても思っちゃうんだよ。」
「うーん……でも、器って生まれつきあるものじゃなくて、作っていくものだと思いますよ。」
「作る……か。」
「そう。例えば最初はうまくいかなくても、田中さんが一生懸命やってる姿を見たら、部下も『自分も頑張ろう』って思えると思うんです。」
「……そうかな。」
「そうですよ。田中さんみたいな人が真面目に頑張ってる姿って、すごく力をもらえると思うんです。」
陽菜の言葉に、田中は少しだけ目を開けた。その目には、かすかな光が戻り始めていた。
施術が終わり、田中は肩を軽く回してほっとした表情を浮かべた。
「やっぱり桜井さんにやってもらうと違うな。肩が本当に軽くなった。」
「それはよかった! でも、無理しすぎないでくださいね。」
「うん、ありがとう……本当に、桜井さんには感謝してるよ。」
田中はそう言いながら、一瞬だけ目を伏せた。
「私に?」
陽菜が首をかしげると、田中は少し照れたように笑った。
「いや、なんでもない。それじゃ、また来るよ。」
田中がほぐし庵を出ていく後ろ姿を見送りながら、陽菜は胸の奥に小さな違和感を覚えた。田中の言葉の中に、普段とは違う響きがあったからだ。
その夜、陽菜はいつものように日記をつけていた。田中和也について書きながら、彼の最後の笑顔が頭をよぎる。
「もしかして、田中さん……私に特別な感情を持ってるのかな。」
陽菜はペンを置き、窓の外の月を眺めた。
「そんなこと、あるのかな。」
自分に向けられるかもしれない好意。それは嬉しいような、でもどうしていいか分からないような、不思議な感情だった。
陽菜の中で揺れる心は、まだ答えを見つけられないまま、静かな夜が更けていくのだった。