第12話「新しい扉」
冬の冷たい風が吹き抜ける朝、ほぐし庵の小さな玄関を開けたのは、まだどこか緊張の色を隠せない若い男性だった。
「こんにちは。予約した水野です。」
「いらっしゃいませ! 水野涼さんですね。お待ちしてました!」
陽菜は明るい笑顔で迎えた。彼女にとっては初めての患者だが、名前はカルテで確認済みだった。水野涼。21歳の大学生。肩こりと首の痛みを訴えているという。
施術室に案内しながら、陽菜は涼の様子をうかがった。細身で色白の彼は、どこか頼りなげに見えたが、その目には何かを訴えかけるような切実さがあった。
「それじゃあ、リラックスして横になってくださいね。」
涼がベッドに横たわると、陽菜はまず肩を軽く触って筋肉の状態を確認する。
「うわぁ、これはだいぶ凝ってますね。学生さんって聞いてたけど、何か重たいものを持ったりするお仕事でもしてるんですか?」
「いえ、重いものとかじゃなくて……たぶん、パソコンですね。最近、卒論を仕上げるのにずっとパソコンに向かってたんです。」
「なるほど、それは大変だ。肩こりの原因のトップ3に入るやつですね。」
陽菜は冗談めかして言ったが、涼は苦笑いを浮かべるだけで、心ここにあらずといった様子だった。
少しずつ打ち解けて
施術を進めながら、陽菜は涼との距離を縮めようとゆっくり話しかける。
「卒論ってことは、もう大学4年生なんですか?」
「はい。今、就職活動もしていて……。でも、それが上手くいってなくて……。」
涼の声には疲れが滲んでいた。
「そっかぁ、大変ですね。でも、涼さんみたいにちゃんと頑張ってる人には、きっといい道が見つかると思いますよ。」
「……そうだといいんですけど。」
その言葉には、自信のなさと焦りが見え隠れしていた。
「就職活動って、いろいろ大変ですよね。私も一時期、仕事を探すのに苦労したことがあって。」
「桜井さんも?」
「そうなんですよ。私、実は大学を途中で辞めちゃったんです。それから色々な仕事を転々として……。だから、涼さんの気持ち、少しは分かるかもしれません。」
涼は驚いたように陽菜の顔を見上げた。
「え、でも今はこんなに楽しそうに仕事してるじゃないですか。」
「うん。そう見えるでしょ? でも、ここにたどり着くまでは結構長かったんです。」
陽菜はそう言って微笑むと、施術の手を少しだけ止めて涼の顔を覗き込んだ。
「涼さんも、今はちょっと迷子の時期かもしれないけど、大丈夫。ちゃんと自分に合った場所が見つかりますよ。」
その後も、陽菜の穏やかな会話に少しずつ心を開いた涼は、就職活動で感じているプレッシャーや、自分が周囲の期待に応えられないことへの不安を打ち明け始めた。
「親も、友達も、『どこかに決まればいいじゃん』って軽く言うんです。でも、自分にはそんなに簡単なことじゃなくて……。自分が本当に何をしたいのか、全然わからなくて。」
涼の声は震えていた。
「なるほど……。周りの声に押されちゃって、自分の気持ちがわからなくなっちゃったんですね。」
陽菜はゆっくりとうなずく。
「でもね、涼さん。就職活動って、社会に出るための『最初の扉』を選ぶ作業だと思うんです。でも、扉を開けた先にある道は、自分で変えていけるんですよ。」
「……どういうことですか?」
「例えば私、最初に選んだ扉は大学だったけど、途中で『違うな』って思って次の扉を探したんです。それで今はこの仕事に出会えて、やっと自分に合った道を歩いてるなって思います。」
「でも、失敗したらどうするんですか?」
「失敗したら、次の扉を探せばいいんですよ。」
陽菜の柔らかな声に、涼の目が少し潤んだ。
施術が終わり、涼が肩を軽く回すと、彼の顔に少しだけ明るさが戻っていた。
「肩がすごく軽くなりました。なんだか、気持ちまで少しスッキリした気がします。」
「それはよかった! 肩こりが軽くなると、考えも前向きになりますからね。」
涼は小さく笑い、施術室を出る前に振り返った。
「桜井さん、今日はありがとうございました。なんだか、もうちょっと頑張れそうです。」
「無理はしないでくださいね。でも、涼さんならきっと大丈夫ですよ。」
涼は少しだけ背筋を伸ばし、ほぐし庵を後にした。その背中には、少しだけ希望の光が差しているように見えた。
その夜、陽菜は日記帳を開き、「水野涼」という名前を記した。その横には、彼がどんな様子で、どんな悩みを話したかが書かれている。
「涼さんにも、いつか自分だけの道が見つかりますように。」
小さくつぶやいてから、陽菜はそのページを閉じた。
ほぐし庵では、今日もまた一人、心と体のコリをほぐされた人が次の一歩を踏み出したのだった。