第11話「常連さんの秘密」
冬の柔らかな陽光が差し込む昼下がり。「ほぐし庵」の小さな玄関が開き、常連の田中和也がいつものように姿を見せた。黒いスーツにコートを羽織り、手には小さな紙袋を持っている。
「こんにちは、桜井さん。」
「田中さん! いらっしゃいませ!」
陽菜はいつもの明るい笑顔で迎えたが、田中の顔には少し疲れが見える。いつもより肩が下がり、歩き方も重い。
「今日も肩が凝ってますか?」
「はい。仕事の資料をずっとパソコンで作ってたら、肩がバキバキで……。」
陽菜は田中を施術室に案内しながら、おしゃべりの準備を始めていた。田中は普段、仕事の愚痴やささやかな日常の話を楽しげに語るが、今日はどこか歯切れが悪い。
施術が始まる
田中がベッドに横たわると、陽菜はいつものように肩甲骨や首筋を丁寧にほぐし始めた。
「田中さん、最近また肩が硬くなりましたね。仕事、忙しかったんですか?」
「そうですね……年末が近いので、どうしてもバタバタしてしまって。」
田中の声は少し曇っていた。陽菜は、その曖昧なトーンに引っかかりを感じたが、無理に聞き出すのはやめた。施術を進めながら、少しずつ雰囲気を和らげていこうと考えた。
「そういえば、最近は忘年会シーズンじゃないですか。田中さんも参加されたんですか?」
「ええ、まぁ……でも、あまり楽しめなくて。」
田中の言葉に、陽菜は手を止める。普段の彼なら、同僚との楽しいエピソードを語ってくれるはずだ。
「何か、ありました?」
田中はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「……桜井さん。ちょっと、変なことを聞いてもいいですか?」
「どうぞ、なんでも聞いてください。」
「もし、自分の気持ちを伝えたい相手がいたら……どうやって伝えたらいいんでしょうか?」
陽菜は少し驚いた。田中が「気持ちを伝える」という話題を持ち出したのは初めてだった。
「田中さん、その相手は……特別な人なんですね?」
「ええ。でも、どうしても自信が持てなくて。もし拒絶されたらどうしようとか、迷惑をかけたらどうしようとか、そんなことばかり考えてしまって。」
田中の声には、不安とためらいが混じっていた。
「それって、田中さんがその人のことを本当に大切に思ってる証拠じゃないですか?」
「そう……なんですかね。でも、怖いんです。」
陽菜は少し考えた後、優しく語りかけた。
「田中さん、私の師匠が昔こんなことを言ってました。『人に伝えるべきことを伝えずにいるのは、自分の気持ちを否定することと同じだ』って。」
「……気持ちを否定する?」
「はい。たとえ結果がどうであれ、気持ちを伝えることで自分自身を肯定できるんじゃないかなって思うんです。もちろん、伝え方やタイミングも大事ですけどね。」
陽菜の言葉を聞き、田中はしばらく目を閉じて考えていた。そして、施術が終わる頃、ゆっくりと顔を上げた。
「桜井さん、少しだけ勇気が出た気がします。」
「それはよかったです! でも、無理しないでくださいね。田中さんらしく、ゆっくりでいいと思いますよ。」
田中は微笑みながら、小さな紙袋を陽菜に差し出した。
「これ、実は桜井さんに渡したくて……。」
「えっ、私に?」
袋の中には、可愛らしい紅茶のセットが入っていた。
「いつもお世話になってるお礼です。気持ちを伝える練習だと思って……受け取ってもらえますか?」
陽菜は目を丸くし、やがて嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「もちろん! ありがとうございます、田中さん!」
その日の夜、田中はいつものバーで一人飲みながら、小さな決意を胸に秘めていた。彼がほぐし庵を訪れる理由は、肩こりだけではない。陽菜に会える時間が、彼の日常に彩りを与えていたのだ。
「次はもう少し踏み込んでみるか……。」
田中は小さな声でつぶやき、グラスを傾けた。
一方、陽菜は紅茶を手に微笑みながら、田中の思いやりに心を温めていた。
「これからも、少しずつお手伝いできたらいいな。」
ほぐし庵の灯りが消える頃、街には優しい静けさが広がっていた。