第10話「一夜限りの訪問者」
冬の夜、冷たい雨が窓を叩く音が静かなほぐし庵に響いていた。いつもは閉店間際になるとどこか寂しい雰囲気が漂うのだが、この夜は特に静まり返っている。カウンターで伝票整理をしていた陽菜は、ふと時計を見た。午後8時45分。
「もうすぐ閉店だね……今日は静かな一日だったなぁ。」
陽菜は小さく伸びをすると、施術室の片付けを始めた。すると、入口のベルが控えめに鳴った。
「えっ?」
この時間帯に客が来ることは珍しい。陽菜は慌ててカウンターに戻り、入口に立つ女性に微笑みかけた。
「こんばんは! いらっしゃいませ。どうぞお入りください。」
ドアをくぐったのは30代半ばと思われる、スーツ姿の女性だった。髪は濡れたままで、細身の体には疲れがにじみ出ている。
「すみません、予約なしでも大丈夫ですか?」
「もちろん! どうぞこちらへ。」
陽菜は慌ててタオルを手渡し、雨に濡れた髪を拭くよう促した。
施術室に案内すると、女性はスーツの上着を脱ぎ、ソファに腰を下ろした。背筋をピンと伸ばし、きちんとした印象を与えるが、顔にはどこか緊張感が漂っていた。
「お名前をお伺いしてもいいですか?」
「……川村です。」
名乗った後、川村は少し黙り込んだ。そして、声を絞り出すように言った。
「実は、初めてこういう場所に来たんです。」
「そうなんですね。でも、気軽にリラックスしてくださいね。体の調子が悪い部分とか、気になるところがあれば教えてください。」
川村は少し迷った後、ため息をついた。
「肩と首がすごく凝っていて……それと、頭もずっと重い感じがして。」
「なるほど、肩首周りですね。お任せください!」
陽菜は温かな声で答えながら、準備を整えた。
川村がベッドに横たわると、陽菜は首から肩甲骨にかけて優しく触れていった。
「うわっ、すごく凝ってますね。お仕事、相当忙しいんじゃないですか?」
「……そうですね。」
短い返事。その後も、陽菜が何気ない話題を振っても川村は曖昧に笑うだけで、会話は途切れがちだった。
「今日の雨、寒かったですよね。」
「……ええ。」
普段なら患者の悩みや思いが自然と溢れてくるこの空間で、川村の沈黙は異質だった。陽菜は話を続けるべきか迷ったが、次第に彼女の体に現れる緊張感の方が気になり始めた。
施術が進むうち、川村の硬直していた体が少しずつ緩み始めた。陽菜が肩甲骨周りを丁寧にほぐしていると、彼女がぽつりと言葉を漏らした。
「私……失敗したんです。」
「失敗?」
「仕事で、ずっと頑張ってきたプロジェクトがあったんです。でも、それが大失敗に終わってしまって……」
川村の声は震えていた。陽菜は施術の手を止めず、彼女の言葉に耳を傾けた。
「責任者だった私は、みんなの信頼を裏切ったんです。それに……上司からも叱責されて……自分が何のために頑張ってきたのか、わからなくなりました。」
「そうだったんですね。」
「今日は、家に帰りたくなかったんです。どうしても、この気持ちをどうにかしたくて……だから、ここに来ました。」
陽菜はしばらく考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「川村さん、頑張ったんですね。」
「……え?」
「結果がどうであれ、何かを一生懸命やるのって、本当にすごいことだと思いますよ。でも、その頑張りが報われないと、苦しいですよね。」
川村は涙ぐんだ目で陽菜を見た。
「私も、昔はうまくいかないことばっかりでした。失敗もたくさんして、自分が嫌になることもありました。でも、そんな時に思うんです。『失敗したのは、まだやり直せる証拠だ』って。」
「……やり直せる、証拠?」
「はい。一度きりの人生、どんな形でも自分の物語を書き直せますよ。」
施術が終わる頃、川村の顔には少し穏やかな表情が戻っていた。
「桜井さん、ありがとうございます。少し気持ちが軽くなった気がします。」
「そう言ってもらえると嬉しいです。でも、無理せず、少しずつ進んでくださいね。」
川村は深く頭を下げて、ほぐし庵を後にした。その背中には、わずかながら希望の光が見えた気がした。
数日後、ほぐし庵に一通の手紙が届いた。それは川村からの感謝の手紙だった。
「先日はありがとうございました。あの日、桜井さんに背中を押してもらい、上司と話し合いの場を持ちました。まだすべてが解決したわけではありませんが、少しずつ前を向いて進めそうです。」
手紙を読み終えた陽菜は、そっと微笑んだ。
「またいつでも来てくださいね、川村さん。」
冷たい雨の日に訪れた一夜限りの患者。けれど、その訪問は、彼女の新たな一歩の始まりになった。