第1話「肩の重み、心の重み」
朝9時を少し過ぎた頃、「ほぐし庵」のドアベルがチリン、と軽やかに響いた。陽菜は施術室の準備をしながら、その音に顔を上げた。
「おはようございます、田中さん。今日も肩ですか?」
入り口には、スーツ姿の男性が立っている。いつものようにネクタイは少し緩められ、右肩に斜めがけのビジネスバッグが食い込んでいる。
「おはようございます、桜井さん。ええ、肩というか、もう肩甲骨がバキバキでしてね……」
35歳の田中和也。ここ半年ほど、週に一度は訪れる常連だ。仕事のストレスで凝り固まった肩と、心の愚痴を解すのが、彼の「ほぐし庵ルーティン」らしい。
陽菜はにっこり笑い、受付台の裏からカルテを取り出した。
「じゃあ、いつものベッドでどうぞ。今日は背中も念入りにやりましょうね。」
田中が施術用の服に着替え、うつ伏せになると、陽菜はその肩に手を置いた。力を込める前に、軽く触れるだけで分かる。肩甲骨の周りがまるで岩のように硬い。
「うわぁ、今日はいつも以上にお疲れですね。仕事、相当忙しいですか?」
陽菜が指を滑らせながら問うと、田中は苦笑いを返した。
「いやぁ、来週から新しい部署に行くことになったんですよ。急に決まった異動で、もう引き継ぎと準備で毎日バタバタです。」
「へぇ、新しい部署ってどんなところなんですか?」
陽菜は肩甲骨の内側を探りながら尋ねた。田中は少し間を置いて答える。
「営業部です。ずっと総務でやってきたから、現場なんて全然慣れてなくて。正直、不安しかないですよ。」
その声には、ほんの少しの自嘲が混じっていた。
陽菜は一瞬、手を止めた。田中の言葉に何かを感じたのだろうか。だが、すぐに再び施術を続けながら、軽い声で返す。
「うーん、不安なのは当然ですよね。でも、営業部って言ったら、たくさんの人に会えますよね。田中さんって、話すの上手そうだから向いてる気がしますけど。」
田中は短い笑い声を漏らした。
「いやいや、そんなことないですよ。桜井さんみたいに自然に話せるタイプならいいんですけどね。僕はどうしても緊張しちゃうから。」
「でも、田中さんって、ここではいつも楽しそうにお話ししてくれるじゃないですか。」陽菜の指が背中の筋肉をぐっと押す。「もしかして、営業部でも、きっとそういう感じでやれるんじゃないですかね?」
「ここでは……」
田中は少し考えるように呟いた。
施術が終わり、田中が再びスーツ姿に戻る頃、陽菜はカウンター越しに笑顔を浮かべて言った。
「田中さん、肩甲骨のコリ、だいぶ取れましたよ。でもやっぱり、バッグを右肩だけにかけるのは気をつけたほうがいいです。」
「ああ、気をつけます。今日は、なんか肩も軽くなったけど、気持ちも少し軽くなった気がしますよ。」
田中は財布を取り出しながら言った。その目に宿る疲労感が、ほんの少し和らいでいるように見えるのは陽菜の気のせいではないだろう。
「それならよかったです。また来週も、いつでもお待ちしてますよ。」
陽菜の言葉に、田中は少し照れくさそうに頷いて帰っていった。
陽菜はふぅ、と息をついて受付の椅子に腰を下ろした。ドアベルの音が遠のいていくのを聞きながら、先ほどの施術を思い返す。
「営業部かぁ……大変そうだけど、田中さんならきっと大丈夫。」
彼女の脳裏に浮かぶのは、少し照れくさそうに笑う田中の顔。
患者の肩をほぐしながら、時に心もほぐせたら。
陽菜はそう考える自分が少し誇らしい気持ちになった。
次の患者が来るまでの短い時間、陽菜は窓から差し込む陽射しを眺めながら、少しだけ未来のことを考えていた。