手段は選びません!
ルルーシェラは裕福な男爵家の次女である。
ただし両親から愛されていない。正確には母親の男爵夫人から。
父親の男爵に似て平凡な容姿のルルーシェラを嫌い、母親は自分にそっくりな美しい長女だけを盲愛していたのだ。
父親は、心から溺愛する妻である男爵夫人の言いなりだったので幼いルルーシェラは寂しく辛い毎日をおくっていた。
そんなルルーシェラを、祖母である前男爵夫人が見るに見かねて自分の館に引き取ってくれたが、そのことにより益々母親はルルーシェラを毛嫌いするようになった。
現男爵夫人の母親と前男爵夫人の祖母の仲が最悪だったからだ。
前男爵夫人は優秀で真面目だった息子である男爵が、沼にはまるように妻をひたすら溺愛する姿に疑問を持っていた。重度の恋愛脳になっていただけであるが、伝説の魅了ではないかと疑ったほどだ。
一方、現男爵夫人は男爵家の実権を握ったままの前男爵夫人の存在が疎ましかった。
結果として姑と嫁はお互いを目の敵とするようになり、修復不可能なほど憎しみを向ける仲となってしまったのだった。
「ルルーシェラ、わたくしは心配なのです。わたくしの死後、あの両親が貴女に良縁を捜してくれるかどうか……。ああ、王国では婚約を結べるのが15歳からだという制度が恨めしい。せめてわたくしが存命のうちに貴女に誠実な婚約者を決めてあげたいのに……。もしかすると貴女の夫は平民となるやも知れません」
深く憂いた祖母はどこへ嫁いでも大丈夫なように、ルルーシェラに高度な淑女教育から掃除や洗濯や料理などの下女の仕事まで幅広く教えたのだった。
そしてルルーシェラが14歳の時に祖母が亡くなり。
ルルーシェラの希望により、他家に奉公に出ることとなった。男爵家にいると母親から虐げられる可能性があったからだ。
「この度は侯爵家に職を見つけて下さり感謝いたします、男爵様」
もはや自分を父親とは呼ばなくなった娘に男爵は複雑な表情をした。
若い頃は美しい妻に夢中で、妻の言うがままに男爵は唯々諾々と従いルルーシェラを放置してきたが、歳月を重ねて冷静になり後悔ばかりをしていた。おそらく自分の血を引く娘はルルーシェラのみ。今ならば亡き母親の言葉が理解できる。結婚6ヶ月で産まれた長女は確実に自分の娘ではない。
だが、さんざん冷遇されてきたルルーシェラはすでに父親を、家族を見限っていた。
「身体を大切に。たまには手紙を書いておくれ」
後ろめたい罪悪感が冷ややかな悔恨となって男爵の胸を貫く。
「困ったことがあればこの父に言うんだよ」
「……男爵夫人がお怒りになられますよ?」
「アレとは離縁する。アレは早産だと言ったが医師は満期産だと。産まれた赤子は三千グラムもあったのだ、6ヶ月の早産の赤子の体重ではない──診断証明書も残っている。熱に浮かされたようにアレに夢中になり、アレを信じたが。アレもアレの娘も追い出すことにした」
もはや男爵夫人と長女の名前を口にするのも厭わしいと眉間に皺を刻む男爵に、ルルーシェラは溜め息をついた。今さらだ、と。祖母も周囲も忠告を繰り返したのに聞く耳を持たなかったのは男爵だった。
「だから働きに行かずにこのまま屋敷にいて、ルルーシェラは婿をとっ」
男爵の言葉を遮り、ルルーシェラは机の上にあった紙を一枚手に取った。
「いただいてもよろしゅうございますか? 男爵様」
「あ? ああ」
「ゴミ、カス、ブサイク、ノロマ、シネ、デキソコナイ、産まなければよかった、何十度も髪を引っ張られました、何十度も打たれました、何十度も蹴られました」
ルルーシェラの一言ごとに紙がグシャグシャと丸められていく。
そうして、すっかりグシャリと丸くなった紙をルルーシェラは男爵に渡した。
「ひろげてみて下さい」
意味がわからず戸惑うが、男爵は紙をゆっくりとひろげた。紙はしわくちゃで元のピンとした綺麗な状態に戻らなかった。
「一度傷付けられてしまったら元通りなんて無理なんです」
ハッとして男爵はルルーシェラを見て、紙を見た。
男爵は暴言や暴力を振るわなかったが、ルルーシェラを助けることもしなかった。無視をしていた。
男爵はガックリと項垂れて、
「……すまなかった……」
と呟いた。
王国では家長の権限が強い。男爵に反対されてしまった場合ルルーシェラは奉公に出ることはできないが、もう男爵はルルーシェラを引き留めることはしなかった。
ルルーシェラは男爵から窓へ、窓から庭に視線を流した。
まだ花は咲いていなかった。
もうじき開花する好きな花を見られずに屋敷を出ることだけが残念だった。
青い空の下、かつて一度だけ父親がルルーシェラを抱き上げてくれたのは、あの花が一面に咲いている中であったから。
こうしてルルーシェラは筆頭侯爵家の新人侍女になったのだが。
「お前の仕事は、こいつの世話だ」
と、執事に連れて行かれたのは侯爵家の片隅にある小さな古い別館だった。
そこには痩せ細った無表情の青い瞳の男の子がいた。
「名前はダリオン。死なせないくらいの世話でいい。侯爵家から死者など出したら、お優しいアンジェラ様が悲しまれるからな。食事は本館に取りにくるように。それと別館から抜け出そうとするならば、こいつの足を折ってもかまわない」
吐き捨てるように指示をだして執事が部屋から出ていく。
ダリオンの世話を侯爵家の使用人たちが嫌がり、新人のルルーシェラに押しつけたのだ。
ダリオンは侯爵家の次子である。
それなのに執事はダリオンを見下した態度をとり、口調も蔑んでいた。
思考が惑乱した。あんぐり。ビックリである。ルルーシェラは思わず目をみはって執事の背中をまじまじと凝視をする。
ルルーシェラはわけもわからず混乱したが、ひとつ息を吐くとまず仕事を優先することにした。
「はじめまして、ダリオン様。今日からダリオン様の侍女としてお仕えすることとなったルルーシェラと申します」
礼儀正しく頭を垂れるルルーシェラにダリオンは諦めの視線を向けた。
別館に閉じ込められて以来、ダリオンに礼をとる使用人はいなかった。最初は丁寧に接してくれた新人の使用人も、すぐにダリオンに罵声を投げつけるようになった。
(この娘も僕をじきに罵るようになる)
しかしダリオンは、もう何年間も誰かとロクロクしゃべっていなかった。
誰かと話したかった。
人が恋しかった。
寂しかった。
とてもとても寂しかったのだ。
だから少しの間でも──ルルーシェラと会話をしたかった。
「……よ、よろしく……」
「はいっ!」
即答するルルーシェラをダリオンは眩しげに目を細めた。
ルルーシェラはぐるっと部屋を見回した。
酷い状態だった。
部屋も。
ダリオンも。
部屋は清掃されておらず劣悪な環境だった。至るところに埃が溜まり、カビ臭く鼻につく異臭が漂っている。
ダリオンも清潔にされておらず放置されていたのだろう。長く伸びた髪はもつれて絡まり、一部は固まり堅くなっていた。体臭は酸っぱいような饐えた匂いを放っている。服は黄ばんだボロ布みたいで穴が開いていた。何よりも明確な栄養失調で手足はガリガリに細く、頬はゲッソリと痩せこけて肌色は青白く、唇は乾いてひび割れて血が滲んでいた。
虐待されている?
自身も経験があるダリオンの状態に、ルルーシェラは眉根を寄せた。すばやく仕事の手順を頭の中で組み立てる。
「ダリオン様。少しお部屋でバタバタと動きますがお許し下さいませ」
ルルーシェラは別館の中を走り回った。
部屋はダリオンのいる部屋と空き部屋、残りの部屋は壁や屋根が崩れて使えなかった。小さな台所とトイレとお風呂。どこも汚れて空気が澱んでいた。
「あった!」
ルルーシェラは掃除道具を発見して歓声を上げた。コップと水入れも。
部屋の窓を開けて換気をし、別館の外にある井戸で生活用品を洗浄する。
「ダリオン様。喉が渇いていませんか? お水です」
洗ったコップに濁っていない水。
「……水、澄んだ水なんて久しぶりだ」
嬉しそうにダリオンが水を口にふくむ。
「お食事をもらってきますね」
パタパタとルルーシェラが走り去る。ダリオンはルルーシェラを追う未練がましい視線を伏せた。
(戻ってこないかも知れない。戻って来ても僕を……いたぶるようになっているかも……)
厨房に入るとルルーシェラは近くにいる料理人に尋ねた。
「ダリオン様のお食事はどちらにありますか?」
「はぁ!? あの出来損ないに食事? そんなものはないよ!」
料理人は顔を歪ませて目を吊り上げる。
「あんなのが兄だなんて。輝かしいアンジェラ様の人生に大きな汚点だよ! 早く死んでしまえばいいのに!」
ガッッ!!
ルルーシェラが靴を鳴らした。
「この侯爵家の主は侯爵様です。侯爵様がダリオン様を飢え死にさせよと命じられたのですか?」
それはない、とルルーシェラは推察した。あの執事は、死なせないくらいの世話と言ったのだから。
「い、いや、違うけど」
「では、ダリオン様のお食事を用意して下さい」
「用意って……。以前の侍女たちは、あそこから適当に持っていってたぞ」
料理人が指差したのはゴミ箱であった。
ルルーシェラの顔に怒りが弾ける。
「残飯を与えよ、と誰が命令をしたのですか? 侯爵家の正統なるお血筋に。料理長ですか? 執事長ですか?」
うろたえ、料理人が不安に目をギョロギョロさせる。
「だって、だって、あいつは面よごしだ。麗しいアンジェラ様の瑕疵にしかならない……」
とボソボソ言うが、ダリオンのための料理をつくるとは言わない。
ルルーシェラは少し考えて使用人の賄い飯のシチュー鍋の前に立った。
「では、これをいただいても良いですか?」
「ええ!? それは俺たちの飯だぞ!」
「いただいても良いですよね?」
繰り返すルルーシェラの圧が凄い。否やは許さぬ口調だった。
「好きにしろよ!」
やけくそのように叫ぶ料理人に、ルルーシェラがにっこり微笑んだ。
「はい。好きにします」
ルルーシェラは配膳ワゴンに鍋はもちろん大量のパンに果物、フォークにスプーンに皿を載せていく。別館には料理道具も食器もほとんどなかったので、アレコレと厨房から奪ったのだ。後で執事長に怒鳴られる確率が高いが、その時はその時である。
「ありがとうございました。いただきますね」
ルンルンと足取り軽く厨房から出ていくルルーシェラの後ろ姿を、料理人は唖然と見送ったのだった。
「お待たせしました。お食事です」
にこにこ顔で戻ってきたルルーシェラにダリオンは涙が滲みそうになった。
しかもルルーシェラは、残飯ではないきちんとした温かい食事をテーブルに並べてくれた。
ごくりと喉が鳴る。
「お食事が終わりましたら、お身体をお清めいたします。準備をしてきますね」
ダリオンが食事中もルルーシェラは猛然と働いた。本当は主人の食事中は側に控えているべきだが、やることが山積みにあるのだ。汚れまくった風呂場でカビと戦い、井戸から水を何度も往復して運ぶ。重労働である。
皿を空っぽにして満足げな息をしているダリオンにルルーシェラが、
「申し訳ありません、ダリオン様。お髪を整えてもよろしゅうございますか?」
と眉を下げる。
ダリオンの髪は、長い間洗髪していなかったために皮脂汚れが固まり厚い蠟のようになっていた。
「うん。お願い」
よろよろと立ち上がったダリオンの右足が湾曲している。
歩き方もぎこちない。
ルルーシェラは風呂場までダリオンの手を握ってゆっくりと歩いた。
ルルーシェラには髪を専門家のようにカットする技術はないが、手入れされることなく腰下まで伸びた髪を洗って乾かしやすい短さまでジャキジャキと切る。固まっているので硬い。
それから頭皮を温め蒸らして丁寧に洗髪をした。なかなか泡が立たず、湯も真っ黒になったが何度も優しく洗う。
次に身体だ。
最初は14歳の娘らしく羞恥心があったルルーシェラだが、羞恥心などぶっ飛ぶダリオンの汚れ具合にひたすら手を動かした。
湯上がりの古傷だらけの細い身体をバスタオルで包みながらルルーシェラは、
「ぽかぽかだ……」
と微笑むダリオンに、涙を溢さないように目尻に力を入れて下唇を噛んだ。
ダリオンの微笑みの下に隠れる哀しみが、底の見えない深淵を覗きこむようにルルーシェラは深く感じとれてしまって、泣きそうになった顔をルルーシェラも笑顔で隠す。
境界線のこちら側とあちら側。
人によって境界線も立つ位置もそれぞれだ。
理解することと受け入れることが違うように、ルルーシェラの知っていることが全ての事実ではなく真実でもないが。
ダリオン様に誠心誠意お仕えしよう、とルルーシェラはこの夜に決心したのだった。
翌日は大掃除である。
拭いて、拭いて、拭いて。
掃いて、掃いて、掃いて。
その間にダリオンが自分のことをポツリポツリと語ってくれた。
ダリオンには6歳上の兄と2歳下の妹がおり、家族の仲は良好であった。
侯爵家の次子として使用人にかしずかれ、王国有数の魔力量を所有して、将来を期待されていた──9歳までは。
ダリオンの妹のアンジェラは、我が儘の仕放題に育った。両親も周囲もアンジェラに異常なほど甘かったのだ。
心配性の両親は誘拐などを警戒して幼少時からアンジェラを囲い込み、外部と徹底的に接触をさせずに深窓の令嬢として育てた。アンジェラも実社会から隔離された教育を受けていたので、それを当然と思い、いつか白馬の王子様と結婚するのだと無邪気に夢を見ていた。
妹は幼いからと思っていたダリオンであったが、アンジェラの自分の思い通りにならなければ気が済まない性格に、ある時苦言を呈した。アンジェラの将来を思って。
「お兄様なんて大嫌いっ!」
両親は激怒して、ダリオンを別館に放り込んだ。使用人たちも手のひらを返したように冷たくなり、ダリオンは狼狽した。理由がわからなかったからだ。
翌日、困惑したダリオンは別館の窓から父親の姿が見えた時、
「お父様っ! 僕、何か悪いことをしてしまったのでしょうか!?」
と別館から出てしまった。
「近寄るな! 穢らわしい!」
父親の侯爵はダリオンを虫けらのように見て、魔法をぶつけてダリオンの右足を折ったのである。
ダリオンの右足は手当てもされず曲がってしまった。
「おまえは弟ではない」
と兄は別館の一部を魔法で壊した。
「ゴミグズ」
「穀潰し」
「無能」
「アンジェラ様の足手まとい」
「アンジェラ様の汚点」
と使用人たちはダリオンを行動で貶め虐げて口から刺々しい毒を垂れ流し、食事すら運んでこなくなる日が続いた。
9歳のダリオンは逃げ出すこともできなかった。ましてや足が湾曲して歩行も人並み以下となっては……。
「僕、今14歳なんだ……」
同年齢の14歳なのにルルーシェラよりも小さく細いダリオンの告白に、ルルーシェラはぎゅっと拳を握った。
実は、ルルーシェラは今日の朝食を厨房に取りに行った時に料理人たちからの敵視を浴びて身の危険を感じていた。
なので誰か味方になってくれる者はいないか、とこっそり活動をしていたのだ。
普通に話していた者も、ルルーシェラがダリオンの侍女だと言うと途端に敵意を向けてきた。ゆえに単なる新人と名乗って情報を集めたのだが。
ダリオンは使用人全員から嫌悪されていた。ダリオン本人と面識のない洗濯女や下男すらもダリオンを口汚く罵った。聞くに堪えない罵詈雑言だった。
そして同じ口で、ダリオンの妹のアンジェラを褒め称えるのだ。
ルルーシェラはゾッとした。神経を掻きむしられたみたいに頭の芯がガンガンと苛まれた。
ルルーシェラも辛酸を舐めた。
母親の支配する男爵家で。
使用人は主夫妻の顔色をうかがってルルーシェラに手を差しのべてくれることはなかったが、同情や憐憫の眼差しを向ける者は数人いた。
しかし侯爵家では全員がダリオンに対して嫌悪感と不快感を露にして、全員がダリオンを敵対視しているのだ。
しかも全員が漏れ無くダリオンの妹のアンジェラの虜となっている。
尋常ではない。
まるで呪いのよう、と考えてルルーシェラはハッとした。
祖母は、真面目な息子の男爵が人格が変わったように恋愛脳になり妻に骨抜きにされて、呪いではないか魅了ではないか、と調べたことがあった。その知識をルルーシェラにも教えてくれていたのだった。
魅了持ちは周りを精神誘導できる能力があるのだ。
「あの、ダリオン様。アンジェラ様は魅了の能力者ではないでしょうか……?」
ルルーシェラは自分の推論をダリオンに伝えた。ダリオンも相槌を打ちながら聞く。
「魅了保持者が最後に現れたのが200年前だから、まったく予測と言うか思考と言うか、知識の範囲外だったけれども」
ジグソーパズルの失った最後の1ピースを発見したみたいに。
「うん。納得できるよ。そうか、アンジェラの大嫌いが原因だったのか……」
「でも、僕は無力だな」
ようやく開けたパンドラの匣だが、厄災だけで希望の欠片は残っていなかった。
「僕が訴えても誰も聴いてくれない。姿を見せるだけで今度こそ父親に殺されるかも。侯爵家の外でも……頼れる相手もいないし、ダメだろうな。魅了は伝説みたいなものだ、嗤われるだけだろう」
虚しさにダリオンは呪詛を吐きたくなったが、ルルーシェラは唇を綻ばせた。
「よかったです。他の人たちみたいにダリオン様を誹謗中傷するようになったらどうしよう、と思っていたので原因がハッキリしているのならば、それを避ければ大丈夫ですよね」
ルルーシェラが明るく笑う。
「アンジェラ様を徹底的に回避するべし、ですね! でも、ダリオン様にはアンジェラ様の魅了が効かなかったのはどうしてでしょう?」
「たぶん、僕の魔力量が膨大だったからだと思う。けれど僕、9歳で幽閉されたから魔法の基礎の魔力循環と魔力制御しか習っていなくて、肝心の魔法が使えないんだ」
「お任せ下さいませ、ダリオン様。私は祖母の幅広いスパルタ教育を受けております。魔法学も中級まで修めました」
「え? ルルーシェラ、教えてくれるの?」
「はい。住み込み侍女兼家庭教師になります」
「住み込み?」
「空き部屋に。本邸は危ない感じがするのです。本邸と接触する機会をなるべく減らして、食事も別館で私が作ろうと考えています。ダリオン様、よろしいでしょうか?」
「僕はルルーシェラが側にいてくれるのは嬉しいけど。食費とかのお金はどうするの?」
ぽん、とルルーシェラがお腹を叩く。
「ここにあります。祖母が遺産を遺してくれました。取られないように腹巻きにして肌身離さず持っております」
「ダメだよ。それはルルーシェラの大切なお金だ」
「では出世払いで。ダリオン様が魔法使いになられれば高給決定ですから」
こうしてルルーシェラは、侍女2日目に別館住み込みとなったのだった。
本邸からの叱咤や介入があるかも、と身構えていたが厄介払いとばかりに具体的な関わりはなかった。ダリオンを嫌っている本邸の面々は僅かな関与すら疎ましかったのだろう。ほんの時々、執事が様子を嫌そうにチラリと見にくるだけだった。だが、それはルルーシェラとダリオンにとって歓迎すべき事であった。
ルルーシェラとダリオンの14歳の春は。
ダリオンの身体に肉をつけ体力をつけることを目標とした。
雪が雨に変わり、氷が解けて水となり、水が草を育てて花を咲かせて。
「ルルーシェラ、裏庭に菫が咲いているよ。草がぼーぼーで庭師もいないのに」
庭の片隅に紫色の小さな塊があった。菫の花だ。隣にはたんぽぽの陽溜まりがある。
「はい、綺麗ですね。あ! あそこの草、食べられる草ですよ。摘んできます。夕食が一品増えました、市場でお肉も買ってきてありますからいっぱい食べて下さいね」
14歳の夏は。
生きている骸骨みたいだったダリオンの顔がふっくらとして、身体も健康的になって。
「ダリオン様。素晴らしいです。魔力循環と魔力制御が神業レベルです」
「9歳から外に出られなかったから。本とか娯楽とか何もなくて。時間を過ごすために魔力循環と魔力制御ばかりしていたんだ。僕が飢え死にしなかったのは、魔力で肉体の消費エネルギーを補っていたからだと思う」
若葉が生い茂り青葉の香りを吹き送る風は、空からなのか山からなのか海からなのか。地に降りた風が木々の梢を揺り動かし、葉を通り抜けた光が眩しい。
「樹木の影が涼しいね。休憩をしよう」
「緑陰と木漏れ日がダンスをしているようですね。うふふ、侯爵家の皆様は愚かですね、こんなにも優秀なダリオン様を蔑ろにするなんて」
14歳の秋は。
地上では草花に露が宿り、冷たい霜が降り始め。
天空では清く澄んだ月が美しく、微光の星々が淡い雲のように夜空を横切り地平線の下まで没して。
「金木犀の香りがするよ。どこかで咲いているのかな」
「夜でも香るのですね。はい、温かいお茶です」
芳しい花の香りとお茶の香りが鼻腔を通り抜けていく。
「ルルーシェラと一緒に飲むお茶は美味しいな。ずっとルルーシェラとお茶を飲みたい」
「まぁ、嬉しい。私もです」
「僕は真剣に言っているんだけど」
ルルーシェラはきょとんとすると、みるみる耳を赤くする。
「あの、それって……」
「出世払いのルルーシェラのヒモ男だけど、浮気は絶対にしないと誓うしお金も必ず稼げる男になるから。僕、ルルーシェラが好きなんだ」
いつもの足の補助のために手をつなぐのではなく、蝶々の翅のようにソッとダリオンがルルーシェラの手をとる。
「ルルーシェラ、愛している」
蕩けた表情なのに双眸はギラつくように真摯なダリオンに、ルルーシェラは耳だけではなく顔まで真っ赤にしたのだった。
14歳の冬は。
「冬苺、冬菊、冬木立、冬菫、冬珊瑚、冬の草、冬芽、冬紅葉、冬薔薇、冬林檎、冬って侘しい季節みたいですけれども、ちゃんと花も咲いていますし果物も美味しいですし、雀はふくふくして可愛いふくら雀ですし、樹氷は透明に輝いて綺麗ですし、たくさん素敵なところがありますね」
「そうだね。でも僕は、その全てをあわせたものよりもルルーシェラが綺麗で素敵だと思うよ」
と、雪が少し降り雪が多く降り、日の長さが短くなり長くなっても毎日ダリオンはルルーシェラをこいねがって。
ルルーシェラの意識も、仕える主から一途に恋を捧げてくれる少年のダリオンに変わって。
ダリオンの身長が急激に伸びて目線が等しくなり、目を合わせるのが恥ずかしくも嬉しい、そんなダリオンとルルーシェラになっていた。
そして15歳になったルルーシェラとダリオンの再びの春は。
「ダリオン様。私、父の男爵と和解をしようと思っています。私とダリオン様の未来のために。このまま侯爵家にいてもダリオン様に将来も幸福もないと愚考するのです。ダリオン様、男爵になりませんか?」
ルルーシェラの提案にダリオンも頷く。
「魔法も中級まで使えるようになったから、外で富裕な平民並みに暮らせる仕事に就けるけど、万一侯爵家からの妨害があれば平民なんてイチコロだ。侯爵家と男爵家では力関係で弱いけど、爵位があると平民みたいに問答無用に処分されないから対策を講じられるし」
でも、とダリオンの口調が地を這う。
「ルルーシェラの父親は、ルルーシェラを……」
「はい。正直に言って、将来のためでも父親との和解には割り切れない気持ちがあります」
ルルーシェラは真っ直ぐにダリオンを見た。
「ただ、今がタイミングだと思ったのです。父と一生縁を切るか切らないかの決断は今だと」
「ダリオン様と駆け落ちすることも考えました。でも、たった1年で中級の魔法学を修了させたダリオン様は上級どころか特級も手が届きます。私、ダリオン様には日の当たる場所で活躍して欲しいのです。それに魅了は侯爵家だけの問題ではありません。王国にとっての大問題です、過去には魅了によって滅んだ国もあるのですから」
ルルーシェラが目を伏せた。
「申し訳ありません。ダリオン様の妹様ですのに、私はアンジェラ様を排除したいのです」
ダリオンはルルーシェラを抱きしめた。
ルルーシェラに触れるダリオンの手が、愛しいと語るように優しい。
「ルルーシェラは正しいよ。アンジェラは人間の姿をした動く災禍だ」
「私の父はお金と人脈が凄いのです。父の力があればアンジェラ様を排除する方法があるはずです、父も私への罪滅ぼしがしたくてウズウズしていますから。私の望みと父の罪滅ぼしが一致する需要と供給なのです」
ルルーシェラがダリオンの背中に腕をまわす。
「それにやっぱり私は父と仲直りしたい。過去は変えられません、未来は変えられると言われますが大事なのは今だと思うのです」
15歳の夏。
ルルーシェラとダリオンは男爵邸にいた。
忌み嫌われているダリオンであったので侯爵家は簡単にダリオンを離籍とともに手放した。そうしてダリオンは侯爵家から他家へ養子に入り、正式なルルーシェラの婚約者となっていた。
そこへ、侯爵と夫人が先触れもなく押し掛けてきたのである。
男爵邸の応接室には男爵とルルーシェラとダリオンが揃い、対面の侯爵夫妻と向かい合った。
侯爵夫妻には血の気がない。魅了が解けて何もかもが明るみになったのだ。だからこそ侯爵夫妻はダリオンに、すがるように頭を下げた。
「許してくれ……、ダリオンッ!!」
正気を取り戻した侯爵の顔には深い後悔が刻まれている。
「許して、ダリオン……。わたくしは可愛い我が子に、ああ……なんという仕打ちをしてしまったのかしら……」
侯爵夫人の涙が止まらない。
「お帰り下さい。僕は侯爵夫妻の息子ではありません。新しい養父母に可愛がってもらっていますし、さらに来月には男爵家の人間となって義父と愛しい妻が僕の家族となってくれます。もう侯爵家とは無関係なのです」
ダリオンの声は冷たい。
「いやぁ、ダリオン君は15歳で上級魔法の使い手で、特級も取得しつつありましてな。我が家は良い婿に恵まれて安泰ですよ。ワハハハハ」
と高らかに笑う男爵は自慢げに胸を張る。
侯爵がギリギリと奥歯を噛む。
どうしてもダリオンが必要なのだ、侯爵家の存続のために。
「私、魅了の勉強をしたことがありますの。魅了の支配下に長くあった者は体内の魔力が乱れてしまって──子どもができなくなる、と。魅了から解放されても治療の方法がないらしいですね」
大変ですね、とルルーシェラが頬に手を当てた。他人事として微笑みながら。
ルルーシェラは侯爵夫妻と、お互いの立場の違いを理解して気持ちの共有が求められる対話をする気はなかった。言葉を発すれば成立する会話すら腹立たしかった。
それほどのことを侯爵夫妻はダリオンに5年間もしてきたのだから。
「侯爵家の使用人たちも結婚している者は多いですが、誰ひとりとして子どもがいない。僕の元兄の方、女性関係が派手ですけど妊娠した女性はいないですよね、昨年結婚した夫人も含めて」
大変ですね、とダリオンも他人事として言う。
「僕は愛しいルルーシェラと子沢山になる予定ですけどね。魅了の支配下にいませんでしたから」
血の継承は貴族にとって最優先の責務である。
しかも。
アンジェラの魅了が発覚した切っ掛けは、侯爵がアンジェラを連れて王宮にあがったことであった。
第三王子の婚約者選定のお茶会に、アンジェラは招待されなかったのだ。
自分こそ第三王子にふさわしいのに、とアンジェラは父親の侯爵に泣きついて、侯爵はアンジェラとともに王宮に乗り込んだのである。
魔法の発達した王国なのだ。
当然、王宮には危険な魔法に対する防御システムが完備されていた。
瞬時にアンジェラは捕縛されて、魅了は封印され、投獄となった。魅了の封印によって正気に戻った侯爵であったが、王宮に魅了持ちを入れようとした行動の責任を問われて崖っぷちに立っているのだ。
アンジェラ自身も自分が魅了持ちであるとは知らなかったが、知らないではすまされない。アンジェラの魅了は魔力量が低い者ほど影響を受ける。そしてアンジェラの気持ちに沿った行動をとるようになるのだ。
知識はあっても魅了や支配や傀儡等の精神干渉系に対して、王家ほど完璧に対策を講じることは侯爵家といえども難しかった。故に悲劇はおきたが。さいわい侯爵がアンジェラを大切にするあまり、外出すらさせなかったために被害が侯爵家のみであったのは唯一の救いであった。
おそらく重く処罰されることは免れないであろうが、侯爵はせめて血の断絶だけは回避しようと足掻いているのである。
ダリオンが男爵の耳元で囁く。
「義父上、王家を利用なさいましたね?」
男爵も小声で応える。
「可愛い娘と仲直りできる最後の機会なのだ。生ぬるい手段を選ぶとでも?」
「わかります。僕も愛しいルルーシェラのためならば手段なんか選びません」
血の繋がりはないのに似た者同士の男爵とダリオン父子であった。
ダリオンが曲がった足で、杖をついて立ち上がった。すかさずルルーシェラが手を添える。
「お帰り下さい」
侯爵は自分の罪を見せつけられて直視できずに顔を落とした。
男爵が使用人を呼ぶ。
「お客様のお帰りだ。馬車を玄関に、わたしが見送ろう。ダリオン君は?」
「僕はルルーシェラと庭に行きます。ルルーシェラの好きな花が咲いたので一緒に見るつもりだったのです、予定外のお客様で中断してしまいましたが」
「では失礼します。……どうかお元気で」
それがダリオンにとって精一杯の情であった。零れた水は二度とコップには戻らないのだ。
ルルーシェラとダリオンが花盛りの庭を手をつないで歩く。
「私の好きなダリアの花は、咲き方も多種多様でボール咲きやポンポン咲きやアネモネ咲きやコラレット咲きや一重や八重、たくさんあるのです。花色も青以外はほとんどあるらしいです」
全ての色が溶けて透明になった光を吸い込んだ大地に。
花びらがたっぷりと重なって華やかに美しく咲くダリアが、微風に優雅に揺れている。
赤色、ピンク色、オレンジ色、白色、黄色、茶色、黒色、色彩がきららかな波のようにユラユラと。
風の息吹きが蜜蜂の羽音と蝶々の羽ばたきを運び。
ダリアの花が小さな女王のごとく咲いていた。
ルルーシェラを父親が抱き上げてくれた幼いあの日のように、一面に。
「青色がないの?」
「はい。でも、私は、私だけの青色を手に入れましたから」
ルルーシェラの顔が近づく。
ドキン、とダリオンの心臓が大きく脈打った。
ダリオンの青い双眸にルルーシェラが映る。
「私の唯一の青色。ダリオン様、愛しています」
【ダリオン】
青い空の下、ダリオンはルルーシェラとダリアの花の園にいた。
ルルーシェラの笑顔を見ながら、ダリオンは頭の内で自問して自答した。
暴力は痛い。
暴言は心を刻む。
脳髄にこびりついて何年も何十年も忘れることはできないだろう。
侯爵夫妻は魅了の支配下にあり、自分たちのした過去の行為は覚えているが、そこに自分たちの意志はなかった。それは理解できる、侯爵夫妻の立場や状況も。しかし、理解できるから謝罪を受け入れられるか、は別の問題だ。
かりに、赦しという名の呪縛によって謝罪を受け入れたとしても、その後歩み寄ることを求められたとしたならば、個人によって違うがダリオンにとっては地獄だ。
まだダリオンのなかで見えない傷が、ズキズキと膿んでダラダラと血を流しているのだから。
ダリオンは考える。
もしもルルーシェラと出会わなければ。
憤怒と憎悪が身体中に渦巻き出口を捜して、捌け口を要求して。卓越した魔力制御の枷は破壊されて。膨大な魔力が暴発して侯爵家は血の海に沈んでいたかも知れない。
だが、ルルーシェラと出会ってダリオンは知ったのだ。怒りの根源には悲しみがあったことを。
あの凄惨な別館で、ルルーシェラだけがダリオンに手を差し伸べてくれた。
世界でひとりだけ、ルルーシェラだけが。
そして、ルルーシェラだけがダリオンの唯一となったのだ。
数えきれないほどの人々がいても、ルルーシェラはただひとり。ルルーシェラへの愛だけがダリオンの中に届まり、ダリオンの世界を温かく変化させるのである。
ダリオンは空を仰いだ。
「………………ああ、そうだ。空の色は青かったんだ」
ダリオンは、青い光の底にいるみたいな気持ちになった。
それからダリオンはルルーシェラに視線を向けた。
ダリオンに微笑んでくれるルルーシェラが、眩しい。
眩しくて、眺めることができない。でも、眺めないことはもっとできない。
ダリオンの目に涙が滲む。
ダリアの花の園の眩しく愛しい人、それがルルーシェラだった。
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