安堵
「すぅ……はっ!」
風に乗って潮の香りが届く崖の上、私は日々の過労と激務から来る睡眠不足から寝入ってしまい、ストレスと不摂生から来る胃の荒れが理由の胃痛で目が覚める。
あぁ、キリキリする……。
「いけないいけない。お仕事お仕事……
私はエルフの里で生まれ、今は故郷を遠く離れた地でまさかの教師。
毎日狩りをしていた日々を思い出し懐かしみますが、やるべき使命が有るのならば今の仕事をやり抜くだけです、
「教師という仕事も楽しいですしね」
見た目は子供でも私は既に四十代の妻子持ちであり、生徒達にも慕われている。
……一部は怖いけれど。
あの日、私に届いた声に従い今もこうして動いていると、森の侵入者に動きがあったと連絡が入った。
「ああ、嘆かわしい。都会ってこれだから……っ!」
家同士の争いやら政争やら身内間での潰し合い、森にいた頃は一切関わらなかった権力闘争のドロドロ具合に故郷を懐かしみ、次に纏まった休みが有れば親に孫の顔を見せに行こうと思った時でした。
「此奴はっ!」
私の関知を潜り抜け背後に迫った気配を感じ取ったのは爪が今まさに振るわれる瞬間。
此処まで接近したにしては急に足音と息遣いで存在を感知させる不手際に違和感を覚えつつ前方に跳びながらの反転。
私は接近戦が出来ないわけでは有りませんが、体格の問題で相手を攪乱する為に動き回ったり、ゴーレムを盾にしつつの遠距離戦が得意です。
ですが今は突き出した崖の上、動き回るにしてもゴーレムを呼ぶにしても狭く危ない。
万一の時は飛び降りる事も視野に入れて崖際で止まれば気配の主は影すら見えず。
「あれ?」
上に飛んだり崖下の岩壁に張り付いてもいない。
まさか姿を消す能力の持ち主かと聴覚に神経を集中させた時、不意に視界が塞がれた。
「だーれだ?」
目を塞いだのは柔らかい手で、背後から聞こえた声の主は女性の物。
楽しそうな声で親しみが籠もってはいたのですが、その声の主が誰なのか理解した瞬間、私は跪いて再び反転、頭を深々と下げる。
「お戯れは程々になさって下さい、女神様」
「……そうね。ちょっとお仕事を抜け出したテンションのままでした。我が忠実なる信徒の忠言、喜んで受け入れましょう」
頭を垂れたまま意見を述べれば相手も真剣な声に戻して返事を返す。
……ふぅ、助かりましたね。
正直、妻や娘以外にされても困惑しか有りませんから、私の年齢では。
ちょっと対応に困って精神的に疲れる事は伏せ、身分に相応しい振る舞いを信仰の対象へと向けるのですが心労が凄い。
……もう昔からの部下が何か言って下さいよ。
「顔を上げなさい、マナフ・アカー。私の姿を直視する権利を与えましょう」
「いえ、見ぬ余る光景故に慎んで遠慮させて頂きます」
本音を言えば今の貴女の服装にあるのですけれど、黙らせて下さいよ。
頭を伏せる瞬間、僅かに見えたのはメイド服。
事情は知っていますし、本人が楽しんでいるのなら今すぐに止めて下さい等とは言えませんが、信者としては思う所が有ります。
「それで本日は何用で? 少し前に彼女と話し合ったばかりですが……」
「貴女を労いに来たのです。彼女の方も労いの言葉を与えておきました」
「そう…ですか……」
感極まるとはこの事なのでしょうね。
私は跪いたまま打ち震える。
頭に数度触れる手の平の感触を感じ、やがて風が吹くと目の前から消え去っていた。
「教師として生徒である二人のお世話をお願いしますね。ねじ曲がった物語は元の悲劇には戻りませんが、それでも別の何かが起きるでしょう。私は立場上、それ程干渉出来ません。貴方と彼女だけが頼りなのです」
少し悲しそうな声が聞こえて、私は少しだけ固まっていましたが、立ち上がるなり頬を両手で挟むように叩いて気合いを入れ直す。
「ええ、お任せ下さい、リュキ様。元より先生として生徒達は守る気でした。信念と信仰、この二つを力に変えて務めを果たして見せます!」
……ただ、メイド服のまま現れるのは勘弁して欲しいです。
いや、最初に姿を見せた時の痴女みたいなのもアレですけれど。
「え? 奥さんに似た格好させて、それが娘さん誕生に……」
帰ってなかった上に心読まれている!?
確かに新婚の熱も冷め始めた頃、再燃の為にと色々とやった結果、信仰対象が着ていた痴女みたいな格好(上半身胸に巻いた薄布だけ)をして貰い、それが互いに気に入った結果、愛する娘を宿した訳だけれど、どうして知っているんですか!?
記憶を読まれたにしろ、プライベートな時間を覗き見されていたにしろ、ちょっと信仰心に支障が出そうな気分です……。
「安心なさい。馬鹿女神は時の女神の名に誓って殴っておくから」
また別の方の声がっ!?
聞こえてきたのは知らない女性、多分女神の物。
しかし、私が先程まで話していた方と違い、実際は気安いなんて事は無い正しく”女神”という感じ。
いや、あの方も一時期は人類全滅計画とか立てて居たんでしたっけ?
じゃあ、取っ付きにくくてもわざわざ報告してくれる此方の方が?
「では励みなさい、人間。……それと信者を奪うのは神の間ではかなりヤバいから止めなさい。あの女神、ねちっこい所があるのよ」
「あっ、はい」
声はやがて聞こえなくなり、聞こえてくるのは波と風の音、時折森の方から戦いの音が聞こえて来た。
風を操り森の中の情報を把握し、怪我をしている生徒や不審な行動をしている子が居ないか確かめる。
さて、今の所は一名のみ、毎年毎年”この機に乗じて!”と動くのは対策を想定していないお馬鹿な子のみ。
「これは勘当と慰謝料だけで済むレベルではありませんよ? もっと思考を働かせないと」
ルルネード君が所定の場所に捕縛したお馬鹿さんを連れて行く中、別の場所では獲物の取り合いから喧嘩する生徒が数グループで。
確かに二人揃って所定数のポイントを集めるとは言っていませんが、だからとグループ間で潰し合いなんて悲しいですね。
「ちょっと止めま……え?」
今回の二人組でのハンティングもそうですが、毎年内容を変えても起きる諸々の問題に対処すべく私は森全体に風を張り巡らせていました。
少し程度なら寝ていても解除されず何が起きているのかを把握可能であり、想定外の事態には直ぐに気が付ける。
「一体何が現れたんですか!?」
その風の網を張っていたにも関わらず、気が付けたのは戦闘が始まったから。
それまでは一切存在を察知出来ず、今だって場所が分かっているのに見失いそうになる程の隠密性。
その様なモンスター、この森には生息していない筈だし、何処からか移って来たにしても聞いた事が無い相手。
自惚れかも知れませんが私は自分の魔法による感知には自身がありますし、生徒を守る為に磨いて来た。
「直ぐに助けに……いや、今感知している場所以外にも居るのなら、戦えている子達よりも戦う力の低い子達の避難を優先させた方が……」
学園の方針では生徒の家柄に関わらず平等……形骸化しているにしていたとしてもです。
今は生徒達をどう避難させるのか、それを必死に考えていた時、背後から感じる気配。
また女神様が現れた、訳じゃないですね。
足音からして足運びも体幹も落第点で殺気が漏れ出している。
「……こんばんは。今宵は月が綺麗ですね」
「……」
「無視ですか。一応言っておきますが、大人しく投降して下さい」
彼が報告にあった仮面の男ですか……。
仮面の男は昼間の戦闘のダメージが残っているのか右手がダラリと垂れ下がって力が入っておらず、上半身は左側に傾いている。
捨て駒だろうとの意見がありましたが、怪我を放置されるあたり正解らしいですね。
返事が無いのも返事を”しない”のではなく返事を”出来ない”のでは?
「お顔を見せて下さいよ。ああ、こんな事をする理由を教えてくれますか? 私、これでも教師歴二十年以上なので相談に乗れますよ」
……まあ、ベテラン教師なのに見た目が子供だからって侮る生徒も居ますし、性的に狙って来る子達……ううっ、忘れましょう。
どうも体を見る限りでは若い、それも生徒達と同程度程なので洗脳されていると思いつつ説得を試みますが返事の代わりに飛ばそうとしたのは炎の矢。
彼の周囲に煌々と燃える炎の矢が十本程。
「……そうですか。実に残念で、”ウインドプレッシャー”」
要するに返答は否って事ですので会話の最中ですが先制攻撃です。
大瀑布のように上から降り続ける暴風に仮面の男は膝を突き、両手で踏ん張ってうつ伏せになるのは防ぐけれど震えていますから時間の問題でしょう。
「随分と力が有るらしいので強めにさせて貰っていますよ。でも、小屋が倒壊する程度なので安心して下さい。指一本動かせないだけで全身の骨が折れたりはしませんから」
どんな理由が在るにせよ、どんな状態にせよ、彼は私の生徒を襲った相手です。
教師とは生徒を守り導く存在であり、生徒という宝を守るドラゴン。
ドラゴンは己の宝を狙い脅かす相手には容赦しない生物だから、私は危機を許しません。
「では、捕らえさせて貰いますよ」
無詠唱魔法を使おうにも今の状態なら対処可能。
私、魔法の速射には自信が有りますので。
「崖を崩そうにも先に強化しましたので無駄です。では、先に仮面を剥がさせて貰いましょう」
私が通る所だけ風を止ませ男に近付いた私は風を瞬間的に強め地面に這い蹲らせると仮面を無造作に剥ぎ取る。
「え? 君は……」
それは正しく悪手でした。
仮面の下の虚ろな表情を浮かべた顔を見た瞬間、私は思わず魔法を解除してしまう。
いえ、解除しなければならなかったのです。
だって私は……教師なのですから!
私の魔法が消え、更に動きを止めてしまった事で彼にとっては絶好の機会が訪れる。
振り上げたのは私の魔法に耐えていた事で完全に折れてしまったらしい腕であり、その様な状態にも関わらず私に叩き込まみました。
骨が折れた音は私からだけでなく、彼の腕からも聞こえ、その一撃の衝撃は私を通して足場を砕く程。
私の魔法で崩れないようにと予め固めておいた足場は砕け散り、飛び退く彼とは違い私は崖下に落ちていく。
「……良かった。不幸中の幸いですね」
あのね、あの状態の腕での攻撃。
それが彼が操られている証明であり、自ら行った加害者ではなく無理にさせられた被害者であるという事。
大切な生徒である彼にはまだ助かる見込みがあると察し、私は安心しました。
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次回の前に短編投稿予定




