化け物と怪物
もう梅雨の時季だと云うのに空は晴れ渡り風は心地良い花畑にて一人の鬼族の女性が酒盛りをしていた。
癖毛をそのまま伸ばしたままにした黄緑色の長髪によって目の辺りは隠されて顔の美醜の判断は出来ず、ニメートル近い長身に近い大きさのヒョウタンを片手で持ち上げ、手元に置いた川魚の塩焼きを骨ごと食べる。バリバリと骨を噛み砕き、最後に頭すら食らった後で刺していた串を歯の掃除に使い、出て来た食べ滓を酒で流し込む。その酒も常人ならば匂いだけで酔い潰れる程だ。
そんな彼女だが、一番の特徴は大きく開いた胸元の傷だろう。着流しが辛うじて肌に引っかかっている状態で胸の谷間は殆どさらけ出され鳩尾の辺りまで見えている状態だが、その谷間の中心には同じく大胆に晒した背中まで貫通したであろう傷痕。常人ならば即死であろうこの傷跡の他にも首や手足、隠されている腹部にもとても軽いとはいえない物がちらほらと。
「ん~。梅雨の晴れ間に花を愛でながら釣った魚での酒盛り。まさしく風流でおじゃるなあ。……ああ、それに立ち込める血の香りも忘れてはならぬ。血と酒と花、鬼の宴にはそれが欠かせぬ」
既に自分の体積の半分以上の量を飲んでいるにも関わらずホロ酔い程度の彼女の背後は花が咲き乱れ川が流れる風景とは打って変わっての地獄絵図。他の個体より二周り大きい物は人間を一口にしそうな程に巨大な金毛の狼の屍の山と、其処から流れ出した血の河だ。澄んだ清流には血を伝って血が流れ込んで赤く染まり、彼女はそれを満足そうに眺めながら酒を飲む。
「しかし気紛れで少し遠くに足を運べば、発見したのは酒を飲むのに丁度良い場所、そして何やら仰々しい封印。これは斬らねばならぬでおじゃる。ああ、マロの普段の行いは余程良いのだろう」
ヒョウタンを傾けながら視線を向けた先には深い穴が開いており、穴の底には神々しさすら感じる石版。中心に描かれたのは光を司る女神リュキの紋章だ。そして切り刻まれて転がり、何時の間にか端の方から光の粒子になって消えている狼からも同じ神の気配がしていた。
「しっかし此奴等は一体全体何者か……まあ、考えても分からぬ事は忘れるに限るでおじゃるよ。マロは幼き頃からそうして来た」
彼女に神の気配を感じ取れるのかは定かではないが、何かあると思って掘り起こしたら見つかった謎の石版。それを両断した結果が屍の山となった狼の出現だ。何か特別な存在だと気が付き、直ぐに興味を失って思考を停止する。酒の力か性分か、考えるのは苦手な模様だ。
「うむむ。酒が足らんでおじゃる。弟子が此処に居れば買ってこさせるのでお金じゃるが、気が利かん奴め」
既に自分の体積を上回る量の酒を飲んでいる彼女だが意識はハッキリとあり、全く衰えない速度で酒を流し込み、魚は全部食べたので皿に残った塩を指先に付けて嘗めるのを繰り返す。
尚、弟子に関しては明らかに理不尽な言い掛かりである。
彼女が知らない事なのだが、この狼達はリュキが人を滅ぼすべく創り出した神獸に属する存在。大勢の常人を殺す事に長けたタイプと神の祝福や天然で持ち合わせた英雄と賞される強者を相手取る為のタイプに分かれる中、珍しいその両方に該当する。
この神獸の名前は”フェンリル”。単独で子を産み、群れで活動する性質を持ち合わせ、その子供の一匹一匹が並の英雄を圧倒する化け物だ。恐らく総合的な強さは神獸の中でも上位。
そんな存在を相手取った彼女には今し方負った傷は皆無であり、邪魔だからと木に立て掛けた身長以上の大太刀にも刃こぼれ一つ見当たらない。
「……」
そんな屍山血河の中、息を殺し殺気を抑え込んでいる幼いフェンリルの子の姿が一つ。真っ先に首を跳ねられた母親が産み落とした最後の一匹であり、兄弟達が戦う間に余波でズタズタになった地面に穴を掘って隠れていたのだ。
本来ならば神獸とは人を抹殺すべく生み出された存在であり、殺戮本能は生存本能を上回る。特に群れとして存在するのが基本のフェンリルならば、例え自らが到底敵わぬ相手であったとしても一瞬の目眩ましの為に命を捨てる事さえ厭わない。
だが、この個体は違った。母の腹で誕生を待っている間に封印されたからか、それとも創造主であるリュキが心変わりをした影響か、殺戮本能よりも生存本能が上回り、こうして必死に生き延びようとしている。
土の中から鼻先と目の辺りだけを僅かに出し、人間を皆殺しにする為に生まれた怪物すら上回る怪物が去って行くのをひたすら待っている。その時間は幼いフェンリルにとっては長く感じられた事だろう。
「さてと、そろそろ帰るかのぅ。晩酌の準備もせねならぬしマロは忙しいのじゃ」
効率良く対象を殺す為か神獸ならば大抵の者が人の言葉を理解する。当然言葉が分かるのと命乞いが通じるのは別の話であるが、兎に角脅威が去りそうだと子フェンリルは安心し、気を弛ませた。ホッと一息、必死に目を離すまいとしていた目を閉じ、開ける
目の前で化け物がしゃがんで覗き込んでいた。
「……まあ、もう面倒でおじゃるし帰るぞよ。生きていれば弟子に対する試練にもなるであろうしな。その間に出るであろう犠牲は致し方なかろう。それも運命、マロじゃなくて弱い自分と神を恨むでおじゃる」
殺されると思い頭の中が真っ白になった子フェンリルに彼女の言葉は届かない。立ち上がって歩き出した時、頭を踏み砕かれる事に怯え、去った後も出た途端に背後から殺されるのではと怯えて震える。皮肉な事にその恐怖は封印前の母が既に生まれていた兄弟と共に人々に与えていた物だ。
因果応報ではないが、人にとっての神獸も子フェンリルにとっての彼女も大きく変わらないだろう。日が西に傾き、夜が訪れ、再び日が昇る。それを三度繰り返すまで子フェンリルは土の中に隠れて震えていた。
「あらあら、これはどうしたのかしら?」
「これは酷いな」
三度目の朝を迎えた日、豪奢な馬車に乗った貴族の一家が現れる。空腹は限界を迎え、殺戮本能も刺激されるが子フェンリルは出て行かない。いや、出て行けない。戦いの痕跡を前に戸惑い右往左往する者達は明らかに弱者であるにも関わらず植え付けられた恐怖が身を竦ませる。出て来た時にあの化け物が現れる可能性が頭に浮かび、体が動かなかった。
「おや? おやおや? 宴のセッティングに来てみればこれはこれは。……まあ、随分と」
その時、生まれたばかりの子フェンリルなのだから当然初めて聞く声であり、にも関わらず知っている声が耳に届く。若い男の声ではあるが布越しなのか少し変な感じがするその声の主を子フェンリルは本能で知っている。人間に対する殺戮本能と同じく持ち合わせて生まれた物。それは声の主に対する絶対服従。
「皆様、我らの商会をご利用頂き誠にありがとう御座います。本日は最高の料理をご準備させて頂きました。食後には余興を急遽用意しましたのでどうぞお楽しみに」
男が細長い腕を折り曲げて深くお辞儀をすれば四季折々の花が一斉に咲き乱れた。花に漂って来る匂いが幻ではないと告げる中、子フェンリルの目に映るのは和気藹々とした家族団欒。フェンリルにとって母と子とは王と臣下に近いものの親子としての愛情は確かに存在する。
恐怖によって抑え込まれていた本能が刺激された。家族が見ていない隙に男が待機を手の動きで伝えなければ今直ぐにでも飛び出していた事だろう。
”待て”が始まってから早数刻、宴もたけなわ、お開きの時間が迫る中、子供がふと思い出した。終わり頃に用意した余興とは何だと。
「ええ! ちゃーんと準備は終えていますともぉ! アヒャヒャヒャヒャ! ほらほら、何時までも埋まっていないで出て来なさい。神獸将シアバーンの名の下に命じます。でわでわ、お客様を神獸の腹の中にご案内致しましょう! 我らネペンテス商会がご用意した最高の余興ですよ、お客様ぁ!」
その声と共に子フェンリルは飛び出した。生まれたばかりで小柄だった体は気が付かぬ間に数倍にまで成長し、状況を飲み込めず固まっている貴族一家へと迫る。護衛や給仕を飛び越え、困惑しながらも両親が守ろうと後ろに下げた子供の前に降り立ち一口で食い殺した。
一瞬何が起こったのか理解出来ない両親だが、顔に掛かった我が子の血を拭った手を見て理解する。悲鳴を上げる、その前に夫婦揃って噛み殺された。残るは給仕や護衛が数人。護衛は貴族に雇われるだけあって精強な戦士であり、武器もそれなりの物だ。
その程度、神獸にとって敵ではない。餌だ。
「アヒャヒャヒャヒャ! さあさあ! 余興はこれからです! 皆様、存分にご堪能下さいませぇ!」
悲鳴と咆哮が響き鮮血が散る中、その様子を眺めるシアバーンは腹を抱えて笑う。まるでこれこそが最高の余興だと言いたそうに……。
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