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間もなく、人影が木々のすき間から染み出すように現れた。
灰のマントで身を包み、フードをすっぽりかぶっている。
子供? 小柄な影だった。
中腰になり、油断なく辺りの様子をうかがっている。
不自然に空けられた空間と、その中心に置かれたオブジェを見て、動きを止めた。
オブジェが突然燃え上がった。
人影は、一瞬ぎくりと体をこわばらせた。
そこに、短剣が襲いかかった。
影の反応は見事だった。風を切る音のみを頼りに地面に身を伏せる。
短剣は、マントの肩の部分を突き破って後方に抜けた。
フードが脱げる。ラの言った通り、若い女だった。
彼女は地面に手を突き、すぐに起き上がろうとして、そして上方から襲い来る獣の巨大な牙を視界に収めた。
女の手がひらめく。
そこに闇が収束し、黒曜のやじりがいくつも生まれた。
黒いきらめきが獣に殺到する。だが、それが突き刺さると見えた瞬間、空中に一瞬の灼熱が生まれ、黒曜を飲み込んだ。
女が目を見開いた。
そこに、巨大な獣がのしかかった。女の五体をがっちり押さえつけ、喉に牙を食い込ませたところで、動きを止めた。
詰みだ。ラはいつでも女を殺せる。
彼女もそれを悟ったのだろう、あお向けに地面に倒れたまま、再び抵抗する様子はなかった。
ユウマは樹上から飛び降りて、二人に歩み寄った。
「死体は、お前がけしかけたのか?」
女は目だけを動かし、ユウマの方を見た。そのまま、探るように彼の目を見つめた。喉を押さえつけられているために、くぐもった声で言った。
「人間ですか?」
「死体は、お前がけしかけたのか?」
「ああ、いいえ。私は魔導士です。それを追っていたのは、打倒するためです。先ほど団体に出会って、大半は殲滅したのですが、一体だけ逃がしてしまったのです」
「これは何なんだ?」
「屍人。メドヴェの傀儡でしょう」
「メドヴェ?」
「赤い目の一柱です」
「何それ?」
女は、質問の真意を確かめるように、再びユウマの目を見つめた。真意も何も、ユウマは分からないことを聞いただけなのだが、彼女はそうは思わなかったらしい。
希薄な印象の、まだ年若い少女だった。
肌が白い。髪の色も、はだけたマントからのぞく服まで白い。肌に貼りつく薄地の服だ。
口調はやけに丁寧だが、抑揚のない無感情な話し方で、表情も、魂が抜けてしまったように動かない。
何もかも真っ白い無表情の中で、赤い瞳だけが浮いている。やけに長い白いまつげがそこに影を落としており、それが年齢不相応に艶めかしい。
「あなたは何者ですか?」
「ユウマ・トラン」
素直に答えるユウマ。
女は、意外そうに何度か目を瞬いた。どうやら名前を聞いたわけではなかったようだが、それについては何も言わず、
「ご丁寧にありがとうございます。アーリィ・アレンシャと申します」
「お前の喉をかじっているそいつは、ラだ」
「よろしくお願いします、トラン様、ラ様」
「ユウマと呼んでほしい」
「はい、ユウマ様」
ラが、苛立たしげなうなり声を上げた。
『おい、何をほのぼの自己紹介しとるか。アーリィとやらも。お前ら状況を考えろ。人に喉をかじらせておいて、のん気に話をしてるんじゃない』
アーリィは、びくりと硬直した。
「今の声は。驚きました。ラ様は言葉を解されるのですね。それにこれは、頭の中に直接声が伝わってくるような、何とも不可思議な感覚です。非常に興味が引かれます。一体どのような原理なのでしょうか?」
興味津々である。喉に食いつかれ、一瞬先には殺されてしまうかもしれない状況なのに、まるで気にも留めてない様子なのだ。
『お前、状況が分かっているんだろうな』
「もちろんです」
『だったら他に気にすることがあるだろう。頭がおかしいのか?』
「その可能性は、大いにあります」
ラは痛いほどに沈黙し、視線でユウマに助けを求めた。
「赤い目の一柱って何?」
アーリィは、ユウマの方に視線を戻した。
「異教の神です。メドヴェは、死を冒とくし、復讐を最上の旨とするけがれた神です。私からも一つお聞きいたします。あなたはどちらから来られたのですか? ここは人がいないはずの土地なのですが」
「東にあるクドという平原から来たんだ」
アーリィは少し目を細めた。
「ここよりさらに東。人がいるのですか」
「いるよ」
「まさか、あなたは、赤い目の神を信仰しておられるのですか?」
「違うよ」
何のことだか知らないが、炎神ミラには眼球など存在しない。常に膨張と収縮を繰り返している、無形の漆黒のかたまりが、ミラである。
そんな言葉だけでどう納得したものか、アーリィは一つうなずいた。
「であれば、ご安心ください。あなたが赤い目の神に組する者でないなら、私にはそちらに敵対する意思はありません」
ユウマはちらりとラの方に視線を飛ばした。
『嘘はないな』
「そうか。なら、ん」
『いいのか? 気が変わるかも』
「それならそれで、べつにいい」
ラは牙を離し、さっと離れた。
絶妙な力加減だったらしい。アーリィの首筋は赤い跡がついていたが、皮一枚破れてはいなかった。
彼女はそれを手で確かめて、ようやく身を起こした。
「素晴らしい連携でした。それに各々の力も特に秀でていますね。私はこれまで、自分が人におくれを取ることはないだろうと考えておりました。思い上がりでした」
「そうか」
「白熱の炎は、あなたの力ですね。素晴らしい」
続いて彼女は、バラバラになった白骨死体に目をやった。
「あれも、あなた方が?」
「うん」
「ご面倒をおかけしました」
「いや、いい。ところでお前、イェルシェドっていう名前の土地を知ってる? ここから西にある土地らしいんだけど」
駄目もとで聞いてみたのだが、当たりだったらしい。アーリィはうなずいた。
「イェルシェドが、何か?」
「知ってるの?」
「それはもちろん、存じておりますが」
これは幸先がいい。ユウマは笑顔になった。
「そこまで、案内してもらえないかな?」
アーリィは少し考え込んだ後、条件があります。と、言った。