八話 プロローグ
「食べろ。ほら、食べるんだ」
犬か。僕は犬なのか。
心の声が口から漏れ出てくれなかったのは、ただ単に口が塞がっていたからである。
僕の口に程よく冷めた串焼きのイカを突っ込んできた愛耶は、満足げに頷いた。
「うん。……うん」
「気持ち悪ぃよ。なんだ、その顔」
「うっさいっ! 好きな相手と手ぇ繋いで夏祭りに来たやつが四の五の言うな! 私のこの夏一番の楽しみを邪魔するなッ!」
愛耶に悲痛な叫びを上げさせたのは、僕と並んでベンチに座っている秋穂だ。
「うぃあ、えも」
「お行儀悪いから飲み込んでから喋るように」
「……あい」
なら口に突っ込まないでほしいんだけど、という抗議を言葉にすることもできず、僕は串を受け取って焼きイカを噛んでいく。美味しい。……美味しいのだけど、素直に味わう余裕はなかった。
「私はこれから別行動になります」
「あぁ。知ってるが」
「ウタちゃんたちとの約束があるので、仕方なく別行動になります」
「……新しい女か?」
「黙れ」
仲が良い。
二人の仲が良いのは前からだけど、最近は愛耶の態度が変わった。隠すべき内心や正すべき体裁がなくなったせいか、……それとも隣に僕がいるせいか。秋穂と接する時の愛耶は、どこか冷たい。
これが気の置けない仲というものなのだろう。
僕は、そう思うようにしていた。
「くれぐれも。く、れ、ぐ、れ、も! 澄実に変なことしないようにッ!」
「澄実から変なことしてきた場合は?」
「……私にバレないところでバレないようにやってください」
半分は僕のせいだから、こんなことを言うのはおかしいのかもしれない。
だけど。
「なんか、ごめん。愛耶」
串焼きイカを飲み込んで、曖昧に笑いかけておく。
「うん、じゃ、海行こ」
「何人くらいで?」
「……五人か六人で」
三人は無理。四人というダブルデート状態も耐えられない。そんな涙ぐましい未来予想が幻視できる。
「それじゃ、さ」
僕の口に串焼きイカを突っ込むためにしゃがみこんでいた愛耶は、どこか諦めたような声とともに立ち上がった。
「夏祭り、ちゃんと楽しんでね」
「あぁ、お前の分も」
「あんたは黙っとけ、澄実に言ったんだから」
ぷんぷんと怒った素振りで去っていく愛耶を眺めながら呟かれた「辛辣だ……」という秋穂の声は、聞かなかったことにしておく。
彼女が置いていった日常の残り香が去るまで、僕たち二人は一言も喋らなかった。
見下ろす高さに提灯の明かりが並び、人混みの川が流れている。
夏祭りの本会場となっている歩行者天国からはいささか離れすぎた高台に、僕たちは二人きり。
ひゅるるる、と音を立てて昇っていく花火は、木々に隠れて見ることができない。それゆえに他のカップルがいないのだ。どうしても人目を憚ることがしたいカップルは、そもそも早々に引き上げていることだろう。
「海か……」
肌寒さを感じかけた頃、秋穂が口を開いた。
「楽しみ?」
言いながら、僕は左に寄る。俺の方が兄貴だから、と昔から車道側を歩いてくれていた秋穂は、今も数日早く産まれたからという理由で僕の左側にいてくれるのだろうか。
「いや、面倒臭いな、って」
「そっか、……まぁ、だろうね」
秋穂は悩んだように右手を上げる。包み込むように回された右手が、僕の頭を撫でた。優しく、優しく……、物足りないくらい控えめに。
「もっと撫でていいんだけど」
「……本当に?」
試すような口ぶりがむかつく。腹立たしささえ抱かせる。
「秋穂から撫でてくれないなら、僕から行くよ?」
いいの?
仕返しに、試すような口ぶりで言ってやる。
「……まぁ、お前がいいなら、いいけど」
躊躇いがちというか、怪訝そうというか。
ともあれ同意は得たので、僕としては迷う理由などなかった。
今だけはマナーなんて忘れて、ゴミになった串を手放す。腕を伸ばして、斜めから無理やり抱きついた。上目遣いにならなければ覗けない秋穂の瞳を覗きながらその唇に顔を近付け……。
――パシャリッ。
「良いのが撮れちゃいましたよっ!?」
一瞬だけ逸らしてしまった視線が元あった方を向くと、そこにはニヤリと笑う秋穂の唇があった。
「ねぇねぇ澄実さん澄実さん、今の気分はどうです? 恋人と二人きりの夏祭り……! やっぱり最高ですかねぇっ!?」
うざったい声。今一番聞きたくない声。あとシャッター音。
「最悪だよっ! ていうか、二人っきりじゃないじゃん! 秋穂も秋穂だ! 知ってたら教えてくれたっていいじゃんか! ていうかなんで黙ってたッ!?」
秋穂はニヤニヤと笑っている。勿論、真美菜もニヤニヤと笑っている。
「いや、なんか面白そうな奴見つけたから。これ放置したら面白いことになるんだろうなぁ、って。いやはや、澄実、最高だった」
「だから最高じゃないよっ!?」
目の端に涙まで浮かべて笑う秋穂は性格が悪すぎる。
「いえ、澄実さん、最高でしたよ。最高の一枚が撮れました!」
ぐっじょぶです、と秋穂に親指を立ててみせる真美菜も性格が悪い。秋穂のはまだ可愛いから許すけど、真美菜は絶対に許さないと決めた。今改めて決めた。
しかし。
「え、どこが?」
……と、素っ頓狂な声を上げたのは、何故か秋穂だった。
今の今まで一緒に笑っていた秋穂に疑問符を投げかけられ、真美菜の表情にも不可解そうな色が浮かぶ。
「俺は楽しかったけどさ、お前、写真部だろ? そんな写真でよかったのか?」
その言葉で、得心。
今は真美菜すら撮れた写真を見ていないけれど、カメラの性能はどうあれ、物陰から隠れての撮影では出来が良いとは言えないはずだ。
「ふっふっふ、甘いですね。甘いですね、秋穂さんっ!」
秋穂の言わんとするところを理解した上で、真美菜は高らかに笑う。
「そんなの二の次でいいんですよ。この写真を秋穂さんと澄実さんの赤裸々シーンとして公開するっ! これはスクープです! これで私の新聞部独立は決まったも同然なのですよ……ッ!」
新聞部、独立。
新聞部気取りと揶揄されてはいたものの、まさか本当に新聞部を目指していたとは。……というか、普通に部員集めて申請出せばいいだけじゃないか。
「……何言ってんだ?」
しかし、対する秋穂も秋穂で、馬鹿だ。致命的なまでに、馬鹿なのだ。
「そんなクオリティでスクープ? そんなのいくらでも捏造できる。それで新聞部なんて笑わせるなよ」
「なんですかぁ? 負け惜しみですかぁ? そんなに公開されるのが嫌なんですかねぇ?」
なんというか、もう、疲れた。勝手にやっていてほしい、とは思うけれど、僕としても無視できない事態であるだけに逃げられない。
「逆だ、逆」
秋穂は笑う。自信に満ち溢れる笑みだった。
「そんな出来の悪い写真でスクープだなんだと騒いだところで、新聞部に入りたがるジャーナリスト魂どもは盛り上がらんだろうに。……俺が言ってるのは、だ」
あぁ、また、ろくでもないことを言うのだ。
「撮り直さなくていいのか? もっと決定的な瞬間を、もっと揺るぎない形で撮らなくても、……お前は、それでいいのか?」
呆れた。
けれど、この諦めと呆れは今に始まったことではない。まだ幼かった頃、休みの度に探検気分で歩き回っていた頃、秋穂はいつも呆れ果てさせてくれたものだ。
「……と、いいますと?」
真美菜が唾を飲み込む。
秋穂はニヤリと笑ってみせ、それから僕の方を向いた。
「なぁ、澄実」
真正面から見据えられ、否が応でも心臓は跳ねる。カメラを構えた真美菜の前だというのに、期待して、鼓動が落ち着いてくれない。
「茶化して悪かった。……でも、ほら、こうしないとなんつうか、さ」
誤魔化すように言われてしまえば、僕にはぎこちなく頷く以外にできることなどなかった。
瞳が近付いてきて、見えなくなる。
我知らず目を瞑っていた。
肌寒い夜風が遮られ、人肌の熱がすぐそこまでやってくる。
緊張から息を吸おうとした時、僕の唇には空気ではないものが触れた。空気ではないものが、入ってくる。乞われたままに応じて、意識の外から聞こえてくるシャッター音など気にもせず、想いを返した。
いつか触ろうとした首筋に、指を這わせる。これ以上近付けるはずもない秋穂の顔を近付けるように、指に力を込めた。絡まる熱が一層燃える。
「ねぇ……」
息継ぎに離れてしまった隙間を埋めるように、また手を伸ばした。
「いいのか?」
静かな調子で笑われ、自分が恥ずかしくなる。
「いい。どうでも、いい」
写真を撮られていることなど忘れて、僕は、また――。
気付いた時にはいなくなっていた真美菜が新聞部部長の座に座ることはなかった。
代わりに言い渡されたらしいのが、謹慎処分。
当たり前である。そもそも高校の新聞といえば学校行事などを扱うものであり、生徒の個人的なことを暴露する場ではない。
加えて、彼女が持ち込んだのは僕と秋穂の、まぁ、そういう写真。いくら生徒から陰口を叩かれる学校側とて、見なかったことにできる代物ではない。
結局、あの時に撮った写真はデータの消去という形で葬られた。
僕たちは夏休み明け早々から職員室に呼び出され、経緯も分からないままに「これからは多目的トイレを使っていい」と保健の先生から言われる始末。体よく男子トイレから隔離された気がしないではないものの、かといって誤解を招きたいわけでもない。
「なぁ、澄実ぃ」
秋穂のだらけた声。
「機嫌直そうぜ、って。いい加減さぁ」
そんな声を無視して歩く途中で、視界の端に愛耶の呆れ顔を見つけた。彼女には悪いことをしてしまったと、今でも思う。秋穂が一番悪いのは言うまでもないけれど、僕だって責められて当然のことをしてきたはずだ。
それなのに、彼女は呆れつつも笑いながら付き合ってくれている。少し関係は変わったにしても、それは時の流れの中であるべき形だろう。
「秋穂はさ」
振り返ってやるほど僕も甘くはない。
「ああいうことしていいと思ってるの? まったく」
「や、一番気持ち良さそうにしてた澄実に言われたくはない」
「その言い方はやめてっ!」
わざわざ人前で、それもカメラを構えた真美菜の前でキスを迫る必要があっただろうか、いや、ない。
僕も僕だ。まんまと乗せられて写真を撮られた。結局は何事もなく済んだというか、堂々と多目的トイレを使えるようになったわけだけれど、それでも腹の虫はおさまらない。
「と、に、か、くっ!」
下駄箱の横まで歩いてから、僕は振り返る。目の前には、困ったように笑う秋穂が立っていた。
「今後ああいうことはしないように! ……あと、それから」
秋穂ばかり悪く言うのはいけないと、腹の底では分かっているのだ。
「それから?」
それでも迷ってしまった数瞬に、笑いかけられてしまう。悔しい。主導権を握らなければ、いつまでも昔と変わらないままだ。
「今日は、雨です!」
「あぁ、見れば分かる」
背後ではざぁざぁと音を立てて雨が降っている。
「秋穂は傘を持ってきていませんっ!」
「いや、持ってきて――」
「いませんッ!」
つい怒鳴るように言ってしまう。けれど、まぁ、お互い様だろう。
秋穂は降参するように両手を上げて、小さく笑った。並んで靴を履き替えて、傘立ての横を通り過ぎる。……秋穂の傘は、また明日持って帰ればいい。
春先に降れば桜の花を散らしてしまいそうな雨の中に、僕は頼りない折り畳み傘を広げてみせた。
「仕方ないので、一緒に入れてあげます」
「あぁ、助かる。一緒に帰ろう」
あの日。
小学校を卒業したあの日、僕たち二人は同級生たちより早く通学路を歩いていた。どうせ中学でも一緒になるというのに、友達同士で集まって涙を浮かべている級友。
そんな姿を見ているのがどうにも嫌で、僕たちは下校と同時に学校を出た。
親に言えば引き止められる、と子供ながらに思ったのが悪かったのだろう。晴れていた空が暗く重い雲に覆われるのは一瞬のことで、すぐに痛いほどの雨が降り始めた。
その時、ようやく気付いたのだ。
この通学路を秋穂と並んで歩くのも最後なんだと。
また歩くことはいつでもできるけれど、一緒に学校に通って一緒に帰ることは、もうできないんだと。
気付いた時には、涙なのか雨なのか分からない水滴が頬をぐしゃぐしゃにしていた。
いつもランドセルに入れておいた折り畳み傘を思い出し、少しだけ明るい気分になったのを、今でも鮮明に覚えている。
これで濡れなくて済む。もうびしょ濡れだけど、これ以上濡れなくてもいい。
安堵した。変わってしまうのは通学路だけなんだと、どこかで安心していた。
しかし、隣を歩く秋穂は違う。
秋穂は折り畳み傘なんて持ち歩かないから、家までずぶ濡れになりながら帰るしかない。
『ねぇ』
その声が雨音に掻き消されてしまったことに、すぐ気が付いた。
途端、恥ずかしくなる。
相合傘なんて何度もしてきたはずなのに、その時だけは、特別に思えた。特別なものだと思っている自分がいて、雨に濡れた頬が熱くなった。
だから、ただ無言で差し出したのだ。
『折り畳み傘、持ってるから。使っていいよ』
いつか雨の日に口にした言葉。その時は予報を聞いて別の傘を持っていっていたから、相合傘にはならなかった。秋穂も僕が折り畳み傘を持っているのは知っていたから、一言「ありがと」と笑って受け取ってくれた。
でも、その日は違う。
卒業式の日は、僕も折り畳み傘しか持っていなかった。秋穂もそれを知っている。
そうと分かった上で、僕は、秋穂に託していた。
「ありがと。一緒に帰るか」
秋穂なら。
僕の好きな秋穂なら、そう言って相合傘をしてくれると、信じていたから。