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七話

 椅子に座った彼の右手は、本を持ったまま無気力に垂れている。

 死にかけた老人のような左手が、力なく額に当てられていた。

「まぁ、こうなるんだろうな」

 秋穂は呟く。苦々しく、憤怒と憎悪を諦念に落とし込んだような声で。

「お前の頑固さっていうか、なんつうんだ? ほら、あの意地っ張りなところな。それ知ってるからさ、まぁ、こうなるのは分かってたんだと思うよ、俺も」

 老いを帯びた手に吊り上げられるようにして、秋穂が天井を見上げる。その眼差しは、僕には覗けない。

「でもさ、何もしないわけにもいかないだろ? 幼馴染としてさ、親友としてさ」

 いつもは幼馴染としか呼んでくれない秋穂が、躊躇いもなく親友と呼ぶ。その諦めが胸に響いた。締め付けるほどの震えとなって、反響する。

「分からなかったんだよなぁ、俺にも。どうすりゃいいかさ。どうすりゃ男は女を好きになって、女が男を好きになるのか」

 僅かに見える口元が、歪む。

「だって、そうだろう?」

 算数の式を説いてみせる教師の声音だ。

「当たり前のことなんだよ。男が男を好きになる、なんて方が異常でさ、どうすりゃ普通に戻るのか分からなかった。病気なのか? 錯覚か何かなのか? あれこれ考えたさ。考えて考えて、ようやく気付いたよ」

 秋穂の右手に力が込められる。握りしめられたボロボロの本が悲鳴を上げるようだった。

「戻るも何も、最初からそうだったんだ、って。生まれた時にはそう決まってたんだって。……気付けば、なんてことはない話だった」

 一直線に僕へと向けられた眼差しは、剣呑とさえ受け取れる鋭いものだ。

「戻す必要なんかない。男のことが好きなら、もっと好きな女を見つけさせてやればいい。……なんてことはない話で、まぁ、七面倒臭いだけの無理難題だったわけだが」

 内心を見透かすような笑みに、けれど僕は慣れている。

 秋穂だ。

 これが、秋穂だ。

 真美菜に向けられた愛耶の怒りが本物であったように、今僕が見据えている怒りこそが、秋穂の本物なのだ。

「もう分かってるんだろ? 俺が何をしてたか。……何をしたかったのか」

「うん」

 一言頷くだけでいい。その先に言葉なんていらない。

 それでも、それを知っていてなお、僕は続ける。僕のために。愛耶のためでも秋穂のためでもなく、僕自身のために。

「遠ざけたかったんだよね。僕が秋穂の後にくっついて回るのはいつものことでさ、中学に上がってからは僕が連れ回すことの方が多くなったけど、でも、おんなじことだよね」

 愛耶は僕を見て、秋穂のことを好きなのだと気付いた。

 なら、秋穂は。

 秋穂も、気付いたのだ。愛耶が誰を見ているのか。

「僕は秋穂と一緒にいたかった。秋穂の後ろにくっついて歩くでもいいし、秋穂を連れ出してどこかに行くでもいいし。……だけど、一緒にいるだけじゃ嫌になっちゃった。一番近くにいたかった。手が届くだけの距離じゃ嫌だった」

 何よりも、彼は知っていたのだろう。僕の気持ちを。僕が、……もっと近付きたがっているのだということを。

「あぁ」

 ただ一言、数秒にもならない声が返される。

「お前にも、愛耶にも、悪いことをした。その自覚はちゃんとある」

 愛耶は独り善がりだと言った。すぐに嘘だと言ったけれど、あれは愛耶の本音だ。僕の気持ちも秋穂の気持ちも知った上で、彼女は自分のために嘘をついた。それを独り善がりなんだと、ずるくて浅ましいことなんだと、愛耶は責めている。

「僕も同じだよ」

 そんなこと、みんな分かっている。秋穂だって自分のために考えて、僕も僕のために考えてきた。愛耶が独り善がりだというのなら、秋穂も僕も独り善がりだ。想っている相手のことさえ見ない、ただただ自分が可愛いだけの。

「違うさ」

 僕の言葉を、愛耶の想いを、秋穂は笑って一蹴する。

「お前は俺を見てきた。勘違いだろうと、愛耶のことも想ってやってた。その愛耶にしても、俺のために諦めていいことを諦めなかった」

 違う。

 咄嗟に思ったことを、僕は口にできない。何が愛耶にとっての幸せだったかなんて、僕が決めつけていいことじゃなかった。

 それは秋穂も同じはずで、なのに彼は断言する。

「俺の独り善がりで振り回した。分かってるさ」

 僕を射抜かんとするような瞳の奥には、暗い暗い光があった。

「知ってるよ」

 どうすればいいんだろうか。笑いかければいいのか、泣けばいいのか、笑い飛ばせばいいのか。

「秋穂が僕たちのことを考えてくれてたって、ちゃんと知ってる」

 何が本当のことかなんて、もう分からなくなっていた。秋穂の瞳の奥は仄暗(ほのぐら)くて、覗き込んだら自分のことさえ見えなくなる。一度離した手は握り直せなくて、再び掴んだものが今まで掴んでいたものと同じかどうかも分からない。

 でも、だから覗き込む。

「秋穂がばかなのはさ、今に始まったことでもないし」

 笑われた。嘲るような、労うような、そんな笑い声。

「好きだったよ、お前のこと」

 唐突に言われると、予想してはいても心が固まる。頬が熱くなる。

「うそ」

 だから、僕も笑ってやった。

 僕が引きずり出す。カーテンを閉めっぱなしにした暗い部屋から、僕が。

「今も好きなくせに。好きだった、なんて、言わないでよ」

 僕は秋穂のことが好きだ。

 秋穂も、僕のことを好きでいてくれたんだと思う。

 それなのに、とは言わないし、言えない。だからこそ、秋穂は愛耶の気持ちを利用したのだ。

「気付いた時には一緒だった。横にいるのが当然だった。……だろう?」

「そうだね」

 産まれた病院が同じだった。誕生日も近く、家も近所となれば、親同士が仲良くなるのも不思議はない。物心つく前から、僕たちは遊んできた。お互いに一人っ子で、誰よりも近くにいる『友達』になっていた。

 気付いた時には友達だった僕と秋穂は、だから当たり前の関係から脱げ出せなくなっていたのかもしれない。

「お前は覚えてないだろうけどさ」

 乾いた笑みは、暖かい。

「まだ桜も咲いてなくて、どっちかっつうと寒くてさ。雰囲気があるわけでもないくせに、どうせ全員同じ中学行くんだから関係ねえのに、女子とか泣いてさ。野郎も釣られて泣いて。……正直さ、馬鹿なんだと思ったよ」

 秋穂は口が悪い。そのせいで僕まで口が悪い。……どっちが先かは、本当のところ分からないけれど。

「でもさ」

 覚えてるよ、僕も。

「面倒臭くなって先に帰ってる途中でさ、雨降ってきただろ? まだ咲く前の桜の木が揺れて、傘なんて持ってなかったから寒くて……。だから早く帰りたくてお前の手を掴もうとしてさ、掴めなかった」

 言ってしまってもいいけれど、今はまだ言わないでおく。仕返しだ。僕の気持ちに気付いていたのに知らないふりをしてきたんだから、これは仕返し。

「あの時、ようやくな」

 剣呑な視線は、いくらか柔らかくなって僕に向けられている。

「なんで女子が泣いたのか分かった。……変わらねえのに、変わるんだって。今月まで隣にいた奴がさ、来月も隣にいる。それは変わらないのに、あぁ、同じじゃいられないんだなぁ、って」

 子供ながらに思うのだ。正しいのかどうかは今でも分からないけど、思うことがあるのだ。

 寝てしまったら、もう同じ一日は来ないのかもしれない。

 朝起きて、ご飯を食べて、秋穂が家にやってきて、近所を遊び回って、一緒にお昼を食べたら、夕方までゲームをして、別れて、ご飯を食べて寝る。

 そんな土曜日の次は、日曜日だ。

 土曜も日曜も変わらないのに、今日と明日も、昨日と今日も変わらないのに、不安で眠れない日があった。

 明日、秋穂は家にやってくるだろうか。

 いいや、それ以前に。

 明日は本当にやってくるのだろうか。

 そんな簡単なことも信じられなくて、不安で、日付が変わるまでずっと目を開けていた夜もある。

「ようやく、気付いたんだよ」

 曖昧な笑みだった。嬉しいのか悲しいのかも、僕には分からない。多分、秋穂自身も分かってはいないのだろう。

「お前のことが好きだったんだ、って」

 嬉しいはずの言葉は、だけど胸を締め付ける。痛くて、苦しいほどに。

「変わりたくないって思った。正直、泣きたいくらいだった。バレたら嫌われるな、って。男が男を好きになるはずないし、お前とはずっと友達だったしさ」

 曖昧だった瞳に、自嘲が混じる。

「ま、結局杞憂だったわけだが」

 そして笑うのだ。自分ではなく、僕のことを。

「お前、ほら、いっつも折り畳み傘持ってただろ? ランドセルから折り畳み傘出して、寒いくせに顔真っ赤にしながら俺に渡してくるの見てさ、同じなんだって気付いた」

 だから――。

「だからな」

 秋穂の瞳から、熱が失せる。

「変わりたくないって思ったんだよ」

 その声音だけで、僕の意識は遠のいていく。

 だって、僕なら。

 秋穂が僕のことを好きでいてくれたと知ったなら、変わりたいと思ってしまう。もっと近付いて、友達ではない何かになりたいと思ってしまう。

 けれども、秋穂は否定した。気付いていたはずの、僕の想いを。

「ずっとこのままでいたいと思った。幼馴染でも友達でもいい。そのままがいいと思った」

 でも、僕も知っている。秋穂のことは。秋穂が考えすぎる性格だということは。

「手も繋げると思った。誰もいないところで抱きしめれば、嫌がらないだろうな、……っていうか、まぁ、喜ぶだろうなと」

「人を変態みたいに言わないでくれる?」

「変態なのか、今の」

 思わず茶々を入れてしまって、笑う。二人で、笑う。

「ま、だからさ、嫌だったんだよな」

 あっさりと告げる秋穂。

「そういう関係にはなりたくないと思ったんだよ。……結局、誰もいないところに行かなくちゃいけなくなるんだから」

 卒業式の日だったのだ。

 子供ながらに恥ずかしいと思うことはあっても、人目を(はばか)ることはあっても、誰からも隠れなければいけないことではないはずだった。

 ……普通なら。

 小学校を卒業して、同じ中学校に行くにしても別々のクラスになってしまうかもしれない男子と女子。そんな二人なら、雨の中で抱きしめ合っていても後ろ指は指されまい。

 しかし、僕たちは違った。男同士で、しかも親同士も仲が良い幼馴染。誰からも隠れるしかないと感じていたのは、僕だけではなかった。

「俺は、まぁ、我慢できる」

 秋穂は穏やかに続ける。

「クラスの奴らから、知らない誰かから、親からもさ、気持ち悪いと言われても我慢できる。……澄実以外の誰から何を言われても、我慢できる。気にもならない」

 当たり前のように言ってくれることが、僕には嬉しくて、少し寂しい。もっと恥ずかしがってもいいではないか。僕だって、もう少しは恥じらいというものを持っている。

「だけどさ、お前は――」

「うるさいよ」

 笑ってやる。

 いつも笑ってくる秋穂を。知ったような口で、瞳で、態度で笑ってくる秋穂を、今は僕が笑ってやる。

「知ってるよ。僕には我慢できないだろうって考えたこと。それでも我慢できるんだろうって考えたこと。僕なら秋穂と一緒にいるためになんでもするよ。母さんと父さんが気持ち悪いって言うなら、そんなのこっちから縁を切ってやる。おばちゃんとおっちゃんが言うなら、秋穂を奪う」

「勝手に奪うな」

「話の腰を折らないっ!」

 ふざけないとやっていられないのは、お互い様か。

「そんなことまで秋穂が分かってることを、僕は知ってる。ちゃんと分かった上で、秋穂は避けようとした。僕の気持ちも無視して、秋穂の独り善がりのために」

 僕が何も(いと)わないことを、秋穂は知っている。

 だからこそ、秋穂は嫌がった。僕が何もかもを捨てなくて済むように、僕が捨ててもいいと思っているものを捨てさせないために――。

「でも、僕は諦めないよ」

 独り善がりだ。

 愛耶は言い直した。秋穂も自分と同じだと、そう笑っていたように思う。

 だけど、違う。

 秋穂はもっと独り善がりだ。どうすれば相手が幸せなのかを知っていながら、それとは違う幸せを押し付けようとする。我慢ならないくらいに身勝手なばかだ。

「僕はね、秋穂と一緒に不幸にでもなった方がずっといいんだから。一人で幸せになるより、愛耶と幸せになるより、秋穂と不幸せになった方が幸せだから」

 後で連れていく。独り善がりでも構うものか。秋穂を連れて愛耶のところに行って、頭を下げさせる。こんな奴だけど友達でいてあげてください、って頭を下げさせる。……勿論、僕も謝らなくちゃいけない。

「それで?」

 秋穂は笑った。

 休みの日、僕に連れ出される時と同じ笑みだ。

「どうするっていうんだ、お前は」

 真正面から笑いかけられて、僕は。

 ……僕は、目を背けるしかなかった。

「一緒に……」

 卑怯なのだ。いつも、いつも、いつだって。

「僕は……、秋穂と一緒に、幸せになりたい。……です」

 僕が何を言いたいのか分かっているくせに、わざわざ聞いてくる。だから僕が言わなくちゃいけなくなって、いつも僕ばかり恥ずかしい思いをして。

「嫌だって言ったら?」

「どんなに嫌でも幸せにしてやる」

 あの本がなんだったのか、僕は知らない。

 ボロボロになるまで読んだ本をなんのために買ったのか、ボロボロにしてしまうほど苛立たせた本の内容を、僕は知ろうとも思わない。

 けれど、あれは僕だ。

 あの本を握っていた手を、僕が掴む。

 ヒューマンドラマ映画に出てくる酒乱の男、なんて言ったら印象が悪すぎるのは承知の上だ。でも、やっぱり、もっと悪質だろう。

 僕は、この面倒な男と付き合っていく。産まれた時から、……できれば、死んでしまうその時まで。

 秋穂がお酒に溺れる前に、僕に溺れさせてやる。それで僕は、秋穂に呑まれればいい。周りなんて見えないようになるまで、彼の心に呑まれてしまう。

 それでいい。

 最初から、普通なんかじゃなかった。

 普通なんて、どうでもいい。

「秋穂、どこか行きたいところとか、あったりする?」

 初デートはどこがいいだろう。夏休みには地元のお祭りがあるけれど、それは少し遠すぎる。どこかで映画でも見ようか。それとも今までにない遠出をしようか。

「布団」

「……は?」

 僕の浮かれた内心とは裏腹に、秋穂は真顔で言う。

「え、……えと、それはっ!」

 かぁっと熱くなっていく頬と胸と手……というか、全身。まずはお風呂を沸かさなければ。あとはおばちゃんをどこかに追いやらなければ。おっちゃんも。

「いや、つか、普通に眠い。寝たい。なんか続きがあるなら、また明日な」

 ……。

 お風呂、沸かしておこう。

 また風邪を引いたらいけないから、ちゃんと髪を乾かしてから寝るようにとおばちゃんに言っておいてもらおう。

「……うん。じゃ、また明日」

 我ながら重すぎる声だった。

「なんだよ」

 じっとりとした視線に射抜かれ、僕は肩をすくめる。

「こんなことも忘れてた自分に嫌気が差しただけ」

 今年で十七年目になるのだ。秋穂と付き合ってきて十七年。一時間にも満たない時間が、十七年かけて作り上げてきた関係を全く別のものにするわけがないじゃないか。

「……でもさ」

 それでもさ、期待はしていいと思うんだよ。

「恋人には、なってくれたんだよね?」

 なんで問うてしまったんだろう。恋人になったんだから、と一方的に言ってしまえばよかったのに。それで秋穂は嫌とも言わなかったのに。

 焦らすような沈黙が一分近くも続いて、ようやく、彼は僕を見てくれた。

「……この場合、二人とも『彼氏』になるのか?」

 こんな時くらい、素直に頷け。

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