六話
愛耶の家は、歩いて一分とかからないところにあった。
真美菜から逃げるために愛耶が向かっていたのは、彼女の自宅。いくらか迷ったようではあったけれど、最後には「二人とも帰りは遅いから」と言って僕を案内してくれた。
一人で帰してよかったのかもしれない。なんなら一人で帰らせて秋穂に電話するのが正解だったか。
でも、僕にはできなかった。
僕が彼女を思う以上に、彼女が僕のことを想ってくれていたから。いくらかの逡巡だって、家に帰るか公園なり喫茶店なりに行くかの違いでしかなかったのだろう。
手を離すのも不吉に思えて、僕は愛耶の手を握ったまま玄関の戸をくぐった。
……そういえば。
どうして僕が謝られたんだろう。
どうして愛耶から離さないんだろう。
同時にわき出た疑問は、一秒とて頭を占有することができなかった。
頬を濡らす涙。
それは、僕のものではなかった。僕のものではない涙が、けれど涙だと分かる形で、僕の頬を濡らしていく。
背に回された腕が躊躇いがちに肩を抱いて、硬い胸に柔らかい胸が押し付けられた。いつの間にか離れていた手を返すべきなのか迷ってしまった数瞬のうちに、泣きじゃくる声が耳元で生まれる。
「どうしたのさ。どうしたの。そんなに泣かなくたって、もう、大丈夫なのに」
気の利いた言葉の一つも浮かんでこないと自嘲していた頃、頬を髪の毛がこすっていった。必死に首を振って否定してみせる愛耶は、今までに見たこともない弱々しさをまとっている。
「どうしたの? 大丈夫だから。……ちょっと座って、落ち着こ?」
言いながら、玄関にそのまま腰を下ろす。愛耶の身体は軽く、それでも年相応には重い。そのほとんどが僕の足にのしかかってきて、少しは辛かった。その辛さを訴えるように、僕は愛耶の頭を優しく叩く。
「……ごめん、なさい」
耳元でなければ聞こえなかったはずの声。
「ずっと、ずっと黙ってた。騙してた。嘘ついて……、嘘で、笑ってた」
懺悔の言葉に、僕は頷く。
「そうだよ。僕だって、秋穂だって、みんな、嘘つきだよ。ずっと笑っていられるわけないじゃん。誰だって……、そうなんだよ」
抱きつかれて、抱きしめ返して。
こんなのは秋穂の仕事じゃないか、なんて、思わない。思ってはいけない。
「ずっと、ずっと、ずっと……!」
荒らげられた声音に、背から回した手で頭を撫でる。くしゃくしゃと、いつか秋穂がやってくれたように。
「いいんだよ、いいんだ。だから、……だから、大丈夫」
何が大丈夫なんだ。分からない。自分が何を言っているのか、何を言いたいのか、何一つ分かっちゃいないのに、ただ愛耶が落ち着いてくれたことだけは分かった。
「小学校で、いじめられてたんだよ、私」
独白に近い言葉は誰かに聞かれたがっていて、それは僕が受け取らなければいけないものだ。
「何も知らなかった。……ほんとに、誰だって知ってること、知らなかった」
大丈夫だよ、知ってるよ、だなんて僕は頷けない。僕だって、その頃には疑いもしていなかった。
「好きだった。ただただ好きで、……だから、知らなかった。女の子は男の子を好きになるものだって、知らなかった」
吐露は続く。
「すごく可愛かった。髪とか、いっつも良い匂いしてて。笑ってて。いつも一緒に遊んでさ、家にも行って、呼んで、よく遊んでた」
でも、と続けられる言葉の先を、聞きたくはない。自分と重ねてしまいそうで、恐ろしい。
「でも、嫌われた。気持ち悪がられた。なんで、って。……なんで女の子同士なのに、って」
小学校の低学年だったという。
それからの三年か四年、愛耶は嫌われていた。嫌われる、なんて生易しいものではないのかもしれない。彼女はいじめだと言ったけれど、そこにあったのは、いじめなんかではなかった。
拒絶か、あるいは『困惑』。
軽蔑にすら至らない、理解できないもの、全く別の何かに向ける、それ。
そんな生活が続くのは、幸か不幸か、小学校を卒業するまでだった。
両親の転勤が決まったのだ。単なる偶然なのか娘を想う両親の気遣いなのかは分からない。どちらにせよ、愛耶の辛いだけの生活は終わりを告げた。
その後移り住んだのが、この街、この家。
僕たちとは違う中学校に通っていたが、今通っている高校はどちらの中学からも進学する生徒の多い学校だ。僕が入学して以来その類いの噂を聞かなかったのだから、中学の三年間、愛耶は隠し通したのだろう。
違う自分を演じたはずだ。時には自分を殺したという。伝えたい想いを胸に押し込め、伸ばしたい手を必死に抑え付け。
彼女の三年は終わり、また、同じ三年が始まるはずだった。
「だからね、こんなこと言うと大袈裟かもしれないけど、運命だと思った」
愛耶は嬉しそうに告げる。見えていなくても、その輝く笑顔は見て取れた。
「最初はさ、何か事情があるのかな、って思ったんだよ。……いや、本当なんだって」
口を尖らせる彼女の声を聞いて、僕は僕自身の笑った声を思い出す。
「なんで女の子なのに男子用の制服着てるんだろ、って、本気で思った。正直、さ……。心が男の子なのかな、とも、思ったよ。そうだったらいいな、って自分が嫌になるようなこと、願ったりもした」
でも、僕と愛耶は一年の頃から同じクラスだ。願っていられる時間は、長くなかったことだろう。
「初めて入った教室で澄実を見て、本気で……、本気で、好きなんだって感じた」
愛耶は、笑う。
「だから、澄実が男の子だって知った時は、嬉しかった」
分かるよ。痛いくらいに、分かる。
僕だって、秋穂が男じゃなかったら……。
あのまま女子になったらちょっと気持ち悪いから、そこは少しくらい女の子っぽくなっても……。
秋穂が女なら、僕とは違う性別なら、どれほど嬉しかったか。何度も、何度でも考えてきた。
「運命だと思った。私にも男の人を愛せるんだって、私にも愛せる男の人がいてくれたんだって」
彼女の笑みは、枯れてなどいないだろう。
花は散れど、葉は残る。残された葉は、青々と。乗せた雫に太陽を当て、色鮮やかに輝くのだろう。
「でもね、運命は運命でも、私の想いは届かない運命だった」
僕が好きなのは、愛耶じゃない。
運命が微笑んでくれたのかどうか、それは愛耶の心に問うしかなかった。
「ずっと知ってた。最初からってわけじゃないけど、話しかける前には気付いてた。澄実が秋穂を好きだってこと。……気付かないはずがなかった」
長い、長い静寂。
外はもう暗いだろうか。暗いだろう。明かりのない玄関では、抱きしめているはずの愛耶さえも、僕にはよく見えてはいなかった。
「ずっと騙してた。澄実に、私のことを見てほしかった。見てくれたら、……もし手を繋いでくれたら、どんなに嬉しいだろうって、独り善がりに」
愛耶は首を振る。
「ごめん。また嘘ついた」
吹っ切れた声音に、うん、とだけ答えておく。
「私が好きなのは澄実だから。澄実だけだから。……そりゃ、秋穂も良いやつだとは思うけどさ? あれはほら、友達までしか無理だから」
「そんな言い方しないでほしいな。僕が好きな人なんだし」
「……え? じゃあ私が秋穂のこと好きでもよかったの?」
「それは……、卑怯」
二人でしばらく笑って、笑った。
僕を抱きしめていた腕が離れていく。僕の手からも髪が離れ、胸と胸が鼓動を伝え合うこともできなくなった。
泣きじゃくったせいで赤くなった愛耶の顔を見て、もう一度笑っておく。
「澄実と秋穂のどっちが好きかって、どっちが大切かって考えたら、そんなの澄実に決まってるしね」
先に立ち上がった愛耶に手を引かれ、僕も腰を上げる。
「行ってくるね」
「……そんなこと言うとさ、私のところに帰ってきてくれるみたいだよね」
隠しきれない期待が、抑えきれない願望が、声に滲んでいた。
「ねぇ。最後にさ、一つだけ聞いてもいい?」
躊躇いがちな愛耶の声音を、今日だけでどれだけ聞いただろうか。
「うん。いいよ」
頷かれてなお、愛耶は躊躇しているようだった。僕からすれば何気ない一言が、彼女にとっては身を刺す棘なのだ。
「秋穂のこと、いつから好きだったの? ……いつ、好きになったの?」
僕は手を振る。
愛耶は肩を叩いてくれた。
「分からないよ。いつだったかなんて」
でも、と僕は笑う。それが僕に許される精一杯だった。
「好きだって気付いたのは――」
背に向けた戸の先で「ありがとう」の声が途切れたのは、戸が閉まったせいか、それとも。
僕は、夏の夜に駆けていた。