五話
耳に届かない喧騒は、果たしてうるさいと言えるのだろうか。
週が明けて月曜日になっても、教室は喧騒に溢れていた。土日の出来事を言い合う女子に、飽きもせずアイドルやアニメの話に盛り上がる男子、早くも週末の予定に頭を悩ませている男女の隣で、彼と彼女は涼しい顔をしていた。
隣といっても、左と右、窓側と廊下側だ。秋穂と愛耶、二人は何をするでもなく座っている。
どちらかが椅子から腰を上げる度に、教室が一瞬だけ静かになった。彼か彼女が相手のもとではなくトイレかどこかに行くのだと見て取り、また教室が騒がしくなる。
そんな一部始終を教室の後ろから眺める僕は、何をしているのだろうか。
分からない。
分からないままに時間ばかりが過ぎていき、気付けば放課後。ホームルームが終わって、秋穂が席を立った。
愛耶の席に近付く姿を見て、誰かが息を呑む。
しかし、結局、何も起きはしなかった。
秋穂は愛耶の席の前を通り過ぎ、振り返ることもなく廊下へと抜けた。そこでようやく、ただ下校するために席を立ったのだと僕は気付く。
「私たちも帰ろっか」
愛耶の声。
ふと視線を上げれば、当たり前だけど愛耶が立っていた。また気付かないうちに考え事に耽っていたらしい。
「心配?」
「なんでさ」
愛耶は苦笑し、何気ない所作で肩にかけた鞄の位置を正す。それは無言の合図だった。行くよ、ほら立って、と。
返事も待たず歩き出してしまった愛耶に、けれども僕は手を引かれたのだと思う。座り込んだまま動けなくなってしまいそうだった僕に、手を差し伸べてくれたのだと思う。
「ねぇ、どこか寄る? 買い物でもお茶でも、どっちでもいいけど」
廊下で問われ、今度は僕が苦笑した。
「そのどっちかしかないんだ」
どこか行きたいところは、と続けて聞けば、愛耶は答える。
折角二人なんだし、なんて、わざとらしく。
洒落た喫茶店での一時は、思いの外早く過ぎ去った。
名残惜しささえ抱かせるようにコーヒーカップは空になり、微睡みに似た気分のままに夕日のもとを歩いている。
一人湯船の中で、あるいはベッドに敷いた布団の中で考え込んでいると、どうにも愛耶に抱いている感情を忘れてしまう。秋穂が秋穂が、と空回る思考は、その隣に立っているであろう誰かを忘れさせる。
こうして二人きりで話してみれば、愛耶は良い人だ。……いや、そんなことは今更すぎるけども。
けども、愛耶は良い女性だ。
秋穂と出会っていなければ、出会っていても好きになっていなければ、僕は愛耶のようなひとを好きになっていたのかもしれない。いつも穏やかに微笑んでいて、でも強い芯はちゃんとあって、口を開けて笑い合うこともできて……。
気付けば見つめていた瞳が、ふと僕を見つけた。
「……っ」
「え、なに」
ずっと止まっていた小鳥が飛び立ってしまった後の木の枝のように。
驚いて顔を背けた愛耶に、僕は思わず声を投げていた。
「い、いや、……ていうか、それ、こっちの台詞だからっ!」
何かいつもと様子が違う。
そう違和感を抱いた時、ようやく思い出した。僕の方からずっと見つめていたのだ。
「あっ、って、ごめんっ!」
よく分からない声が出る。
――よく分からない気持ちが、霧散した。
「いや、ごめん」
もう一度、繰り返しておく。その声は自分でも驚くほど、あっさりとしていた。
「なに? どうしたの?」
いつもの調子に戻った、愛耶の笑み。
「なんていうか……さ、謝らなくちゃいけないことがあるのかな、って」
今なら、できる。
心の底から、親友と友人に。
「あのさ――」
おめでとう、って、祝福できる。
ちゃんと仲良くするように、って、笑いかけられる。
「澄実」
心の中を読み取ったかのように、愛耶が僕の声を遮った。
彼女の綺麗な顔に浮かんでいた微笑が、しかし、消える。
「ごめん。ちょっと一緒に来て」
僕の手を掴んで、愛耶は歩き出した。いつの間にか止まっていた足が半ば強制的に動かされ、前へ前へと進んでいく。
見知った景色が過ぎ去り、見慣れない景色が続き、見知らぬ界隈に踏み込んでいく。
駅の一つや二つどころではなく歩いた僕は、手を引く愛耶が立ち止まったことで、ようやく休むことができた。
辺りを見回せば、そこは住宅街。閑静な、というほどではないにしても、僕や秋穂の家がある付近よりは落ち着いている。
その落ち着いた住宅街で、僕は息を切らしていた。僕の手を掴んだままの愛耶は、息も切らさずに一点を見据えている。
「……あ」
視線の先に立っていたのは、真美菜だった。両手でも収まらないカメラを首にかけ、ニヤニヤと笑っている。
「逃げなくたっていいじゃないですか」
開口一番、真美菜は核心をついた。
今の今まで僕が気付いていなかったこと。愛耶は彼女がいると気付き、僕の手を引いてきたのだ。
でも、分からない。
真美菜が愛耶を追ってくる理由は、分かる。噂の真相はどうなのか。……というか、事態は既に先へと進んでいるのだろう。写真を撮りたい。あわよくば、どちらか一方からでもコメントが欲しい。
そうした考えは、分かる。
だけど一方で、どうしてここまで追ってきたのかは分からなかった。
「なんで?」
口を衝いて出る言葉。
「なんで、こんなところまで? ただ誰かと誰かが付き合ってるってだけで……?」
歩いた距離が駅一つ分だというなら、分かる。遊びながら歩いて、さして疲れる道程でもなかったのなら、分かる。
しかし、愛耶は逃げるために歩いていた。
ただ歩くよりは早く、むしろペース配分までして淀みなく逃げてきたように思う。でなければ、僕にこんな長距離を歩くのは無理だ。夏の空は暗くなりかけている。
「だって――」
パシャリ、と夕方の住宅街にフラッシュが瞬いた。黒く無骨なカメラの向こう側に、ニヤリと吊り上がった口元が覗く。
「だって、面白そうじゃないですか」
カメラを下げることなく、時折フラッシュさえ焚きながら、真美菜は続けた。
「同じ中学校からの友人だった男子二人に、高校から一緒になった綺麗な女子。男が女を奪い合うかと思いきや、三人仲良く笑って遊んで」
言葉は、出なかった。
口を挟もうとする意思さえ握られ、潰される。真美菜に、ではない。僕の、僕自身の心に。
「でも、違った。実は二人がデキてて、そろそろ隠し通せなくなってきた。……そんな時に、だよ?」
機械の仕業なのだから、そんなことはないはずなのに。
一際眩しいフラッシュが視界を焼いた。戻っていく視界の中に、カメラを下ろす真美菜の姿がある。
「ねぇ、そんな時にさ――」
「うるさい」
口を衝いて出た言葉は、僕のものでは、なかった。
「あんた、うるさいよ」
冷えた声。あまりに冷えた、いつもの暖かさとは無縁の言葉。
「あらら、本性出ちゃ――」
「うっさいって言ってるの、分からない?」
だけど、知っている。
その冷たさを、僕は、ちゃんと知っていた。
「今までは我慢してたよ。……そりゃ、うるさかったけどさ。正直、目障りだったけどさ。澄実だけ呼び出して何か聞いてたのも、まぁ、許したよ。あぁいや、許しちゃいけないけど、わざわざ黙らせたりはしないって、決めたよ」
視界が白くなる。
シャッターを切る音は、一拍遅れて頭の中に反響していた。
「うん。これはこれで面白いかなって……」
ダメなんだと、僕は教えてもらえた。
そこが芯なのだ。
愛耶の暖かく、柔らかく、優しい形を支える、冷たくて、固くて、揺るぎない根幹。
「それ以上さ」
熱のない声だった。
僕の手に触れる愛耶の手に、力は込められていない。握り返したままの形で、僕が握っているだけだった。
「それ以上、近寄らないで」
真美菜の逡巡が手に取るように伝わってくる。それほどまでに濃密な一瞬が過ぎ去れば、もう、手遅れだ。
「それ以上、私に、私たちに近寄らないで。関わらないで。嫌いだから。あんたみたいな奴。そういう顔もさ、嫌いなんだよ。自分でやっておいて、困ったらへらへら笑うあんたみたいな奴、大っ嫌いなんだよ」
理解した時には、遅すぎた。
カメラを下ろしても、その顔にぎこちない後悔の笑みを浮かべても、遅いのだ。
「それ、貰える?」
笑って、手を伸ばす。
愛耶の指の先にあるのは、先ほどまで何度も視界を焼いた黒いカメラ。大切そうに握られたカメラ。
「え、ええと、ですね……?」
左足が半歩下がるも、それだけだった。真美菜の抵抗は、尽きる。
「今の時代、いくらでもコピーできちゃうし、あんまり信用してもらえないかなぁ、っていうのは、分かるんですけどね?」
おずおずとした、それこそ蛇に睨まれた蛙のように強張った口の動き。
「カメラだけは勘弁してほしいかなぁ、なんて……、思うわけですよね…………?」
はは、と乾いた笑みが静かな住宅街に落ちた。
「ねぇ」
力ない手を握ったまま、僕が一歩前に出る。真美菜は下がろうとして、恐らく、下がれなかった。
「愛耶のこと、誤解しないであげてね? 最初からそのつもりで言ってるんだよ。そういうカメラって何に保存してるのか分からないけど、まぁ、メモリーかな? それさ、渡してくれる?」
きょとんと数秒固まる真美菜。すぐに気付いて、空回る手で小さなメモリーカードを抜き取る。
「えっと、愛耶さんとか秋穂さんを撮った写真は全部この中に……」
言いながら差し向けられた手が、言葉とともに固まった。
「ごめんなさい。やっぱり、ですね、その……」
……。
どうやら、被害者は愛耶たちだけではないらしい。
「いいよ、そのままで」
足元を見回す真美菜は、メモリーカードを叩き割る手頃な石でも探していたのだろうか。愛耶が言い捨て、伸ばした手を小さく振る。早く渡せ、とか、そんな笑顔が怖い。
「……はい」
とことこ歩いてきた真美菜の手から奪われたメモリーカードは、五秒後には愛耶の踵の下にあった。
「次は、そっち貰うから」
「き、器物損壊罪というものをご存知でしょうか……?」
「知った上で言ってるけど」
ですよねぇ、なんて笑って、真美菜は頭を下げた。
回れ、右。競歩か何かのような足取りで去っていく真美菜が見えなくなるまで、愛耶は黙りこくっていた。
――そして。
「ごめん。……ごめんね」
握り返された手は、暖かいのに、冷たい。緊張なのか、恐怖なのか。僕にはない柔らかさを持つ華奢な手は、小さく小さく震えていた。