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四話

「澄実さん、ねぇ澄実さん、聞いてるんですかっ?」

 うるさい。

「本当のところ、どうなんでしょうか」

 うるさい。

「ねぇ、澄実さんっ!?」

「うっさいよ、いい加減ッ!」

 怒鳴ってしまった。

 気付いた時には、パシャリ、と視界が真っ白に染め上げられている。

「澄実さんの怒った顔、いただきました」

「肖像権って知ってる?」

「ほほう、写真部の私にそれを訊ねますか」

 うるさい、うっさい。というか、うざったい。

 僕がいるのは高校、けれど本校舎からは少し離れた技術棟の三階廊下の突き当り。目の前にいる僕より小柄な女の子は、それでも同級生の真美菜(まみな)。自称写真部のエース、その実態は新聞部気取りの困ったちゃん。

 そして、現在。

 僕は彼女に狙われていた。それも最悪の理由で。

「ねぇねぇ、知ってるんじゃないですか? 秋穂さんと愛耶さん、実際のところ、どうなんです? やっぱり付き合ってるんですよね?」

 真美菜が僕をこんなところに呼び出した理由、それは『噂の真偽』。秋穂と愛耶が付き合っているのではないか、というのは、クラスでは有名な噂だった。

 モテる者同士と考えてみれば、愛耶の相手に佳乃が挙げられることもある。でも、二人とも困ったように笑いながらも世話を焼くタイプに見え、あまり付き合っている姿を想像することはできない。

 そこで出てくるのが秋穂だ。

 僕から見ても二人はお似合い。加えて、二人は普段からよく話している。だらけている秋穂と、それに呆れつつも離れていかない愛耶。お似合いと評する以外になんと言えばいいのか分からない。

「そんなの、僕に聞かれたって分からないよ」

 突き放すように、けれど本音で答えた。

「えぇ? だってお二人さんと一番仲良いの、澄実さんじゃないですかぁ」

「一番仲良いから知ってる、って、そんな理屈はないよ」

 真美菜のいう噂は以前からあった。

 ただ、それはテレビやネットに触発されて始まる七不思議の類いより幾分か現実味があって身近な話、という程度に過ぎなかったはずだ。

 その暇潰しにも等しかった噂がより大きな声で、より明瞭な信憑性を持っているかのように囁かれ始めたのは、()しくも秋穂が風邪で休んで以降。

 翌日からすぐに、というわけではなかったと思う。

 僕の耳にも噂が届いたのと前後して、秋穂と愛耶は『デート』をしたのだと聞いた。伝聞に伝聞を重ねただけの噂でも、囁く声が大きく多ければ事実と大差なく受け入れられる。

 それに、デートだったかどうかを脇に追いやれば、秋穂と愛耶が二人きりで出掛けたことは紛れもない事実だ。噂を確かめるべく訊ねた僕に、秋穂は隠すことでもないと言わんばかりに教えてくれたのだった。

『あぁ、その日な。ほら、あの駅前ビルの一階にあるだろ、コーヒーとか売ってる店。あそこ行ってた』

 駅前ビルなど少なくはないけど、そこはそれなりに有名なビルで、店だ。高校生が好むものではないにせよ、地元の中学生なら定番のデートスポット。僕たちの中学からは遠かったけれど、愛耶の中学ではその店にこっそり行くのがお決まりだったと聞いたことがある。

 普段は聞く前から愚痴をこぼしてくれる秋穂も、その時、その場であった会話を口にすることはなかった。

 だから、僕は知らない。

「知りたいなら、本人たちに聞けばいいじゃん」

 何か言いかけた真美菜を置いて、踵を返す。これ以上は押し問答だし、僕だっていつまでも付き合ってあげられるほど余裕があるわけじゃなかった。


 相も変わらず猛暑の日々。

 教室で囁かれる噂、真美菜に真相を訊ねられた二人の秘密。

 苦しいほどの暑さに逃げたがっていたのか、その日の体育で、僕は脇目も振らずに走り回った。なんでこうも暑いのにグラウンドに出てサッカーなどするのだろう、と思ったことはある。

 けれど、それが正しい理由ではないと分かった上で、僕は思うのだ。

 青春の夏。

 甘酸っぱく、ほろ苦く、ぎこちない想いや矛盾を孕んだ不器用な若者たち。

 せめて暑さに息を切らし、汗と砂に塗れて何もかも忘れられる時間がたった五十分でもあるなら、それは救いだろう。

「なんだよ、突然張り切って」

 僕の机の上から勝手に汗拭きシートを持っていった秋穂は、呆れるように見下ろしてきていた。うんともすんとも返さない僕に、秋穂は肩をすくめてみせる。

「嫌なことでもあったか?」

 伸ばされる手。制汗剤の臭いが残った手が僕の鼻先を過ぎて、頭を触った。

 汗だくの髪と一緒に、ぐちゃぐちゃと支離滅裂な心の中が掻き乱される。覚悟していたつもりで、耐えられると過信していた。僕は、僕のことを、もっと強いものだと思っていたらしい。

「嫌なことは、何もない」

 決壊しそうになった心を押し留める中で、ようやく自覚できてくる。

 諦めたつもりで、呆れたつもりで、本音のところは向き合ってすらいなかった。

「そうか。なら……、いいんだけどな」

 見上げた先には秋穂らしくない笑みがある。凪ぎが雲を押し流さず、けれど雲は雨を孕まぬような。複雑で、曖昧な笑み。

 だからこそ、それは秋穂の笑みだ。僕が知る、僕だけが知っていたつもりの、笑みだった。

「そういう秋穂は?」

 くすりと笑っておく。

「今日は張り切ってないみたいだったけど、何か嫌なことでもあった?」

「いいや、なんもない」

「そっか。……なら、いつも通りだ」

「あぁ、いつも通り」

 秋穂の顔に、先ほどの笑みはない。

 僕の顔にも、乱れた内心は出ていないはずだ。

「じゃあ、いつも通り起こしにいってあげる」

 そう笑って何気なく過ごした、その翌日。いつも乗る電車に、秋穂の姿はなかった。

 そして、僕は。

 戸をくぐった先の教室に、秋穂の曖昧な表情を見つけた。

 僕の耳には、誰かの言葉が飛び込んでくる。潜められているせいで明瞭としなかった言葉は、しかし見つけてしまった愛耶の背を眺めているうち、耳の奥に溶け込んでいった。

 昨夜。

 秋穂の家に愛耶が泊まったらしい、と。


 なんであんなことを言ってしまったのか。

 後悔はいくらでも浮かんでくるのに、都合の良い言い訳は浮かばない。

 進展した噂を聞いた日からも日常は過ぎ、ようやくの休日、土曜日となっていた。けれども僕の心が晴れることはないし、口にしてしまった言葉が消えてなくなることもない。

 なんで、僕は。

 起こしにいくだなんて言ってしまったのだろう。

 わざわざ口にする必要なんてなかったのに。いつも通りなら、突然訪ねて勝手に部屋に上がり込めばよかったのだ。

 そう喚く心中の一方で、言っておいてよかったと考えている自分もいる。

 あらかじめ伝えておけば、僕は勝手に上がり込んだ部屋に愛耶を見つけずに済むだろう。

 (すく)む足に言い聞かせながら、誰よりも押してきた自信のあるインターホンのボタンを、今日も押す。

 いつも通りに出迎えてくれたおばちゃんが、複雑そうに笑いかけてきた。

「あんな美人なお友達がいるなら、澄実ちゃん、教えてくれればよかったのに」


「で、なんだ? お前は馬鹿みたいに誤解してたと?」

「はい。……はい。でも、だったら否定すれば――」

「したわ、ボケ。したところで誰が聞くんだ、あの状況」

 事の真相は、まぁ、至って在り来りなことであった。

 あの日の夕方。

 秋穂の家に愛耶が来たのは事実だ。しかし、夜どころか日が沈む前に帰っているという。

 ではどうして泊まったなどと噂になったのかといえば、忘れ物に気付いた愛耶が朝早くに秋穂の家を訪れ、そのまま一緒に登校したからだったらしい。あの日いつもの電車に秋穂がいなかったのも、愛耶のせいで二度寝できなかっただけの話だ。

「うぅ……」

 急に自分の後悔やら葛藤やら、なんなら昨日と一昨日お風呂の中で考えていたことまで恥ずかしくなってきて、ただ唸りながら秋穂を睨むしかできなくなってしまう。

「なんだよ」

 秋穂の呆れ顔に腹が立つ。

「でもさ、愛耶の家って反対じゃん?」

 そもそも、だ。僕と秋穂は小学校に入る前からの付き合いだ。当然家は近くにあって、乗る電車も同じ。家のすぐ近くまで僕たち二人だけだったのに、どうして愛耶が出てくるのか。

「聞いてどうすんだ?」

 笑いながら軽く返されると、余計に腹が立つ。

「だって――」

 だって、……なんなんだろう。

 自分が何を言いかけたのか分からなくなって、だから、気付いた。

「聞かれたくないこと、話してたんだ」

 からりと晴れた、含みも何もない笑み。

 秋穂の顔に貼り付いたいつもの笑みは、彼の本当の表情ではない。彼はいつも考えていて、考え過ぎていて、だからこそだらけているのだ。だらけて、何も考えていないように振る舞うのだ。

 そんな秋穂の本当の笑顔は、暗さも明るさも呑み込んだ複雑なもの。配慮があって、遠慮があって、憂慮があって……。そんな優しげな笑みなんだ。

「だから」

 心のうちの言葉に、僕は声を続かせる。

「今の秋穂はさ、僕に隠したいことがあるんだよね?」

 一瞬だけ凍りついた口の端が、ニヤリと吊り上げられた。久しく聞かなかった、秋穂の笑い声。上面ではない、心の底から溢れてきた楽しげな、嬉しげなもの。

「あぁ、あるだろうさ。いくらでも」

 そんな挑発的な笑みは、もしかすると、僕の口元にも浮かんでいるのかもしれなかった。

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