三話
曇り時々雨。
燦々と照る太陽はおろか、『お洗濯日和でしょう』なんて伝えてくれた朝のニュースさえも忌々しい。
「澄実、汗拭きの一枚くんね?」
「あぁごめん今日切らしてる」
黙れ、そして黙れ、ついでに近寄るな。
そんな心の奥底で抱いてしまった怨念を察したかのように、クラスメイトはそそくさと自分の席に帰っていった。
「なんか嫌なことでもあったんか?」
訊ねられて、仕方なく、本当に仕方なく顔を上げる。僕を見下ろしていた顔は、いつも見るだらけたものではなかった。さっぱりとしたイケメン。このクラスで愛耶と双璧をなす男子側の最高峰。
「佳乃か。黙っておいてくれない?」
「……それ、割とひどくないか? てか、そんなキャラだったっけ?」
誰に対しても気安い調子で話しかける一方で、当たり前の気遣いもちゃんとできる高校生にしては貴重な人材である。人によっては眉をひそめる冷たい言葉も冗談として流せる出来た男なのだが、今日だけは邪魔だ。うるさい。
「あいついないとさぁ、なんかさぁ」
佳乃は佳乃なりに気遣ってくれているのだと分かる。
イジメというほどではないにしても、何か嫌な思いをした同級生がいるなら声をかけて、できることなら改善していきたい。
そんな善良な心を持っているのが佳乃だし、それゆえに女子からモテる。あれだけモテて、その上特定グループに属すわけでもないというのに、男子から嫌われている様子もない。
「あいつって、秋穂か?」
「そ、秋穂秋穂」
僕はため息をつく。
本日は晴天なり。けれど僕の心は曇ったまま、時折雨がぱらつく程度。
秋穂が学校を休んだのだ。担任の先生は『体調を崩したらしい』などと曖昧に説明していたが、僕はおばちゃんから直接電話を貰っていた。
七度九分の熱。
微熱と言っていいのかは微妙なところだが、秋穂にしてはかなり珍しいことで、当然ながら登校できる状態ではなかった。
「秋穂がいないと、……なんていうか、ストレスの捌け口に困る」
隠すことでもなし、僕は呟いていた。その根底に秋穂への想いがあることは自覚しているけれども、表面的には言葉の通りだ。
「ひでぇな、それ」
佳乃は笑った。
「ま、でも分かるわ。君ら仲良いしな。あんだけ気楽に言い合えるなら、少しはストレスも減るだろうしなぁ」
「おー、案外分かってんじゃん」
「……案外? 俺ってさ、結構そういうキャラで通ってんだよ?」
からからと笑って、佳乃は踵を返した。捨て台詞のように「変な気ぃ遣って悪かったよ」なんて言っていったけれど、謝るべきは僕のほうだ。
秋穂がいないことに苛立っているわけではない。……と、思う。
ただ、秋穂が普段とは違う状況にあることが、辛かった。不愉快と言っていいのかもしれない。あるいは居心地が悪いと言っていいのかもしれない。
単なる風邪だろう。そうでなくとも、夜更かしして免疫力が落ちていたとか、その程度のことだ。
でも、それは表面的なことでしかない。
僕がストレスの捌け口を失ったように、秋穂も風邪を引いた。
僕が普段なら感じずに済むストレスを感じているように、秋穂は何かを抱えている。……でなければ風邪なんか引かない、なんて言うと、お医者さんには叱られるのだろうか。
「大丈夫?」
「だいじょばないよ」
不意に脇から投げられた声に反応できたのは、偏に普段の習慣ゆえ。
秋穂が休もうと、愛耶は登校してくる。意外と珍しいことに、今日は僕と愛耶の二人だけだ。
「秋穂、大丈夫そうだって?」
「あっちは大丈夫でしょ。がっつり食べて一晩寝れば元気になるよ」
言ってから、ふと気付く。
「お見舞いでも行く? ……って、家くらい知ってるか」
「まぁ、……ね」
不自然な間は、けれどすんなり心に落ちた。
家くらいは知っている。その後に続く言葉は、『同級生なんだから』とか『友達なんだから』だったのだろうか。それとも――。
「あぁ、でも、お見舞いには行かないよ」
普段通りの気さくな笑みで愛耶が言う。晴天に似合う笑顔が、僕の雨勝ちの気分にも輝いて見えた。
「澄実はさ、どうするの?」
「どうしよっかな。……そりゃ、ちょっとは顔出すけどさ。居座るわけにもいかないし」
僅かな沈黙。いつもなら流れない、ぎこちない沈黙。
「じゃ、暇かな?」
「暇だね」
「……付き合ってくれる?」
「……暇だからね」
これで秋穂へのプレゼントか何かを一緒に選ばされたら寝込むぞ、僕は。
そんな愚痴さえ浮かびかけたが、結局、それは杞憂に終わった。
からんからん、とイメージ通りの音が鳴る。
落ち着いた雰囲気の内装に、やっぱりイメージ通りの初老のおじさん。カウンター席には中年から高年の男女が数人座っていて、うち一組は夫婦だろうと分かる。
静かなカウンター席の脇でテーブル席に腰を下ろしているサラリーマン風の男の人。そこから一番離れている席で声を潜めて笑い、話す女子高生たち。
「お好きな席にどうぞ」
三十半ばだろうか。
豆を挽いている初老のおじさんが店主だとしたら、彼女は一人娘に見える。……勿論、ただの想像。実際には女性の方が店主で、おじさんは老後の余暇で働きに来ているのかもしれない。
「テーブルでいい?」
「いいよ。……ていうか、そっちの方がいいかな」
愛耶に先導されるがまま窓際のテーブル席につく。反対側に手を伸ばすのも難しくはない丸テーブルに、丸椅子が二つ。窓から視線を流せば、周りより遅れて咲いたらしい紫陽花がまばらに見える。
「良いところだね」
「初めて来たの?」
「……だって、秋穂連れて入る店じゃないでしょ?」
そう言いながら、愛耶は苦笑した。
ふんわりと、というのも変な話だけど、そんな足取りでテーブル脇までやってきた女性店員さんに注文を告げる。
その間、僕の頭には取り留めのない考えが浮かんでいたようだった。愛耶は秋穂とこういう店に来たかったのかな、とか。なんで今日はこんなところに来ようと思ったんだろう、とか。
気付いた時には、自分が何を考えていたのかも上手く思い出せなくなっていた。
「でもさ、来てみたかったんだよね」
偶然か、それとも察してくれたのか。
「ほら。いつも三人じゃん? 秋穂ってこういう店よりも料理ある店の方が好きだしさ、静かな店で話すよりうるさい店で話す方が好きだしさ。だからって一人で入れる感じでもなかったし、やっぱり……」
愛耶は目を逸らした。
店員さんがコーヒーカップを二つ持ってきて、テーブルに置いていく。
「……やっぱり、澄実と二人の時しかないかなぁ、って」
視線だけ返して、僕はコーヒーを口にする。それを見て、愛耶もカップを手に取った。
「でも、ありがと」
「うん……、美味しかったね。すごく」
でもね、知ってる?
言いたくなった。言いたくなったけれど、黙っておいた。
『秋穂は、こういう店も好きだよ』
それを言ってしまうと、愛耶はまた、僕から離れていってしまう。僕よりもっと、秋穂に近付いてしまう。
そんな勝手な思いがあって、僕は一言だけで話すのをやめた。
コーヒーの湯気が、ゆらりゆらりと僕たちの間に消えていく。
「……また」
愛耶は何かを言いかけた。
「うん。また、誘って」
もう一度、僕は窓の外を見やる。
秋穂がいなかった一日は、けれど曇りのままは終わらなかった。
梅雨が明け、けれどまだ燻ぶっているような、それでも晴れやかな夏を感じさせるような。あの紫陽花たちに似た鮮やかさが、僕の心には生まれていた。
「ありがとね」
申し訳ないことをしてしまった。
そう思いながら告げると、愛耶は曖昧な笑みで返してくれる。
「こちらこそ」
この話をしたら、秋穂はどう思うんだろう。
僕の心は、晴れていた。